目の前の出来事を
 目の前の現実を

 ここまで直視したくないと思ったのは
 生まれて初めてかもしれなかった















後悔と許されざる懺悔【三】
















「キッ……ド……?」


 掛けられた声の方向に視線を向ければ、窓の近くには白い彼の姿があった。

 白いシルクハット。
 空けられた窓から流れ込んでくる風に煽られる白いマント。
 そして、彼の象徴の様な右目に付けられたモノクル。

 どうして彼がここに居るのか。
 自分は幻でも見ているのではないのか。

 そう思った瞬間、白い影が新一へ一歩、また一歩と近付いてきて、新一の手から剃刀を奪い取った。


「何を……何をなさってるんですか、貴方は!」


 怒気を含んでいるその声に新一の身体は無意識にビクッと反応する。
 彼の瞳を見詰めれば、その瞳も怒りを湛えていた。


「キッド…お前何で……」
「何をしようとしていたんです…?」


 他の事など聞く耳も持たないと言う様に新一の言葉を遮りキッドはそのままの怒りのオーラを纏ったまま新一に尋ねる。
 それに答える事は出来なくて、新一は下を向いてしまった。
 そんな新一にキッドはギリッと奥歯を噛み締め新一の左腕を乱暴に掴んだ。


「痛っ…」
「コレは一体何なんですか!」


 白い腕に無数に見える赤。
 浅いモノも有れば、深いモノも。

 手首だけではなく、腕全体に広がる赤い筋。
 それをキッドは苦々しげに見詰める。


「……何を、していたんですか?」
「………」
「答えて下さい、名探偵」
「………」


 新一は俯いたままぎゅっと目を瞑った。
 瞼が熱い。
 また涙が零れそうになる。
 それでも何とか堪え、弱々しく首を横に振った。


「………分かりました。答えたくないなら仕方ありませんね」


 そう言ってキッドは多少乱暴に新一の手を離した。
 力なく、重力に従順に落ちる腕。
 キッドは確認する様に今度は右手を掴んだ。


「っ……」
「こっちも、ですか……」


 溜息混じりに確認された言葉に新一は唇を噛み締めた。


「っ……何すっ……」


 けれど次の瞬間、ねっとりとした熱と、腕に走った痛みに新一が顔を上げた。
 そこで漸くキッドに手首の傷を舐められているのだと理解した。


「や、やめっ…!」
「………痛々しいですよ、本当に」


 キッドの唇が手首から離れ、押し殺すようにそう言われじっと見詰められる。
 その視線を受け止め続ける事が出来なくて視線を逸らそうとすれば、乱暴に顎を掴まれた。


「……んっ……」


 突然の事で一瞬新一は訳が分からなかった。
 大きく瞳を見開いてその驚愕を受け止めるまでに何秒掛かったのかも分からない。

 けれどずっとずっと求めていた彼の温かい腕に抱き締められ、何度も角度を変え口付けられる。

 頭がくらくらする。
 ふわふわとした浮遊感に包まれ、どこか安定した場所が欲しくて無意識に彼の首に腕を回していた。

 何度も何度も口付けられて、もう息も出来ないと思った頃漸く彼の温もりが唇から離れていった。


「ど……して……?」


 頭の中が混乱して何も考えられない。

 彼女と幸せにしている筈の彼が今どうしてここに居るのか。
 どうして自分の事を抱き締めたりするのか。
 どうして自分にキスなんてするのか。

 何もかも分からなくて、ただ彼を見詰め呟き続ける事しか出来ない。
 どうして、と。


「私の質問に先に答えて頂けませんか? どうしてこんなことをなさったのですか?」


 ぐいっと右手を示す様にあげられて、新一の顔が痛みを訴えるように歪められる。
 それでもキッドは手を離そうとはしない。
 それが罰とだとでも言う様に。


「………知らない」
「………」


 そんなキッドの声に新一は小さく呟いた。
 それに呆れた様にキッドは溜息を吐くと新一の手を漸く離した。

 怒っているのだと。
 呆れているのだと。

 彼のその気配に、新一はまた強くぎゅっと目を瞑る。

 何も言いたくなかった。
 何も聞かれたくなかった。
 けれど、キッドは当然それで許してくれる訳がなかった。


「それなら知らない間に傷が付いていたとでも言うおつもりですか?」
「………」
「……自分で付けたのでしょう? さっきの様にコレを持って……」


 取り上げられて、消された筈の剃刀が再び取り出された。
 意図的に電気の付けられていない部屋の中、窓を通して入ってくる淡い月明かりを受けて銀色に輝くソレは新一には酷く近しいものの様に感じられた。
 キッドの手によって再び消されてしまったその銀が酷く恋しかった。


