出逢った事を幾ら悔やんでも
 出逢わなければ良かったと幾ら思っても

 本当は知っている

 出逢えた事自体は、本当は幸せだったんだと















後悔と許されざる懺悔【二】
















「……殺しに来たって……」


 哀の物騒な言葉に快斗も言葉を詰まらせる。
 その冷たい眼が、本心だと告げているから。

 確かに自分は新一を泣かせた。
 それは紛れもない事実。
 殺されたって仕方ないと思う。
 でも―――。


「哀ちゃん、でも新一は蘭ちゃんと……」
「貴方…それ誰から聞いたの?」
「えっ…?」
「最低ね。蘭さんと別れたから、だから工藤君が泣いたって自業自得だって言うつもり?」
「……何、それ………」


 訳が分からないと快斗は口を開けたまま呆然としてしまう。
 今――彼女は何と言った?

 呆然としている快斗を見上げ、哀も少し目をぱちぱちとさせて口を開いた。


「……貴方、知らなかったの?」
「知らないも何も……一体どういう事?」


 酷く冷静に哀に快斗は尋ねる。
 酷く頭が冷え切っていくのが分かる。
 それはもう異常な程に。


「工藤君と蘭さんは別れたのよ」
「何で…?」
「………貴方、本気で分からないの?」


 頭が痛い。
 そういう様に哀は頭に手を当てて顔を顰める。

 そんな事をされても快斗には何も分からない。分かる筈がない。


「分からないよ。俺が新一の傍から離れたんだから新一は蘭ちゃんと幸せになれる筈だろ!?」
「……それは貴方の勝手な机上の空論に過ぎないわ。現実をちゃんと見なさい」
「現実って……新一は?」
「家よ」
「家…? だって学校…」
「倒れたの」
「倒れた!?」
「栄養失調よ」
「栄養…失調……」


 一つ一つ紡がれる哀の言葉に快斗は眩暈がした。

 一体何がどうなっているのか分からない。
 彼は幸せになっているのだとずっと思っていたのに。


「ここ一週間ぐらいきちんと食事もしていなかったらしくてね」
「一週間って…」
「そう、貴方のショーがあった後よ」
「………」


 じっと注がれる視線を快斗は受け止めきれず、哀から視線を逸らした。
 間違いなく自分が原因なのだと快斗本人も分かってしまったから。


「工藤君はそれ以上教えてくれなかったわ。ただ、蘭さんと別れて―――貴方ももう家には来ないのだと。それだけ」
「………」
「それ以上何も教えてはくれないの。ただ……」
「ただ?」
「ただずっと……栞を一枚持って離さないの」
「!?」


 あの栞だと。
 最後に自分が置いていった栞だと。

 言われずとも快斗には分かった。


「やっぱり…貴方が置いて行ったのね…」
「………」
「あんな花を置いて出て行って、彼が全部忘れられるとでも本気で思ってるの?」


 きっと調べたのだろう。
 新一をずっとずっと見守ってきた彼女だ。
 彼の行動も、それを取らせている意味も、全部知っていておかしくはない。


「俺はただ新一に幸せになって欲しくて……」
「それがこの結果なのよ」


 苦々しげに哀は快斗にそう告げる。
 まるで、お前のした事は全部逆効果だったんだと言わんばかりに。

 それに快斗はぎゅっと左手を握り締めた。


「何で……? 俺が居なくなれば新一と蘭ちゃんは幸せになれる筈じゃないの…?」
「……そんなのは、工藤君に直接聞いてみればいい事じゃない」


 無感動な瞳で哀は快斗を見詰める。
 それに快斗は緩く首を振った。


「出来ないよ…」
「どうして?」
「出来るわけないだろ! 俺はもう新一とは別れたんだ…だから……」
「そうね。ならこのまま工藤君の事見殺しにするつもり?」
「それは…」
「このままだと、本当にそうなりかねないわよ?」
「………」


 哀の脅しとも言い切れない脅しに、それでも快斗は口をぎゅっと瞑り緩く首を横に振る。
 そんな頑なな快斗に哀は溜息を一つ吐いて、言い辛そうに口を開いた。


「本当はここまで言うつもりはなかったんだけど……………工藤君、腕に怪我してるの」
「怪我…?」
「…そう、怪我」
「怪我って…」
「ここ一週間、彼は家に閉じ籠もったまま事件現場にも出かけていないそうよ。
 家から一歩も出ていない。それでも腕中切り傷だらけ。勘のいい貴方ならこの意味分かるわよね?」
「まさか…新一に限ってそんな……」
「でも、それが事実よ」


