消えればいい
全て消えて
全て私の中から消え去って
そして貴方色に染まれたら
貴方色に生まれ変われたら
私はどれだけ幸せになれるのでしょう
消せない罪
消す事の出来ない過去。
消す事の出来ない思い出。
そして、消す事の出来ない罪。
分かっている。――全ては私のしてきた事。分かっている。――全ては私が背負うべき罰。
けれど、それでも耐え切れなくなったこの思いはどこに行けば良いのですか?
心が凍える。
心が侵食されていく。
過去の痛みを思い出すたび、私の中を罪という名の毒素が侵食し、私を蝕み、そして内側から壊していく。
虫が中から食い破るように、ゆっくり、けれど確実に痛みを伴って。
早く壊れてしまいたい。
壊れたい。
崩れたい。
死滅したい。
けれどそれはあくまでもこの現実から逃げる事にしかならず、内から食い破られていく感触から逃げる事にしかならず、何の解決にもならない。
まして、自分が死んだ後その後片付けをしてくれるであろう人の事を考えると安易にも死ねない。
全てから逃げ出したい。
けれど、それは赦されぬ事。
罪人である自分は死を願い。
罪人である自分は死さえ赦されない。
それは罪に対する相当なる罰。
ならば与えられるまま、壊れ行く事無く、私はその罰をこの命が果てるまで受け続けなければならないのでしょう。
「よ、こそ泥。今日も仕事は順調か?」
いつもの様に現場で何気なく掛けられた一言。
彼は言う。
軽く、からかう様に。
それがどれだけ私の心を侵食していく毒素を作り出すかも知らずに。
「ええ、今日も順調ですよ」
だから私は笑う。
彼に自分を侵食している毒素を撒き散らさぬ様に。
「そりゃ良かったな」
たいした感情も籠められぬままに発せられる言葉。
けれど、そのたいした意味もない言葉にすらあまりに敏感になり過ぎた心は叫びだす。
ヤメテ
モウシャベリタクナイ
「ええ。私もこの寒空の下から早く温かい部屋に帰りたいですからね」
帰りたい。
カエリタイ。
早くこの場から逃げ帰りたい。
「態々来てやった俺を置いてか?」
クスッと彼は笑う。
いつもの不敵さで。
彼は変わらない。何も。
彼は変われない。いつも。
壊れない程の強さと、正義と真実という名の宝刀を持っているから。
「名探偵には申し訳ないですが、私は今宵貴方を此処にお呼び立てした覚えはありませんよ?」
これ以上は壊れてしまう。
これ以上は崩れてしまう。
魔法が解ける前に、全てが崩れてしまう前に、早く逃げ帰りたい。
「今日は随分つれないんだな」
彼の不敵な笑みが一瞬崩れた。
それすらも、最早どうでもいい程に、自分に余裕がなかった。
「貴方と悠長にお話ししていられる程私も暇ではありませんので」
自分でも情けないと思う程に、怪盗紳士という名から逸脱した言動を取ってしまっていた。
それは『余裕が無かった』では済まない程の、キッドの名を汚す最低な行為。
「そっか…ならこれを見ていく暇もないか?」
ひらりと風に舞った一枚の写真。
反射的に手に取っていた。
「これは…」
「お前が今手にしているビッグジュエルの所有者だよ」
写真には小学校低学年ぐらいであろう、少女が写っていた。
その手には……。
「お前が今手にしてるそいつはお前にとっては唯の今夜の獲物に過ぎないかもしれないが、その子にとっては母親の唯一の形見なんだよ」
「………」
写真の中の少女手に持たれていたのは綺麗な布に包まれている骨壷。
その少女の事は調べてあった。
そしてコレが彼女の母親の形見である事も。
分かっていても辞める事の出来ない理由がある。
それをこの目の前の彼は知らないし、知らせる気もない。
正義という名の下に何を言っても許されると思っているこの彼だけには。
「分かったらさっさと返せ。今頃その女の子は泣きじゃくってるだろうからな」
「………」
言葉を発する事すら出来なかった。
いや、言葉を発したくはなかった。
――できるなら感情というもの全てを捨て去ってしまいたかった。
「返却をお願いします」
「ああ」
それだけ言って写真とそして今日の獲物を彼に返すので精一杯だった。
ここまでは耐えられた。
そう、このまま帰れば耐えられた筈だった―――。
「お前さ…盗む時に盗まれる方の気持ち考えたことあるのか?」
―――彼のこの一言さえ、その夜この場に存在していなければ。
「それは…どういう意味ですか?」
「そのままだよ。盗む時にその所有者の気持ちを考えるのか、って聞いてるんだ」
「………」
「どうせそんな事考えてないんだろ?
