大切だったのは

 恋でもなく

 ましてや愛でもなく


 唯彼が一番大切だという事だけ










恋と愛と歪んだ愛情【prologue】











「新一は本当に………いや、もういいよ」


 最後まで紡げない程の怒り。
 いや、怒りというよりはもっと違う何かだったとは思うけれど。















 一番最初に感じたのは温かい温もり。
 次に感じたのは懐かしい匂い。

 そして最後に感じたのは―――左腕の鈍い痛み。















「んっ…」


 暗闇から引きあがってきた意識。
 それを更にこちら側に戻そうと目を開いても、目の前にはまた暗闇が広がっていた。

 唯一の光は窓から差し込む淡い月明かりだけ。

 闇からその窓に引き寄せられる様に瞳を向けた時、傍の気配が漸く現れた。


「か…いと」


 視線を向けた先にいた人物。
 一番大切な人。


「………」


 漸く合わされた視線。
 けれど、それは―――冷えきった瞳だった。


「快斗」
「………」


 深い深い深海のような瞳。
 暗い暗い藍。


「快斗」
「………」


 返ってくることのない答え。
 その理由を知っていたけれど新一はその名を呼び続ける。


 それがいかに残酷な事かを知りながら。


「かい…」
「もういいよ…」


 漸く紡がれた言葉。
 けれどそれは酷く暗く重い溜息と共に吐き出された。


「何がだよ」


 解っていた。
 でも、新一は彼の口からそれを聞きたかった。


「新一は本当に………いや、もういいよ」


 けれど快斗はもうその言葉を紡ぐ事すら諦めたようにそう言うと再び口を噤んでしまった。


「何がもういいんだよ」


 それでも新一は真っ直ぐに快斗を見詰め続ける。
 それが更に快斗を追い詰めるのだと知っていて。


「全部だよ」
「全部って…」










「全部だよ! 自分を大切にしない新一も、それを助けられない俺も……もう全部どうでもいい!」










 頭を抱え、叫ぶように吐き出された思いほんね
 新一が一番聞きたかった言葉。


「じゃあ、さっさと俺のことなんて置いて帰れ」
「っ…!」


 間を措かず冷たく言い放つ言葉。
 それが新一の願いほんね


「もう全部どうでもいいんだろ? だったら今すぐ帰れ」
「そんな事…出来る訳ないだろ!」


 紡ぎだされる想い。
 消えない思い。


「怪我した新一を置いて帰れだって? そんな事出来る訳ないだろ!」
「でももうどうでもいいんだろ?」
「それは…」
「だったら今すぐ帰れるじゃないか」


 淀みのない済んだ蒼。
 暗く沈みこんだ藍。

 端から勝負になどならかった。





「帰れよ」





 それが最後。
 最後の思い。

 それで最後だと思っていた。
 それで全てが終わると思っていた。

 少なくとも新一だけは。















「―――新一は…俺の気持ち考えてくれた事あるのかな…」















 けれど、返って来たのは少し予想外の言葉。
 最後の最後で紡がれた言葉ほんね


「俺は新一の事をいつも考えてる。
 冗談抜きで本当に朝起きてから夜寝るまで。
 それこそキッドをしている時ですら新一の事を考えてる」
「………」


 抑揚のない声で語られる想い。
 言葉が紡がれる度に快斗の顔からは表情がなくなっていく。

 代わりに貼り付けられたのは最近では新一には見せなくなっていた鉄壁のポーカーフェイス。


「でも…新一は違うみたいだね…」


 寂しげに響いた気がした。
 でも表情からは快斗の感情は読み取れなかった。


「そんな事…」
「そんな事ない。そう言うの?
 事件があれば俺と居たって何をしてたって飛び出して行くのに?」
「それは…」
「それだけならまだいいよ。
 でも新一はそれだけじゃ足りないんだろ?」
「………」


 声に抑揚はない。
 それでも辛辣な言葉は紡がれているだけで痛いのかもしれない。


「新一は…そんなに俺の傍に居たくないんだね……」
「そんな事…」
「そんな事ない? まだそんな事言うの?」


 今まで少し俯き加減で言葉を紡いでいた快斗が漸く新一と視線を合わせ―――。




















「だったらどうしていつもそんなに死に急ぐような真似するの?」




















 ―――そう言って少し悲しそうに、それでも無理に笑おうとして失敗した泣き笑いの様な表情でそう言った。



「別に死に急いでる訳じゃない」
「じゃあどうして拳銃持ってるような相手の前に進んで出て行くの?」
「それは止める為…」
「嘘だ。新一は解ってたんだろ? 撃たれる為に前に出たんだろ?」