「………お前には関係ない」


 それが境だった。
 その銀を見た時、新一の中で何かが急速に冷えていった。

 さっきまでの彼から与えられた熱も。
 今抱き締めてくれている腕の温かさも。

 急速に冷えていく心を温めてはくれなかった。


「関係ないって…」
「だってそうだろ? お前はもう………俺の事を忘れるんじゃなかったのか?」
「っ……」


 今度はキッドが唇を噛み締める番だった。

 じっと腕の中の新一を見詰めれば、自分に向けられるのは酷く冷淡な眼差し。
 こんな視線を嘗て彼に向けられた覚えはなかった。


「お前は…忘れるつもりで、忘れてくれと言う代わりにアレを置いて行ったんだろ?
 それならどうして今ここに居るんだ? もう二度と、会わないつもりで置いて行ったんじゃないのか?」


 事実だ、彼の言っている事は。
 どんなに痛くても。
 どんなに苦しくても。
 彼の言っている事は正論であり、事実だ。

 それに、自分自身の言葉で対抗出来る術をキッドは持たなかった。
 だから紡いだのは最低で卑怯な言葉。


「頼まれたんですよ」
「頼まれた…?」
「お隣の女史に、貴方に会いに行く様に頼まれたんです」
「灰原が……?」
「ええ」
「………」


 ちっと小さく舌打ちが聞こえた。
 苦々しげに新一の顔が歪められる。


「灰原の奴…余計な事しやがって……」
「貴方の事を心配なさっての事でしょう?」
「………余計なお世話だ」
「………」


 吐き捨てる様に言った言葉が本当は彼の照れ隠しなのをキッドは知っていた。
 けれど敢えて何も言わずに、愛おしげに見詰められていた銀を消してしまうと、新一をもう一度ぎゅっと抱き締めた。


「彼女と…別れたのだと聞きました」
「………」
「どうしてですか?」
「………お前にはもう関係ない」


 突き放す様にそう言って、新一はキッドを押し返そうと腕の中で抵抗する。
 それが気に入らなくてキッドは尚更力を籠めた。


「それでは何のためにあの日あの場所に彼女と一緒に呼んだか分からないじゃないですか…」
「………俺の事怒ってたんだろ?」
「名探偵、それは半分正解で半分間違っていますよ。貴方が約束がある、と言った時は確かに怒っていました。
 私との事なんて貴方にとっては覚えているような価値もないのだと。貴方にとって私はその程度の存在だと…」
「………」
「けれど、あの日…やっと諦めがついたんです。
 自分の幸せを願うのではなく、貴方の幸せをやっと素直に願える様になった」


 正直な所、あの日快斗は土壇場まで悩んでいた。

 本当に、本当に大好きな人を自ら進んで手放したいと思う訳がない。
 けれど、彼があの日彼が自分に会いに来た時、彼が控え室から出て行く時の本当に辛そうな顔を見た時。
 やっと諦めがついた。

 これ以上彼に悲しい思いをさせてはいけないと、やっと踏ん切りをつける気になった。
 彼女との幸せを、素直に願える様になった。


「だから……だからあの時、あんな事を?」
「ええ」



『もしも今、隣に貴方の大切な方がいらっしゃるのなら――――――――その方を…どうぞ大切にして下さい』



 あの時言った言葉は彼と彼女に向けた言葉。
 新一にもそれは分かっていた。


「だから…お前は俺の為に身を引いたと、そう言うつもりか…?」
「ええ」


 キッドが深くそう頷いた瞬間、綺麗なガラス球の様に無機質な色を湛えていた蒼に光が宿った。
 怒り、という強い感情が。

 思いっきりキッドを突き飛ばし、堰が切れた様にキッドに向かって怒鳴りつけた。


「ふざけるな! じゃあ、何か? お前は俺の幸せの為に自分を犠牲にして、ここの鍵とこんなモノ置いて出て行ってやった、とでもいうのかよ!」


 新一の左手に握りこまれていたモノ。
 それはあの日快斗が置いていった栞。

 それを新一は叩き付けるようにキッドへとソレを投げつける。
 けれどそれはキッドの元に届く事無く、ひらひらと二人の間に落ちた。

 それをじっと見詰めながら、キッドは静かに口を開いた。


「そうだと言ったら…どうなんですか?」
「っ……」
「その方が貴方は幸せになれる。そう分かっていたから私はあの時…」
「いい加減にしろよ! お前は言い方はどうあれあの時俺の事を一度捨てたんだ。
 もう会う事もない。会わないでお互いに忘れるって決めたからアレを置いて行ったんじゃなかったのか?
 なのに灰原をネタに今こうやってここまで来て……それに、その格好、何なんだよ!」
「これは…」
「俺はお前じゃなくて、『快斗』と別れたんだ。
 なのにお前はそうやって逃げを持ち込んで俺に会いに来た。それが一番ムカつくんだよっ…!」