まあ、もし考えてるような奴なら盗んだ後に態々相手に返したりするような愉快犯みたいな真似しないだろうからな」
抉られていく。
心が。
侵食されていく。
彼の言葉に。
「何が楽しいんだよ。そんな事して」
今までの思いが。
誰にも言う事の出来なかった気持ちが。
自分が今は『怪盗紳士』なのだという事を俺に忘れさせてしまった。
「貴方に何が解るって言うんですか!」
気付けば叫んでいた。
気付けば泣いていた。
情けない事に、その日の俺は正に子供だったのかもしれない。
「何が楽しいのか、ね…」
あのまま、あの叫んだ後、煙幕を使い逃げ出してくるのが精一杯だった。
帰ってきて、キッドの衣装も脱がぬままベットにダイブするのが精一杯だった。
視界に入るのは先代のキッドのパネル。
そこに居るのはキッドであり自分の父親。
「なあ、父さん。父さんは辛くなかったのか?」
誰にも言えぬ秘密を一人抱え。
『怪盗』という名の汚名を背負いながらも『永遠』を探し続けた孤高の魔術師。
辛くなかったのかと。
苦しくなかったのかと。
今だからこそ聞きたくなる。
「もう俺疲れたよ…」
まったく関係ない人間の噂話や。
日々テレビで流れる勝手な推測や憶測。
誰も何も本当の事など解っていないのだと。
本当は自分だって―――。
弁解など出来ないのは解っていた。
自分はあくまでも『怪盗』
義賊なんて言われていてもやっている事はあくまでも罪。
決して正義にはなれない。
「もう疲れたよ…」
何もかもが自分を責めている気がする。
そしてあの瞳が一番――――――今の俺には苦痛だった。
「よっ、こそ泥。今日も仕事は順調だったみたいだな?」
会いたくないと思っていたのに。
絶対に今日は来て欲しくないと思っていたのに。
こんな時に思う。
神様なんて絶対にいないのだと。
「何の御用ですか、名探偵」
もう『怪盗紳士』なんてやっていられなかった。
彼に対してはそんな余裕なんて持てなかった。
「何だよ。今日も怪盗紳士は休業か?」
「生憎、貴方にお会いするのにそれは必要ないと悟りましたから」
もう何も喋りたくない。
だから、閃光弾に手をかけた―――その時、
「こないだは…悪かった」
響いた声に、まるで時間が止まったような気がした。
「いきなりどうしたんですか?」
申し訳無さそうに頭を垂れながらか細い声で紡がれた謝罪。
その意味が解らずにそう尋ねた。
「そのままだよ。こないだは悪かった…」
本当に申し訳無さそうに頭を垂れる彼を私はどこか冷めた目で見ていた。
「別に貴方に謝ってもらう必要はありませんよ。
貴方は唯単に本当の事を言ったにすぎないんです。寧ろ何故謝る必要があるのですか?」
いつになく冷たい声。
いつになく鉄壁のポーカーフェイス。
自分自身過去に無い程に頭と心が冷え切っていくのを感じた。
「でも俺は…」
「貴方に謝ってもらう必要などないと言っているんです」
揺れる瞳。
その瞳を見れば見る程に辛辣な言葉が溢れてくる。
「でも俺はきっとお前を傷付け…」
「お綺麗な貴方には私の事など何も分からないでしょう?
真実という名の正義を振りかざし、何もかもを暴くのが正しいと思っている。
そんな貴方に私の事など分かる筈がないし、分って欲しいとも思いません」
「キッド…」
「迷惑なんですよ。謝られるのも……関わられるのすらも」
「!?」
ゆっくりと見開かれる瞳。
その瞳に徐々に透明な雫が彩を添えていくのを酷く冷静に見ていた。
「私の前にもう二度と現れないで下さい」
その瞬間、彼の瞳からは透明な雫が零れ落ちた―――。
「お綺麗な名探偵には辛辣過ぎましたか?」
―――けれどその透明な雫すら自分の心を凍らす氷の雫にしか見えなかった。
「そんなに…お前は俺のこと嫌いなのか?」
「ええ。大嫌いですよ。貴方のような『綺麗な心』を持った振りをしている方はね」
「っ……」
唇を噛み、必死で零れてくる涙を堪えようとしている彼を見てももう何とも思わなかった。
「消えて下さい。私の前から。
貴方はこんな所でつまらないこそ泥を追いかけているより、そのご自慢の真実で凶悪な殺人犯でも追いかけている方がお似合いですよ」
幾らでも言える気がした。
今なら幾らでも辛辣な言葉が吐ける気がした。
心の中のドロドロした黒い塊を全部彼に放つ事で救われたかったのかもしれない。
もう耐えられなかったから。
「貴方は自分が正義だとでも思ってるんですか?