 今日、日付的にはもう昨日になってしまっているだろう。
 昨日の事件は立て籠もり事件だった。

 けれど人質はなく、危険物もなく。
 ただ有ったのは犯人と拳銃だけ。

 警察が踏み込めば直ぐに解決する筈だった。

 けれどそこに―――新一は敢えて何も持たず単独で乗り込んだ。



 それを聞いた時の快斗の気持ちをどう表現したらいいのだろうか。

 最初に眩暈がして。
 次に頭が真っ白になって。

 最後に―――自分は彼をこの世に繋ぎ止めておける足枷にもなれないのだと実感した。





「俺は新一にとって何?」
「………」
「ねえ、踏み込む前に少しでも俺のこと考えてくれた?
 撃たれた瞬間でもいい。少しでも、ほんの一欠片だけでも俺のこと思い出してくれたの?」


 零れ落ちるように溢れてくる言葉。
 今まで蓄積されてきた不安。

 そして、その不安が確証に変わった苦しみ。


「きっと思い出さなかったんでしょ?」
「………」


 肯定の代わりの沈黙。
 それは声にならない答え。


「やっぱりね…。新一にとって俺は所詮その程度の人間なんだろ?」


 苦しみの中の確信。
 今まで目を逸らし続けていた事実。


「新一にとって俺は都合が良かっただけなんだ。
 怪盗で、裏の社会に足を踏み入れているような奴で。
 隣に居やすかっただけだろ? 別に俺じゃなくても…」
「違う!」


 痛む身体。
 それでもその言葉には新一も飛び起きずにはいられなかった。


「違う…」
「何が違うんだよ」


 普段なら。
 いつもならそんな事をすれば無理にでも快斗は新一をベットへと逆戻りさせていた筈。

 でも、今は距離を保ったまま。

 それが快斗の思いを。
 快斗の不安を煽った罰かの様だった。


「違う…」


 もっと言いたい事はあった筈だ。
 言える事はあった筈だ。

 そう思っても新一の頭はいつものように回ってくれない。


「違わないよ。
 お綺麗な名探偵は自分を正当化したいだけだろ?『好きだから一緒にいた』とでも言うつもり?」


 新一に辛辣な言葉を向けながら快斗は笑う。
 けれどそれはまるで自分へと向けられているかの様な自嘲的なモノ。


「新一はさ、自分が大事なんだろ?
 自分と事件と。
 だから新一と対等に張り合える俺を選んだだけだ。
 俺だから一緒に居た訳じゃない。
 同じぐらいの能力を持つ奴なら誰でも良かったんだ。
 俺が居なかったら…それこそ服部や白馬で良かったんだろ?」
「ちがっ…」
「違わないよ、名探偵」


 ふわり、と一瞬空気が揺れた。
 次に現れたのは最初に感じたあの冷涼な空気。


「もう、必要ないでしょう? 貴方が求めていたのは自分と張り合えるだけの人間」
「かい…」
「居ませんよ。ここにはもう『黒羽快斗』は存在しない」


 それを証明するかのように彼の服が純白へと変わる。


「貴方が求めていたのは私なのでしょう?」
「キッド…」
「好敵手である私を欲していた。それだけなのでしょう?」


 紡がれる言葉はもう冷たさしか残っていなかった。

 想いも。
 痛みも。
 苦しみも。

 全部抜け落ちた抜け殻の様だった。








「貴方が望むなら私はいつだってお相手しますよ? 名探偵殿」








 それだけ言って―――――白い影は姿を消し去った。






























「快斗…」


 彼の居なくなった場所を見詰め、ぎゅっと拳を握り締める。


「違うんだ…」


 今更何をしても。
 今更何を言っても。

 どうにもならないと。
 元には戻れないと知っていた。


 それに――――これを望んだのは自分だった。


 それでも、この思いは。
 この消し去れない想いは。

 そして、彼を追い詰めてしまった事実は。


 どこに行けば消し去る事ができるのだろうか。
















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