元に戻れば全てが解決すると思っていた
 元に戻れば全てが上手くいくのだと思っていた

 全てが元通り
 何もかも上手くいくと

 けれどそれは…

 人間が小さくなるという御伽噺よりも
 更に夢の様な御伽噺に過ぎなかった…








 夢から覚めても








「名探偵。こんな所で何をなさってるんですか?」
「……出たな、怪盗」


 落下防止のフェンスの上に腕を乗せ、更にその上にやる気なく顎を置き眼下を見下ろしていた探偵の耳にからかう様な言葉が聞こえた。
 それに不機嫌そうに探偵は眉を寄せる。
 視線は声の主に行く事無く、眼下の光の粒達に向けたままで。


「…人を幽霊みたいに言わないでくれませんか?」
「幽霊の方がまだマシだ。見えないからな」
「…確かに名探偵はそういうの信じなそうですからね」
「信じるとか信じないとかそういう事よりも、俺には見えない。ただそれだけだ」
「…らしいというか、何と言うか…」


 “夢がない”といつぞや呟いた言葉を小さく呟いて、怪盗はその横に探偵と同じ姿勢で並んだ。


「何を見てるんですか?」
「別に何も」
「何も?」
「そう、何も」


 明確に何かを見ている訳じゃない。
 ただ、この現実を冷静に見下ろしているだけだ。


「そう言えば名探偵」
「何だよ」
「留年決定だそうですね」


 核心を突いてきた。
 そこからどれだけ風穴が開くとも知らずに、目の前の怪盗は探偵の痛い所を小さな場所から確実に。

 それを誤魔化す様に探偵は呆れ半分でその言葉に乗ってやる。


「……だから、何でお前は今日俺が聞いた様な事まで知ってんだよ」
「企業秘密ですv」


 チラッと視線を眼下に広がる街から探偵へと移し、パチッとウインクを投げて寄越す怪盗に新一は溜息を零した。


「…嫌味かよ」
「別にそういう訳ではありませんよ。ご自分でももうとっくに覚悟は出来ていたんでしょう?」
「…まあ、…な……」


 幾ら世間で有名な『高校生探偵工藤新一』と言えども、限度がある。
 多少の欠席の多さなら大目にみて貰えただろう。
 事件事件で出払ってはいても、普通の状態だったならきっとそのまま最高学年に上がれた筈。
 けれど……この身体が小さくなって、何ヶ月もの欠席には流石に学校側としても目を瞑る事は出来なかった。

 職員会議でも意見は二分したらしい。
 レポートでも補習でも何でもして最高学年に上げてやるべきだという意見も出たという。
 それでも、半分以上の欠席日数では流石にそういう恩赦にも限界はあった。


「寂しいでしょうね」
「は?」
「彼女」
「彼女?」
「ええ。幼馴染の彼女ですよ」
「………」
「貴方と一緒に卒業出来なくてさぞ寂しいでしょうね」
「………」
「名探偵?」
「それは心配ない…」
「そうなんですか?」
「……アイツ彼氏が出来たんだってさ」
「……それは、それは………」


 流石にそれ以上言う言葉が出てこなかったのだろう。
 同情の滲む怪盗のその声に、余計に惨めさが増す。


「でも、貴方の傍にはお隣の彼女も…」
「……アイツは……」


 怪盗が誰の事を言っているか分かって、新一は言葉を切った。
 確かに彼女は居る…。
 けれど―――。


「アイツの身体はもうボロボロだよ。俺に渡す解毒剤を作る為に自分を実験台にし続けたせいでな」
「…えっ……」
「俺は自分の事に必死になり過ぎてそれにすら気付いてやれなかった。
 気付いた時にはもう―――全てが手遅れだった。もう、きっと…長くない……」


 込み上げてくる何かが溢れて仕舞わぬ様に、新一は真っ暗な夜空を見上げた。


「無様だろ」
「名探偵…」
「元の姿に戻れば全部上手くいくと思ってた。元の姿に戻れば、何もかも元通りだと思ってた。
 でも現実は違った…。俺が俺として存在していない間に、俺の世界は俺抜きで時間を進めてたんだよ」


