開けてはいけなかったパンドラの箱

 この世の全ての疫災が詰まった箱

 開けてしまった瞬間に
 この世は多くの闇に包まれた


 けれど、その箱の奥には小さな一つの光があった















 パンドラの箱















 開けてはいけない箱を開けてしまった愚かな女。
 多くの厄災が解き放たれ、そして最後に残されていたのは【希望】だった。

 彼女は何故それに気付かなかったのだろう。

 その最後に残った【希望】こそが――――――最大の疫災であるという事に…。















「今日もハズレ、か…」


 月にその身を翳されても、透明な光しかこちらに投げかけてくれないその宝石は、その瞬間に唯の石に成り下がった。

 価値にして数百億。
 ビックジュエルと呼ばれる宝石も、怪盗にとって目当ての物でなければ唯のガラクタ。


本物パンドラなんてホントにあんのかね…」


 価値の無くなったそれをその辺に放り出してしまいたいところだったが、一応返却しなくてはいけない物体なのでその衝動を何とか押し止めて丁重にジャケットのポケットにしまいこむ。

 幾度と無く同じ事をした。
 何度も何度も、切なさと苦しさと…どうしようもない虚無感に襲われてきた。
 今夜も結局同じ。
 そして明日以降の夜もそれは変わる事のない真実の様に感じられる。

 こんな事をしている自分の行動がまるで酷い悪足掻きの様で、みっともなささえ覚える。


「希望…か」


 かの有名な愚かな女が開け放った箱の中に最後の最後まで隠れていたのは『希望』だという。
 それを救いの様に話は語られているけれども、正直少しばかり納得がいかない。

 『希望』なんて余計な物が無ければ、人はもっと楽に生きられる気がする。
 『希望』なんて余計な物が無ければ、絶望する事もないかもしれない。

 期待するからこそ、裏切られた時の衝撃は大きい。
 『希望』があるからこそ、『絶望』が生まれる。


「それが一番の厄災なんじゃねえのかね…全く……」


 毎度毎度期待するなと自分に言い聞かせて仕事に臨む。
 それでも『もしかしたら…』なんて思いがない訳じゃない。
 そうしてその度に確認して落胆する。
 それの繰り返しだ。

 慣れては来た。
 その落胆すら今では少ない。
 それでも――――。




「ったく、夢がねえのはどっちだよ」
「…!」




 突然かけられた声にビクッとしたが、それをおくびにも出さずに怪盗は優雅な動作で振り返った。
 そうしてその声の主の姿を視界に入れると優雅に一礼して見せる。


「これはこれは名探偵。今宵はお越し頂きまして恐悦至極」
「まーた気障な口調使いやがって。怪盗紳士振るのも大概にしろ。似合わねえから」
「全く、相変わらず手厳しいねぇ…」


 心底嫌そうに顔を顰められては仕方ない。
 彼相手に『怪盗紳士』は通用しないらしい。

 諦めて砕けた口調でそう言えば、ずいっと手を差し出された。


「ん?」
「宝石、返すんだろ」
「あー…確かにそうなんだけどさぁ…」
「何だよ」
「あんま、お前にばっかり任すのもなぁ…」


 今までの色々で『キッドキラー』だの何だのと世間様では騒がれている。
 これ以上この目の前の名探偵殿に返却をお願いするのは…正直避けたい。


「何だよ。俺じゃ不満かよ」
「別に不満じゃねえけど、お前が大変になるだけだろ?」


 どこぞの絵画の時じゃないが、また直接依頼があの眠りの小五郎の所に来るとも限らない。
 ただでさえ自分の事で手一杯なこの名探偵殿にこれ以上の負担を掛けたくないのが怪盗の本音ではあったのだが、怪盗のそんな言葉に探偵はフッと口の端を持ち上げた。


「バーロ。何人様の心配してんだよ」
「そりゃするでしょ。名探偵だって自分の事で大変なんだろうからさ」
「ご心配どうも。ったく、他人の心配してくれるなんて相変わらずハートフルな怪盗さんだな」


 茶化し気味にそう言って下さる探偵に怪盗はムッと眉を寄せた。


「あのな、俺は本気で心配してんだよ。お前はお前でやらなきゃいけない事があんだろ。俺に構ってる暇なんて…」
「別に俺は暇だから構ってんじゃねえよ」


 けれど、怪盗の抗議は冷静な探偵の声にかき消される。
 その眼が酷く真剣に自分を見詰めている事に気付いて、怪盗はこくっと息を飲んだ。


「名、探偵…?」
「お前が俺を心配してくれてる様に俺だってお前の事心配してんだよ」
「え……?」


 言われた意味が飲み込めずに怪盗が呆然と探偵を見詰めれば、その視線と全くもって何も分かっていないという態度に苛立った探偵が少しだけ声を張り上げた。


「あのな、自分ばっかり心配してると思うなよ! 俺だって…っ……。ったく…何で俺がこんな事言ってやんなきゃなんねえんだよ……」


 言いかけて、漸く平静を取り戻したのか全部言う事はせずにもごもごと口を噤む探偵を怪盗は未だ呆然と見詰めながら固まっていた。
 正直言えば……まだ上手く事態が飲み込めていない。