 家から出ていない。
 事件現場にも行って居ない。
 それでも新一の腕には切り傷が付けられている。

 そんなの……認めたくはないけれど、新一が自分でやっているとしか考えられない。


「でも、新一が…新一に限ってそんな事…」
「だから、直接確めてみなさいって言ってるんでしょ!」


 焦れた様に哀が快斗に向かって叫んだ。
 その叫び声は、少しだけ涙声になっていた気がして、快斗もビクっと反応する。


「何度言わせるつもり? 工藤君を死なせたくないなら……会いに行きなさい」
「でも…」
「別れたから会えないとか、そんなくだらない事に拘って工藤君を死なせるつもり?
 そんな事言い続ける気なら、私は今ここで貴方の足を刺して引き摺ってでも無理矢理工藤君の所に連れて行くわよ?」
「哀ちゃん…」


 哀の目には悔しさと憎悪と涙が浮かんでいた。

 自分では彼を助けられない悔しさと。
 そこまで彼を追い詰めた快斗に向けられる憎しみと。

 そして―――そんな快斗にこうやって頼みに来る程、彼を救いたいのだと。

 普段感情をそこまで表に出す事のない哀のその表情が、それだけ新一の傷を物語っている様な気がした。


「分かったよ…」
「それなら今から……」
「すぐ行くから、先に行っててくれないかな…」
「黒羽君!」


 一体何を言うのかと。
 哀が非難めいた声を上げる。

 それに快斗は少しだけ苦笑する。


「このままで行きたくないんだ…」
「それ、どういう…」
「本当にすぐ行くから。だからごめん。先に行ってて…」
「……分かったわ」


 真っ直ぐに快斗を見詰め、快斗の決意が固い事を確認すると哀は一つ溜息を吐いて漸く踵を返した。

 その姿を見詰め、快斗は詰めていた息を吐き出した。


「ごめんね、哀ちゃん。俺は今このままで新一に会える勇気なんてないんだよ…」








































 夕方を過ぎて、そろそろ夜の帳がそろそろ下りようとする頃、哀は新一を気遣う様にミネラルウォーターの入ったコップと数錠の錠剤を持って新一の部屋へと入った。


「工藤君、大丈夫?」
「灰、原…」
「眩暈や吐き気はする?」
「いや、もう大丈夫だ。大したことねえよ。お前大袈裟過ぎ」


 クスクスと新一は笑いながらベットから身体を起こした。


「学校行こうとして倒れたぐらいでそんなに騒ぐなよ」
「でも…」
「大丈夫だって。寝てれば治るよ。唯の寝不足だ」


 そういう新一の顔には確かにクマが出来ていた。
 でもそれ以上に、哀は頬がこけてしまっているのが気になって仕方ない。

 元から細かった彼の身体はより細くなってしまっていて。
 どうしてもっと早く気付けなかったのかと思った。

 快斗が来る様になってから哀は油断していた。
 快斗が工藤邸に通うようになって、ちゃんとした食生活を新一もしてくれるようになって。
 それに安心していたから前の様に頻繁に顔を出す事もなくなっていた。

 けれど、今日。
 始業式だから挨拶ぐらいして行こうと工藤邸を訪ねた所で異変に気付いた。


 幾らチャイムを鳴らしても彼は出なくて。
 けれど電気は付けっ放しで。
 付けたまま出かけてしまったのかとも思ったけれど、何だか嫌な予感がした。
 だから、申し訳ないけれど勝手に門を開け玄関のドアノブに手をかければ扉は簡単に開いて。
 慌てて家に入れば……彼がリビングで倒れていた。


「工藤君…でも…」
「大丈夫だよ。だからお前はそんな顔しなくていい」
「…あのね、工藤君……」
「ん?」
「いえ、何でもないわ」
「一体どうしたんだ?」


 哀が言いかけた言葉を途中で切るなんて珍しい。
 一体どうしたのかと新一は首を傾げたが、哀は首を緩く横に振った。


「ただ、貴方のことが心配なだけよ」
「灰原…」
「お願いだからもう少し自分の事を大切にして頂戴」
「……悪い」
「謝るぐらいだったら、ちゃんとした生活をして」
「ああ…そうだな…」


