あの日
あの時
あの場所での出逢い
それを俺は後悔する訳ではないけれど
こんな終焉を迎えるぐらいなら
出逢わなければ良かったとお前は思うのだろうか?
後悔と許されざる懺悔【一】
あの日から何日経ったのだろう。
考えるのも面倒で。
何をするのも億劫で。
まだ春休みで良かったと本当に思う。
こんな状態で学校になど行けないし、行ったら行ったで彼女にも嫌でも会う事になる。
正直それも気が重かった。
ゆっくりと緩慢な動作で身体をベットから起こし時計を見た。
一時四十二分。
夜ではなく、昼間のだ。
それもカーテン越しに空が明るいので漸く分かる、といった感じではあったが。
カーテンを開けるのすら面倒で。
日の光なんて今は見たくなくて。
何も考えたくない。
逃げるように新一はベットの中へと再び潜り込むと闇へ落ちて行く為に瞳を閉じた。
「よしっ…これで終わりかな」
実家から送った荷物を全部整理して。
最後の本を本棚へとしまい終わったところで快斗は一息つこうと珈琲を淹れにキッチンへと向かった。
キッチンの上の棚から取り出したのはインスタントの珈琲。
彼のためではなく自分の為に淹れるのはコレぐらいで充分だ。
「珈琲を俺が好んで飲むようになったんだから気持ち悪いよな…」
あれだけ昔は甘党だったのに…なんて自嘲気味に笑みが漏れる。
新一の家に通い詰める様になる前は角砂糖を四個も五個も入れないと飲めなかった珈琲。
今ではすっかりブラック派だ。
ある意味新一の教育の賜物かもしれない。
「何思い出してるんだろうな、俺は…」
自分であの栞を置いてきた。
全て忘れようと心に決めて。
覚えられていても。
思い出されても。
新一にとっては迷惑なだけだろう。
だから決めた。
全て忘れるのだと。
「まあ、でも―――」
引っ越し祝いに今日だけは…そう勝手に決め込んで、記憶の中の新一と今日一日だけは一緒に過ごす事に決めた。
四月九日。月曜日。天気、晴れ。
久し振りに訪れた学校の散りきれずに僅かに残っている桜が今の自分の気持ちの様だと快斗は苦笑しながら学校の門をくぐった。
昇降口で靴を脱いでいるとどうやらもう既に登校していたらしいクラスでも仲の良い男友達が声を掛けてきた。
「お、黒羽久し振り!」
「よっ! 元気してたか?」
「ああ、それより黒羽……」
「ん?」
「お前……」
後に続く言葉は分かっていた。
クラスメイトが言い辛そうに表情を歪め、声を落としたから。
「中森さんと別れたんだって…?」
「よく知ってるな」
「知ってるも何も、今クラス中その話題で持ちきりだぜ?」
「そっか…」
「しかも黒羽から振ったってほんと……」
「ああ。本当だよ」
それは事実だった。
新一と別れる一月ぐらい前の事。
俺は青子に別れを告げていた。
泣きじゃくる青子を見て正直心が痛んで、本当は嘘なのだと言ってやりたくもなった。
守ってやりたいと思っていた。
大切だとは今でも思っている。
でもそれは―――恋人ではなくあくまでも幼馴染としてだ。
だから残酷にも、泣くじゃくる青子を抱き締めてやる事は出来なかった。
俺に出来るのは早く他に俺なんかよりいい奴が青子を優しく抱き締めてくれるのを祈るぐらいだ。
「何でだよ。あんなに仲良さそうだったのに…」
「俺に…」
「ん?」
「俺に、他に好きな奴が出来ちまったんだよ…」
「黒羽…」
驚いた顔を浮かべたクラスメイトに快斗も内心自分で驚いていた。
言う必要などなかったのに口が滑った。
こんな事今まで一度としてなかったのに…。
もしかしたら、自分は誰かに聞いて欲しかったんじゃないかと苦笑した。
「……で、そいつとくっついたのか?」
「いや。とっても素敵な恋人が居るんだよ、その人にはさ。俺なんか逆立ちしたって太刀打ち出来ない様な、最高の恋人がな…」