 彼女は待てなかったと言った。
 泣きながら『ごめんなさい』と新一に告げた。
 待って待って待ち続けて……それでも待ちたいと願ったけれど、ついには疲れてしまったのだと。
 それは彼女の責任ではない。
 本当ならもっと早く手を離してやるべきだったのに、ずるずると彼女を巻き込み続けたのは自分。
 だから、彼女が幸せになってくれるならそれが一番良い。

 彼女はこれしかなかったと言った。
 泣きながら『ごめんなさい』と新一に告げた。
 自分のせいだからと、新一をそんな目に合わせたのは自分だからと。
 だから……せめてきちんと元に戻したかったのだと。
 か細くなった身体で、血を吐きながら、それでもしっかりとした瞳で新一にそう告げた。

 己のせいで不幸になる人間を目の当たりにしながら、それでも『工藤新一』へと戻った俺はきっと罪深いのだろう。
 これはきっと『コナン』という存在を殺してしまった俺の罪に対する罰なのだろう。


 空を見上げたまま、泣く事も自嘲するための笑みすら浮かべる事の出来なかった新一に、怪盗は優しく告げた。


「今からでも遅くはないのでは?」
「いや、遅いよ。もう…遅いんだ」


 怪盗の慰めにも新一は緩く首を振る。


「全てがもう遅い。どう足掻いても…俺が小さくなったあの時には時間は戻らない」


 今更彼女を引き戻そうとしても、それは彼女を苦しめる事にしかならない。
 今更クラスメイトと共に卒業したいと願っても、それは叶う事はない。
 今更彼女の身体が快方に向かう事はない。


「名探偵」
「ん?」
「でも、貴方は『工藤新一』を取り戻したのでしょう?」
「…ああ。そうだな」


 確かに求めていた『工藤新一』は取り戻した。
 けれど、工藤新一を構成していた周りの環境は緩やかに、でも確実に変わりつつあった。


「でも、俺が求めていた『工藤新一』が何だったのか、俺には分からなくなったよ」


 あの小さな掌では護れないモノが沢山あった。
 元に戻ったら、もっと沢山のモノを護れると思った。

 でも違った。

 元に戻って彼女を傷付けた。
 元に戻る為に彼女をボロボロにした。
 自分自身で自分自身の大切なモノを壊してしまった。


「価値なんて無かった。この身体にそこまでの価値なんて…」


 ギリッと奥歯を噛みしめる。
 このままだと泣いてしまいそうだ。
 けれど、自分にはそんな資格はない。
 泣く様な資格すら存在しない。


「名探偵…」


 まるで痛ましいモノでも呼ぶ様に、怪盗は小さく新一を呼ぶと、空を見上げたままの瞳をそっと掌で隠した。


「キッド…?」
「…泣きたいなら泣きなさい」
「……俺にはその権利は無い」
「…権利が必要なら私が差し上げます。だから今は―――」



 ――――ほんの少しで良いから、この瞬間だけは全てを忘れてしまいなさい。



 余りにも優しい声だった。
 その優しさに、思わず胸から何かが溢れそうになる。

 それを必死で押さえつけ、新一は瞳を覆っていた手を無理矢理引き剥がした。
 まともにキッドの顔を見る事なんて出来なくて、視線を逸らす。


「俺にはその権利は無い」
「名探偵…」
「…コレは、俺の罪だ」


 全ては自分の未熟さが生み出した結果。
 先の事を考えずに直感のまま動いた事に対する罰。

 あの時死んでいた筈だった。
 それが何の偶然か生き残った。

 あの時もしかして俺が……俺が生き残ってさえいなければ―――。


「名探偵」
「…!」


 何もかも見透かした様に名を呼ばれ、新一は肩をビクッと跳ねさせた。
 その肩にキッドは小さく溜息を吐くと、そっとその身体を後ろから抱き寄せる。


「馬鹿な事を考えないで頂けますか」
「…別に俺は」
「『あの時死んでいた方が良かった』なんて、馬鹿な考えでしかないと私は思いますが?」
「っ……!」


 ピクリともう一度小さくその肩が跳ねる。
 図星だと言っている様なモノだと新一自身感じてはいたが、それでも反射は素直だ。
 耳元にもう一度小さく溜息の音が聞こえた。