 呆然としたまま見詰め続けていれば、いっそ睨むにも近い程探偵が怪盗を見詰める視線に冷たさが籠った。


「あー…くそっ! 大体お前がいけないんだからな!」
「え…? あの、名探偵…」
「毎度毎度気になる予告状は出してくるし、派手なパフォーマンスはするし、つーかもう存在自体が謎の塊みたいな奴だし…」
「あー……名探偵、つーか探偵は皆謎々が大好きだもんなぁ…」


 白い馬然り。
 西の探偵然り。

 『探偵』と称される人間は皆『謎』が大好物だ。
 確かにそれは名探偵とて同じであるから釣れるのも分かるお話ではあるのだが…。


「その癖、人が危なくなると怪盗の癖に探偵助けるし、何だかんだ人は傷付けたりしねーし…」


 言いながら不機嫌に探偵の唇がへの字に曲げられていく。
 一体何がそんなに不満なのかは分からないが、それでも名探偵殿のご機嫌は下降の一途だ。


「ホント…お前ムカツク」
「あー…何かすいません;」


 何だかよく分からないが名探偵を不機嫌にしているのは怪盗自身らしい。
 とりあえず素直に謝っておけば、探偵はその顔をジッと見詰めた後、緩く首を振った。


「違う、違うんだ」
「?」
「別に俺はお前に文句が言いたい訳じゃなくて…」
「いや、名探偵。もう充分言ってるから…;」


 額に手を当てて、深い溜息を吐いた探偵の言葉に少しばかり呆れながら怪盗がそう言えば、探偵はもう一度深い溜息を吐いた。


「ただな、お前が素直に『希望』すら持てないのが少し癪に障っただけなんだよ」
「おや、聞いてた訳ね」


 小さな独り言だった筈なのだが、名探偵の耳にも届いていたらしい。
 彼の気配に気付けない程自分の世界に入り込んでしまっていたのかと思うと少し気恥ずかしかったが、それも内心に押し留め怪盗は馬鹿にした様に小さく笑った。


「だってしょうがないだろ。『希望』なんて所詮唯の悪足掻きだ」
「人に『夢が無い』なんて言った奴が言うセリフかよ」
「それはそれ。これはこれだよ」
「ったく、都合良い奴だな」


 言いながら『自分でもそう思う』なんて思ったりしたけれど、そんな事言える訳もなく苦笑いで探偵の視線を受け止めれば、探偵の目が少しだけ細められた。


「疲れてんだな、お前も」
「…は?」
「あー…自分でも気付いてねえのかよ。重症だな、お前」


 言いながら一歩、また一歩と近付いてくる探偵に怪盗が少しだけ警戒の色を強めれば呆れた様に小さく笑われた。


「何もしねーよ。そんなお前捕まえても面白くないから安心しろ」
「…酷い言われ様だな;」


 そう言われて肩の力が抜けた。
 戦意喪失しガクッと肩を落とした怪盗に満足したのか、探偵はその白いマントをクイッと少し引っ張った。



「ん?」



 ――ぐいぐい。



「えーっと…名探偵?」



 ――ぐいぐいぐい。



 引っ張られる強さが強くなり、回数も増えた所で怪盗ははたと気付く。



「あー…しゃがめって事ね。はいはい」


 身長差があっては面倒なのだろう。
 けれど、それを素直に言うには名探偵殿のプライドは些か高過ぎるらしい。

 そんな幼い動作に苦笑しながらも、素直に怪盗は膝を折り探偵と視線を合わせた。


「これで宜しいですか? 名探偵」
「ん…」


 コクッと満足げに頷かれてまた苦笑が漏れる。
 全く、素直じゃないのはどっちだか。


「で、どうしたよ?」


 態々しゃがませた理由を問う様に怪盗が首を傾げれば、小さな手がピタッと額に当てられた。


「えっ…? えっと…名探偵…?」
「熱は、ないな…」
「え、うん…」


 問われた意味が分からずにハテナマークを顔に浮かべたままでいれば、その手は右頬に添えられそしてもう一方の手も左頬に添えられた。


「えっと…あの……名探て、…」
「良いか。よく聞け」
「あ、はい…」


 近距離。
 ドアップ。

 メガネで隠れてこそいるが、それを差し引いても余りにも整ったその顔にドキリと胸が高鳴る。
 自分の心拍数が上がっている事が頬とはいえ添えられている手から探偵に伝わってしまいそうで、余計に心拍数が上がる。

 真っ直ぐに目を見詰められて、けれど声は蜜事を告げる様に顰められて、その事に余計に息が出来なくなる。


「人間はな『希望』があるから生きていけるんだよ。
 俺だってそうだ。『元に戻れるかもしれない』と、そう思うからこそ生きていられるし、悪足掻きだって出来る」
「でも…」
「確かに『希望』を持たなきゃ絶望だってしないのかもしれない。でも、……人は『希望』も持たずに生きられる程、強くねえんだよ」