貴方が信じている真実なんて、所詮は綺麗事の塊でしかないのに。
それを翳して、犯人を見つけて…それで優越に浸れるんですから探偵なんて下世話な職業ですよね」
「………」
何も言う事無く、大きな綺麗な蒼を雫でいっぱいにして見詰め続けてくる探偵。
それにすらもう心を動かされなどしなかった。
「消えて下さい。今すぐに。貴方が消えないと言うのなら私が消えますから」
「………」
動く気配のない探偵。
その態度に一つ溜息を吐いて、再度閃光弾に手をかけた。
「キッド!! 待ってくれ! 俺は……」
最後の言葉は意図的に聞かなかった。
「っ……」
一人夜の空を飛びながら涙を零す。
許されない筈の涙を止めようと思っても、それは止まるどころか逆に増して行く。
視界がぼやける。
ハンググライダーに乗せた身体が揺れる。
それでも止める事はできない。
「何で俺……」
ここまでしてパンドラを追ってたんだっけ…?
頭の中が真っ白になって。
目の前が真っ暗で。
零れ落ちる涙の暖かさと。
吹き付ける風の冷たさと。
そして、言いようの無い孤独感。
それだけが今の怪盗の全てだった。
「………何しに来たんですか?」
「………それが待ってた相手に対する態度かよ」
どうしてだろう。
この間会った時にあれだけの事を言ったというのに。
前回から早いものでもう二週間近くも経っている。
でも、それでも二週間だ。
彼が前回会った時に私が言った言葉を忘れてしまうというには余りにも短過ぎる時間。
「私はもう『関わらないで欲しい』とお願いした筈ですが?」
「…アレがお願いって態度かよ……」
むすっとする彼が酷く子供っぽく見えた。
そう、時々彼はこんな顔をする。
いつでも冷静で、いつでも冷淡に犯人を追っている様に見える裏で。
推理をしている時のキラキラと輝く双眸。
私に対してむくれて見せる子供っぽい態度。
どちらが彼なのかと問われれば、自分は間違えなく後者だと答えるだろう。
彼もまた自分と同じ『子供』なのだと。
「それは失礼致しました。それではもう一度お願い致します。私にはもう二度と関わらないで下さい」
「……嫌だ」
ぷいっとそっぽを向かれてぼそっと呟かれた言葉に目が点になった。
子供の様なその言い草に頭が痛くなった。
「名探偵…。ふざけてらっしゃるんですか? 私は…」
「嫌なんだよ。お前から逃げ出したみたいで」
むすっとしたままの顔で、それでも彼はじっとこちらを見詰めてくる。
大きな大きな蒼い瞳で。
ただじっと、見詰めてくる。
ああ、そうか。
不意に納得した。
どうして彼をこんなにも嫌いだと思うのか。
「逃げないんですね。貴方は」
彼は逃げない。
例え人を傷つけても。
例え人を泣かせても。
例え―――人を死なせてしまっても。
目の前の事実から決して目を離さない。
それがいかに残酷な事か知っているだろうに。
「……探偵、だからな」
ふっと、何処か一瞬彼が寂しげな目で遠くを見詰めた気がした。
でも、彼を次の瞬間見た時は、もう既に彼の瞳は自分だけを捉えていた。
見間違いかもしれない。
けれど、それでもいいと、そんな気がした。
「……辛くないんですか?」
「何がだよ」
「残酷な現実を見続ける事が、ですよ」
どんなに事件を解決しても。
どんなに名探偵と呼ばれても。
彼は少なくとも二人の人間、多ければそれ以上の人間の人生に関わるのだ。
その家族も考えれば、それよりももっと多くの人生に。
彼に見付からなければ。
彼が事件を解決してしまわなければ。
そう考える人間も少なくない。
彼の事を怨む人間も多々居るだろう。
それでも彼は逃げない。
目の前の彼が言う所の『真実』から。
「真実はいつも一つなんだよ」
「でもそれは貴方にとってだけですよ。真実なんてそれこそ人の数だけ…」
「俺は―――万人に共通する真実なんて見出そうとしてる訳じゃない。
人が殺されて。その人を殺した犯人が居て…。その犯人を見つけるだけだ。
感情論なんて正直俺には分かんねえよ。人が人を殺す理由なんて…分かりたくもない」
彼らしい、そう思う。
けれど同時にそれが疎ましくもあった。
その真っ直ぐで、綺麗過ぎる言葉が。
「貴方は人を殺したいと思った事はないんですか?」
「ああ。ないね」
即答で返ってきた答えは予想通りだった。
クスッと小ばかにしたように笑ってやる。
「お綺麗な回答ですね。貴方のそういう所が私は嫌いなんですよ。
博愛主義者でも気取る気ですか? あるいは、頬を殴られたら反対側を差し出すとでも?