「そっか…」
元気だせよ、と肩をぽんぽんと叩かれる。
その友人の優しさが酷く心に染みた。
「それじゃ余計辛いだろうけど…今クラス中の女子がお前の事白い目で迎えようとしてるぜ?」
ああ、それでこいつはここで待っていてくれたのかと。
その思いやりが酷くくすぐったかった。
「しょうがねえよ。俺が招いた事だからな」
「ったく…きっついよな。失恋した後だってのに…」
ああ、そうか。
自分は失恋したんだと何故かそこで漸く実感した。
彼に対する想いは『失恋』なんて軽々しい言葉では自分の中で考えられていなかったから。
「ま、何かあったら俺がついてるからな」
「ああ。さんきゅー」
面倒見のいい奴だと思う。
俺の事を庇えばそれこそとばっちりを受けるというのに。
失うものが大きければ大きい程、普段気付かなかった小さな労りが心に染みてくる気がした。
奴が言っていた通り、クラスに入った時の周りの目は冷たかった。
こういう時だけ妙に連帯感のある女子と、後は青子狙いだった男達と。
そんな冷ややかな目に見詰められるまま快斗は席へと向かった。
「おはよう」
「……おはよう」
隣同士の席だから声を掛けない訳にはいかなくて。
青子に挨拶をして隣へと座った。
辛そうに伏せられる眼。
それを見ている快斗も居た堪れない気持ちになって、あの時新一に言われた言葉を思い出した。
『こんなおかしい状態楽しんでられる訳ねえだろ! お前には罪悪感ってもんがねえのかよ!』
(ああ…全くだね…。楽しんでなんていられる訳ないよ…)
大切で大切で堪らなかった人を傷つけて、平気で居られる筈なんてない。
それは快斗も同じだった。
だから彼女をこれ以上裏切りたくなくて、別れを告げた。
そう言えば聞こえは良いかも知れないが、俺はただ耐えられなかっただけかもしれない。
自分の横で楽しそうに笑う彼女を本当の意味ではずっと裏切り続けている事に。
「快斗…」
きりきりと胃が痛んできそうな程考え込んでしまった頃、青子から声を掛けられた。
「何だ…?」
「あのね…放課後ちょっと時間いいかな…?」
「ああ…」
予想は出来ていた。
けれど、彼女の気持ちをきちんと消化してやるのも俺の役目だと思った。
それが―――彼女を裏切り続けていた俺が出来るせめてもの罪の償いだと。
「ごめんね。呼び出したりして」
「いや、いいよ」
放課後、呼ばれたのは人気のない視聴覚室。
先に来ていた青子は俯きながら俺を待っていた。
「あのね…快斗。あれから色々考えたんだけど……やっぱり私じゃ駄目…なのかな?」
顔を上げ、快斗を見詰める青子の目元には涙が今にも零れ落ちそうに留まっていた。
その顔を見て、快斗にも一瞬迷いが生じる。
新一とはもう何の関係もない。
青子に後ろ暗いところは何もない。
付き合っても何の問題はない筈だと。
けれど、快斗は首を横に緩く振った。
それは出来ない、と。
「悪い、青子。俺は…」
「分かってる…。快斗に他に好きな人が出来ちゃったんだって分かってる…でも……」
ぽたっと留まりきれなった雫が床のタイルに一滴零れ落ちた。
「でも快斗の事諦めることなんて出来ないよ…」
それは覚えのある感情だと快斗も思う。
彼を諦める事なんて出来ない。
きっと一生。
けれど、それをここで認めてしまえばまた彼女を傷つける結果になる。
ずっとずっと裏切り続ける事になるから…。
「お前には本当に申し訳ないと思うけど…他に好きな奴が居るのにこのままお前と付き合い続けていくなんて出来ない…。
青子…俺が言えた義理じゃないのは充分承知だ。でも…俺の事は忘れて、幸せになってくれ……」
我ながら陳腐なセリフだと思った。
けれど、言える事と言ったらそれぐらいしか思いつかなかった。
今はもう優しい言葉で慰めてやる事も。