「貴方があの時死んでいた方が良かったと思っている人間なんて一人も居ませんよ」
「でも…」
「貴方があの時死んでいたら彼女は悲しんだでしょう。
 貴方があの時死んでいたら彼女は後に自分のせいだと苦しんだでしょう。
 貴方があの時死んでいたら――――」


 そう、新一があの時小さくならず死んでいたなら―――。



「―――私は貴方に出逢う事が出来なかった」



 確かにその前にニアミスはあった。
 まだ彼が小さくなる前の話し。
 けれどそれも、小さな彼と出逢ったからこそ知った。
 あの日あの時あの場所で、あの小さな『批評家』に出逢わなければ……。



「私は貴方と出逢わなかった“現在”いまなど想像したくもないですよ」



 貴方と出逢ってどれだけヒヤヒヤしたか分からない。
 貴方と出逢ってどれだけワクワクしたか分からない。
 貴方と出逢ってどれだけドキドキしたか分からない。

 貴方と出逢わなかったら―――きっと、こんな感情知らなかった。


「名探偵。だから今から始めましょう?」
「……始める?」
「そう。『名探偵』と『怪盗』の追いかけっこを」


 夜の追いかけっこには全てが関係ない。

 高校生だろうと、そうで無かろうと。
 彼女が他の人間の物になろうと。
 彼女の命の炎があと僅かだろうと。

 『探偵』と『怪盗』との関係には何の変りもない。


「…キッド」


 咎める様な声にも、キッドはニッコリと無邪気に子供の笑顔を見せる。


「私達には何も関係はないでしょう?」


 小さな探偵とした時と何も変わらない。
 寧ろ、身体の大きさというハンデが無くなった分、よりフェアに近付いただけ。


「…おい、キッド…! 自分が何言ってるか分かって…」
「しっ…」


 声を荒げかけた新一の唇を小さな声と、人差し指で牽制する。
 そうしてもう一度にこやかにキッドは笑って見せる。


「私に負けるのが怖いんですか? 名探偵」
「お前っ…!」
「それとも…もともと私に勝てるとは思っていない?」


 負けず嫌いのプライドのくすぐり方など心得ている。
 それを分かっていてもなお、新一はその瞳を睨み付けた。


「ふざけんな! 誰がお前なんかに負けるか!」
「その意気ですよ、名探偵。だから―――」



 そう、だから――――。








「―――悔しかったら、私を捕まえてごらんなさい」








 ふわっとまるで重力さえ無視して、キッドはその真っ白な身体を浮かび上がらせる。
 そうして、初めて出逢った時の逆再生かの様に、ふわりと上に降り立つと新一を見下した。


「名探偵。楽しみにしていますよ。貴方が私を捕まえてくれるのを」
「…言ってろ。その言葉今に後悔させてやる」
「それは楽しみですね」


 口元にシニカルな笑みを浮かべ、ポンッと小さく手元に白煙を立たせるとその中から取り出した薔薇を一輪、新一に放ってみせた。


「何だよ、コレ」
「それは貴方に対する敬意の証ですよ」
「敬意、ね」
「おや、信じて頂けていない様で」


 心外とばかりに目を見開くキッドを新一は呆れた様に見つめる。


「当たり前だろ」
「つれないですね」
「探偵が怪盗につられてどうする」
「それは確かに」


 クスリと一つ小さく笑って、キッドはマントを翻した。


「でも、名探偵。覚えておいて下さい。私はいつか―――貴方を手に入れてみせますよ」


 ふわりと白が舞って、そうして一瞬にして夜の闇へと溶け込む。
 白が在った筈のその場所にはただ暗闇だけが広がっていて、いつもながらのその鮮やかさに関心もするが呆れもする。


「ったく、…言うだけ言って消えるな、つーの……」


 その空間を見詰めて、小さく呟いた新一の言葉は呆れこそ含んでいたが、それでもその口元には小さな笑みが上っていた。
 そうして、手の中に残った一輪の薔薇を見詰める。


「…とっくに俺は……」


 言いかけて言葉を切る。
 アイツの事だ。
 もしかしたらどこかで聞いている可能性だってある。

 クスリと小さく笑ってくるっと手の中でその薔薇を回して、その赤い花弁に口付ける。



「………簡単に手に入ると思うなよ」



 ―――――『工藤新一』と怪盗との勝負は今正にここから始まるのだから……。




































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