 コナン自身でもそうだ。
 元の身体に戻れるかもしれないという希望さえ無くなってしまったら、果たして生きていられるだろうか。
 それでもあの組織を潰すという目的を遂げられるだろうか。

 正直コナンも分かっている。
 組織を潰し、あの薬を手に入れ、そして元の身体に戻れる可能性なんてほんの僅かしかないだろう事も。
 それでも…その僅かの希望に縋るしかない。

 それを怪盗は悪足掻きだという。
 それはそうだ。
 確かにコナン自身も悪足掻きだと分かっている。

 分かっていてなお、元の身体に戻るという『希望』の為にみっともなく足掻いている。


「お前の言う様に、俺のやってる事も唯の悪足掻きだろうさ。みっともないのも俺自身分かってる」
「別に俺はお前の事そんな風に思ってない」
「そう言うなら俺だって同じだよ。俺もお前の事、そんな風には思ってない…」


 自分から見れば唯の悪足掻きだとしても、一歩下がって周りから見ればそうではない。
 自分を嘲笑する様に悪足掻きだと言ってみせるその行為すら、必死なのだと周りは知っている。

 この怪盗だってそうだ。


「お前が俺の事をそう思ってくれてる様に、俺だって知ってるよ。お前が……必死だって事ぐらい、俺も知ってる」
「名探偵…」
「あんまり自分を自嘲してやるな。よくやってるよ、お前は。ホント…心配になるぐらいよくやってる」
「…っ……」


 一瞬、怪盗の瞳が泣き出しそうに揺らいだ。
 けれどそれを見ない振りで流してやって、探偵は小さく笑った。


「まあ、探偵に慰められる様じゃまだまだだけどな」


 そこまで言って手を離してやれば、それでオシマイ。
 あくまでも自分達の関係は『怪盗』と『探偵』だ。
 出来るのはきっとここまで。


「その分だと、俺に捕まるのも時間の問題…ってとこかな」


 最後に一言そう付け加えてやれば、怪盗の瞳が一瞬見開かれてそしてゆっくりと口元が歪められる。


「冗談。誰が捕まるかつーの」
「さっきまで泣きそうな顔してた奴がよく言うぜ」
「泣きそうな顔なんかしてねえよ。ただ、俺の守護星がちょっとばっかり眩しかっただけだ」


 そう言って月を仰ぎ見た怪盗はスッと立ち上って、思い出した様にジャケットのポケットから本日の獲物を取り出しコナンへと放った。
 キラキラと月の光を浴びて輝きながら、それはすんなりとコナンの手の中へ収まる。


「やっぱりそれ返しといてよ、名探偵」
「何だよ。俺に迷惑かけないんじゃなかったのか?」
「前言撤回。キッドキラー大いに結構。次も俺の事捕まえに来いよ。まあ、お前には絶対捕まらないけどな」
「それこそ冗談だろ。俺が絶対お前の事捕まえてやるよ」


 ニヤリとコナンの口元も歪められたのを確認してから、怪盗はシルクハットのつばに手をかけた。



「期待してるぜ、名探偵。―――――次のショーも必ず来いよ」



 不敵な笑みを怪盗が浮かべた刹那、ポンと言う破裂音と煙幕がコナンの視界に広がり………そして、それが全て消える頃、怪盗の姿もまたその場から掻き消えていた。
 怪盗の居なくなったアスファルトの地面を見詰め、コナンもまた不敵な笑みを浮かべた。



「ったく、何がショーだよ。……まあ、しょうがねえから招かれてやるか」






























 ハンググライダーで夜の街を見下ろしながら、さっきの名探偵の言葉を思い返してうっかり泣いてしまいそうになる。


『お前が俺の事をそう思ってくれてる様に、俺だって知ってるよ。お前が……必死だって事ぐらい、俺も知ってる』


 あんな事、言われるなんて思ってもいなかった。
 探偵として対極にある筈の彼が、そんな風に思ってくれているなんて。

 確かに疲れていたのかもしれない。
 探しても探しても見つからない愚かな女に身体も、そして心も疲弊していたのかもしれない。

 それでも―――そんなモノ、名探偵の言葉であっさりと吹っ飛んだ。


「……見つけた。俺の『希望』……」


 もしかしたら、あの扉は開けてはいけない『パンドラの箱』だったのかもしれない。
 落胆や、恐怖や、絶望をそのパンドラの箱は連れて来たのかもしれない。

 けれど……箱の奥底には小さいけれど光り輝く『希望』が存在していた。
 それに気付いたら、もう何もかもが大丈夫な気がしてくるのだから、自分でも現金だと思う。それでも―――。



「―――名探偵。俺は……お前が居てくれたら……大丈夫、だよ」



 決して本人に言う事は出来ない言葉は夜の闇の中、静かに怪盗の心の中に沈んでいった。
























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