 ぎゅっと新一は右手を見詰め、握り締める。

 どうしようもない苛立ちと。
 どうしようもない怒りを向ける矛先を見つけられなくて。

 『彼』ではない。
 自分がちゃんと話をしたいのは。


「逃げなければ……貴方に会いに来る勇気すら、私は持ち合わせていなかったんですよ」


 自嘲的な苦笑に新一は自分の手から視線をキッドの顔へと向けた。
 悲しそうに自分を見詰める彼の瞳からは、それでもちゃんとした感情は読み取れなかった。


「……それで、その格好か」
「ええ」
「知らなかったよ。随分情けない奴だったんだな。お前って」
「……そうですね」
「………」


 焚きつけてやろうと新一が敢えて言った嫌味さえ、キッドは弱々しい声で肯定する。
 それに新一は何も言えなくなった。

 二人の間に沈黙が落ちる。
 もうとっくに暗くなってしまった部屋は月明かりが僅かに窓から差し込む程度で。
 開け放たれたままの窓からはまだ少し冷たい風が流れ込んできた。

 静寂。
 冷眼。
 冷艶。

 全てが凍りつきそうで、二人の間に温かさなんてもう存在しないのだと痛切に感じた。


「……なあ」


 その沈黙を新一はそのままの目付きで破った。
 冷たい視線のままで。


「お前、結局何しに来たんだ? 俺に会いに来ただけなんて言ったら当分動けない様に至近距離で蹴り上げるぞ?」
「……コレを返しに来たんですよ」
「これ……」


 チャリっとキッドの手の中で金属音の触れ合う音がする。
 それは―――新一が快斗の誕生日に送ったネックレス。
 トップに付いた青い石が余りにも綺麗で、似合いそうだと新一が選んだもの。


「返すって…」
「もう…必要ないでしょう?」
「っ……」


 頭にきた。
 それが一番正しかった。

 そう、頭に思いっきり血が上って。
 訳が分からなくなって。

 キッドに背を向ける様に、新一は未だ上半身だけ起き上がっていただけの身体をベットから抜け出させると机の上に置いてあった小さなオルゴール付きのケースを乱暴に掴み取り、キッドのもとへ戻るとそれを押し付けた。


「それなら、それなら……これももう必要ないだろ!」


 押し付けられて。
 押し返して。

 けれど結局は受取る羽目になってしまったケースを無言でキッドは見詰めていた。

 中に入っているものなんて確認しなくても分かる。
 彼に渡した指輪だ。
 表面上はシンプルなリング。
 ただ、ちょっとだけ秘密があった。
 彼の瞳にはとても敵わないけれど、それでも綺麗な綺麗な青い色をした石がこっそりと内側に埋め込まれている。

 快斗が新一の誕生日にプレゼントしたもの。


「そうですね。もうこれも必要ない…」


 暫く見詰めた後、キッドはそれを消すのではなく、すっとスーツの胸元へとしまった。
 そして再度新一へネックレスを差し出した。

 それを新一は無言で引っ手繰る様にしてその手から奪い取る。

 再びお互いを沈黙が包んだ。
 さっきよりもずっとずっと重い沈黙が。


「………そろそろお暇しますよ、名探偵」


 どれぐらいそうしていたのだろう。

 自分が息をしていたのかも分からない位、張り詰めた空気を振るわせたのはキッドだった。
 それにはっとして新一も俯いていた顔を上げた。


「……さっさと帰れよ」
「ええ。そうします」


 ベットに腰掛けたままだったキッドはそういうとゆっくりと立ち上がり、窓の方へ歩いていく。

 その背に思わず手が伸びた。
 けれど、彼の歩みの方が早く新一の手は空を掴むに留まった。


「っ………」


 終わり、だった。
 何もかも。
 全て終わったのだと、痛切に感じた。

 零れ落ちそうになる涙も。
 漏れそうになる嗚咽も。

 全てギリギリで押し留めた。

 それが新一の最後のプライド。


「……名探偵」


 窓に手をかけ、キッドは後ろを向いたままふいに新一に声を掛けた。


「何だよ…」


 月明かりがもう窓辺まできていた。
 その明かりに照らされたキッドは新一の目にはいつもより余計に白く輝いて見えた。


「私が貴方を振ったから、そのせいで貴方が自分で自分を傷つけている。
 そんなくだらない噂があるんです。それは全て嘘ですよね…?」


 何を今更、と思う。
 けれど、今のキッドに出来るのはせいぜい彼のプライドを煽る事ぐらいだった。
 それで彼を奮い立たせる事が出来るかは分からなかったけれど、自分に最後に出来るのはそのぐらいだと思った。


「……そんなのでまかせに決まってるだろ。それに俺は振られた覚えなんかない。
 俺達は確かにそういう関係だったかもしれないが『恋人』でも何でもなかったんだ。
 別れる、なんて事の前に付き合ってすらいなかったんだよ」
「そう、でしたね…」


 やっといつもの彼に戻った。
 そう思った。

 だからキッドは新一を振り返り、優雅に一礼してみせた。



「本日はとんだご無礼を。また現場でお会いできるのを楽しみにしていますよ、名探偵」


























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