 そう言って新一は哀に笑ってみせる。

 でも無理に作る笑顔は余計に痛々しくて。
 哀はこれ以上見ていられなかった。

 それに、彼は直ぐに行くと言っていた。
 新一を傷つけた彼の事を信用なんて出来る筈はないけれど、あれだけの事を言った後だ。
 きっと直ぐに来てくれるだろう。
 その時に自分が居ればきっと邪魔になるだけだろうから、哀は早々にお暇する事にした。


「じゃあ、ちゃんとゆっくり休むのよ?」
「ああ。分かってるよ。色々さんきゅー」


 部屋を出て行く哀にひらひらと手を振って。
 ガチャッと扉が閉じた所で、新一は詰めていた息を吐き出した。


 まさか倒れるなんて思っていなかった。
 でも確かにちゃんと食事をしたのがいつかなんて哀に聞かれても覚えていない程まともに食べていなかった気がする。
 それも正直よく分からない。

 自分がここ一週間近く何を考えてどうしていたのかもよく分からない。

 ずっと一人で部屋に閉じ籠もって。
 太陽の光を浴びるのすら嫌って。

 正直よく生きていたものだと自分でも苦笑する。

 哀の処置が良かったのだろう。
 朝眩暈がして倒れた時よりは大分気分が良くなった。
 けれど、それも複雑だった。


「何で俺…」


 溜息を吐きながら新一はそっと自分の左腕の袖を捲る。
 腕には無数の切り傷。
 哀に言われて初めてその数の多さを自覚した。

 切った事は覚えている。
 せめて珈琲ぐらい飲もうとキッチンに行った所で偶々視界に入った果物ナイフ。

 気付けば手を伸ばしていた。
 気付けば赤が滲んでいた。

 けれど不思議な事に痛みすら感じなかった。
 自分でも恐怖すら覚える程に、自分の心も身体も何かを感じる事を忘れてしまったのだと思った。

 自分の心も、身体も壊れてしまったのかと。
 自分が本当に生きているのかすらも分からなくなってしまって。
 生きる意味を求める様に。
 自分の身体から零れ落ちる赤に救いを求める様に、ナイフでも剃刀でも、切れるなら、生きている証をくれるなら、何でも良くなっていった。


 今日彼女が俺を見つけてくれて。
 目の前で泣きながら叫ばれて。

 漸くやっと、人間らしい感情が少しだけ帰ってきた気がする。
 それも本当に少しだろうけれど。


「……何やってんだかな………」


 ずっと家で鬱々と引き籠って。

 誰にも会わず。
 何も感じず。
 このまま消えてしまいたいと思っている。

 失ってから気付いた。
 本当に、本当に欲していたモノは何なのかを。
 それを今でも新一は引き摺ったまま。
 でも彼はきっと今頃幸せにしている筈だ。
 そんな彼の邪魔をする気は新一には毛頭なかった。

 彼にはあんなに可愛い彼女がいる。
 自分みたいな意地っ張りで我侭でずるい人間とは違う、真っ直ぐで純粋で可愛い彼女が。

 自分もああなれたら。
 彼女の様になれたら良かったのだろうか。
 その考えを振り払う様に新一は一人首を横に振った。

 自分ではそんな風にはなれない。
 どんなに大切に想っていても、人一倍高いプライドがきっと邪魔をしてしまうだろう。
 全く、本当に厄介な性格だと思う。

 だから彼は彼女を選んだのだ。
 自分ではなく彼女と居る方が幸せなのだと――――記念日すら忘れてしまう様な恋人は必要ないのだと悟ったのだろう。


 そこまで考えて、泣きたくもないのにまた涙がこみ上げてきた。
 あの日からどれだけ泣いているのかも分からない。

 もういいと。
 もう泣きたくないと思うのに止まらない雫。
 そして、襲い来る感情の激しい波。

 それに逆らう事が出来ず新一はベットサイドの棚の引き出しからそっと剃刀を取り出した。
 それを左手にあて、横に滑らそうとした時――――。



「名探偵…」



 困惑とも労りとも呼べない声が耳に届いた。


























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