今はもう抱き締めてやる事も出来ないのだから。
「……ごめんね。しつこく言って。もう……快斗の事諦めるから……。諦められる様に頑張るから……」
ぽろぽろと涙を零しながら、それでも青子は笑って見せる。
無理をして精一杯の作り笑顔を快斗に向ける。
「だから……せめて、友達では居てね……?」
「ああ…」
最後の縋る様な言葉まで無下にする事は出来なかった。
本当は何の期待もさせない様に、微塵も可能性がないように、冷たくするのも優しさではないかとも思うのに。
そこまで冷淡な振りは出来なかった。
「良かった…。友達でも居られなくなったらどうしようかと思っちゃった…」
泣きながら彼女は笑う。
ずっとずっと幼いと思っていたけれど、それは間違いだったのかもしれない。
いつの間にこんなに強くなっていたのだろうか。
「そんな訳ないだろ。俺はずっと……お前の幼馴染だよ」
「快斗…」
今度こそ、泣きじゃくってしまった彼女の頭をぽんぽんっと軽く叩いてやる。
もう―――抱き締めてやる事は出来ないから。
「はぁっ……」
あの後どれぐらい青子の傍に居たのだろう。
結局はいけないと思いつつも彼女を慰めてしまって。
抱き締めこそしなかったけれど、頭を撫でてやって。
自分の割り切れなさに複雑な思いを抱えたまま、先に帰ると言った青子に別れを告げ、快斗は今一人屋上から見える鬱陶しい程綺麗な夕焼けに溜息を吐いていた。
正直、自分が全て起こした事とは言えここ一月は色々な事があり過ぎた。
青子と別れ。
新一と別れ。
一人になりたくて引越しをして。
そして今日、再び青子を傷付けた。
「俺だって…泣きたいぐらいだよ……」
あの日新一に直接別れを告げようとも思った。
けれど、真正面から彼にそんな事言える訳もなくアレを置いて出てきた。
アレを置いて逃げてきたのだ、自分は。
あの日以来ずっと泣いていない。
泣きたくて泣きたくて、涙は零れそうになるけれど、どうにか押し留める。
自分には泣く資格などないと知っているから。
「新一、今頃蘭ちゃんと一緒かな…」
学校が一緒で。
クラスが一緒で。
恋人同志で。
足枷の俺が居なくなったんだから、始業式である今日は早く帰れるからきっと二人でゆっくりと帰っているか、もしくはどこかに出かけたかもしれない。
そう思うと酷く心が痛む。
けれど仕方ない。
それが自分が選んだ道だ。
「俺も、帰ろっかな……」
うんしょっと起き上がると、快斗は屋上を後にした。
「あ、哀ちゃん……?」
「随分と遅かったわね」
帰宅するべく正門を出た所に、ランドセルを背負った可愛らしい女の子が待ち構えていた。
それは、見紛う事無く彼のお隣に住んでいる彼女。
「なっ……何で……」
「私は小学生。貴方は高校生。私の方が学校が終わるのは早いからずっとここで待ってたの。
今日は始業式だから終わるのが早いだろうと踏んで来たのだけれど、貴方が全然出て来ないから間違いだったかと思ったら皆ぞろぞろ帰っていくじゃない?
だからここで一応待ってみようと思って待っていたのよ。私が来る事を知らない貴方が態々裏門から帰るとは考え難いから」
「そ、そうじゃなくて……何で哀ちゃんが俺をここで待ってるの……?」
新一とそういう関係になった時、一番最初に紹介されたのが哀だった。
勿論怪盗としての快斗は彼女の事は知っていたが、昼の顔で会うのは初めてだった。
だからにこやかに挨拶したつもりだったのに、
『………工藤君の事泣かせたら、貴方の事殺すわよ?』
初対面でそんな言葉を言われた事を今でも鮮明に覚えている。
あの時の冷ややかな目は忘れようと思っても忘れられる物ではなかったから。
「……貴方、私が最初に『貴方』に会った時言った言葉を覚えてる?」
「ああ…。覚えてるよ」
「だから―――貴方の事殺しに来たのよ」