………貴方だって他人を妬む気持ちや、他人を怨む気持ちがない訳じゃないでしょう?」
同じ人なのだ。
喜怒哀楽を持ち合わせている、同じ人間だ。
彼は決して聖人ではない。
何を馬鹿な事を、そう言って笑ってやる。
「……ない訳ねえだろ。俺だって普通の人間だ」
「だったら…」
「憎んでも、怨んでもそれは仕方ないと思う。人間だ、そういう感情があって当たり前だと。
でも、どうしたって分かんねえんだよ。自分が人を手に掛けようとした時、思い留まれない奴の気持ちなんてさ」
それが綺麗過ぎる回答なのだと。
吐き気すら覚え、反論する様に口を開こうとすれば、珍しく彼が酷く小さな声で呟きを漏らした。
「俺……正直言うと人の気持ちって分かんねえんだ。殺したい程相手を憎むんだってその気持ちが。
死ぬのは、まあ方法にもよるが大体が短時間だ。短時間の恐怖で相手はこの世から居なくなるんだよ。
俺だったらさ、殺したい程憎む相手がもし出来たとしたら―――監獄の中に入れて自分の罪を突きつけてやって、五年でも十年でも、ずっとずっと苦しめ続けてやりたいって思っちまうんだよ。その方が………自分の手も汚れない」
「………」
「俺はさ、キッド。別に綺麗な訳じゃない。もしもそうなっても、自分の手、汚せる自信がないだけの臆病者なんだよ」
いつも強気な彼が自嘲気味にそう言って笑って見せた。
その言葉に、ツキっと胸が痛んだ。
まさか彼は――――。
「お前はさ、キッド。何か理由があってその衣装を纏ってるんだろ?」
「っ―――!」
確信を持った問いにキッドは唇を噛み締めた。
彼は何も知らないと思っていた。
彼は何も分かっていないと思っていた。
だから、だからあんな―――。
「あの時は…悪かったな。あの子が泣いてるの見たらさ、つい頭に血、上っちまって…」
「………」
「あんな事言われて…傷付かない人間なんて居る筈ないのにな……」
「名探て……」
彼の名を呼びきる前に、思わず嗚咽が漏れそうになって唇を噤んだ。
何か熱いモノが身体の奥からこみ上げてきて、目頭が熱くなる。
彼の前で泣くなどあってはならない筈なのに…気付けば一粒、また一粒と涙が零れ落ちていた。
「キッド…」
優しい声が耳に心地良かった。
本当なら彼は敵で、自分の事など何一つ知らなくて。
だから憎むべき相手の筈で。
だから嫌いになるべき相手の筈で。
零れていく涙を見せたくなくて俯けば、視界に彼の靴の先が見え、身体を温かい温もりが支配した。
「!?」
「泣けよ。泣きたいんだろ」
彼が私のシルクハットを邪魔だといわんばかりに取り上げて、それが足元に落ちた。
ぎゅっと抱き締められ、自分よりも僅かに低い彼の肩に自分の顔が埋まる。
まるであやす様に頭を撫でられ、突然の事に余りの混乱で身動きさえ取れなかった。
「ったく…しょうがねえな。泣けって言わなきゃ泣くことすら出来ないのかよ。お前は」
「名探偵…」
「いつまで経ってもガキなんだな。いいから、ガキはガキらしく大人しく泣いてりゃいいんだよ」
癖っ毛の自分の髪を彼は優しく撫でてくれた。
優しい温もりに、その言葉に堪えていた涙が溢れた。
みっともない。
情けない。
今は『怪盗キッド』だというのに。
先代も空の上から情けないと嘆いているかもしれない。
でも、今だけは――――彼の、自分よりも細く折れてしまいそうなこの肩にもう少しだけ寄り掛かっていたかった。
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