どんな恋も
 どんな愛も

 手に入れられないからこそ
 輝きを放ち
 それを手に入れた瞬間
 その輝きは朽ち果てる


 だから俺は―――








 Love not securable








「こんばんは。名探偵」
「随分遅かったじゃないか、コソ泥さん」
「貴方のせいだというのに随分な言い方ですね」
「さて、何の事だかな」


 屋上のフェンス越しに地上の星々を眺めていた探偵がフェンスにかけていた手に、怪盗の手袋に包まれた白い手がそっと触れる。
 それを咎めるように眉を顰め、探偵は少しだけ肩越しに怪盗を振り返る。


「離せよ」
「嫌です」
「お前に拒否権はねえよ。離せコソ泥」
「そんなに嫌ですか?」
「さあな」


 いつだってそう。
 探偵は完全に拒みはしない。
 その癖決して怪盗を受け入れようとはしない。

 いつだって―――。


「名探偵」
「ん?」
「嫌なら嫌で、貴方はこの手をいつでも振り払うことが出来る。それなのに何故…」
「どうして俺がそんな事の為にわざわざ労力を払わなきゃいけないんだ?」
「本当に…随分ですね。貴方はいつも」
「そう思うなら、離すなり帰るなりしたらどうだ?」
「…本当につれない方だ」


 怪盗が少しだけその手に力を籠めれば、迷惑そうに探偵の眉がより寄せられる。
 それに怪盗が余計に苛立ち、反対の手で、探偵の腰を抱く。


「…お前には言葉が通じないのか?」
「私が聞くと?」
「離す気も、帰る気もないって事か?」
「あると思っていたんですか?」
「………」


 はぁ…と小さく溜息が漏れた。
 次いで、探偵の手がそっと腰に回されていた怪盗の手に触れる。


「お前は俺をどうしたい?」
「貴方の全てが欲しいんです」
「俺をくれてやったら、お前は一体俺に何をくれるって言うんだ?」
「私の全てを貴方に」


 誓う様に耳元でそう囁けば、返ってきたのは軽い嘲笑。


「お前の全てだって? 全てを見せる気なんか無い癖に」
「そんな事はありませんよ。貴方が望むのなら、今すぐにこのモノクルを取って素顔を晒してもいい」
「お前のその衣装に対する矜持はそんなもんか?」
「…貴方の為なら……」
「そんな押し付けがましいのはごめんだ」


 跳ね除ける言葉と、払い除けられた手。
 それが答え。


「俺を手に入れたいなら、もう少し口上手い説き文句でも用意してくるんだな」


 怪盗を押し退ける様に立ち去ろうとする探偵の腕を怪盗は咄嗟に掴んだ。


「名探偵」
「何だ?」


 向けられるのはあくまでも冷たい眼差し。


「貴方は私がお嫌いなんですか?」
「嫌いだったら俺がわざわざここまで足を運ぶと思うか?」
「なら何故私を拒むのですか?」
「理由が必要か?」
「ええ。私には」


 掴まれた腕はそのままに、探偵は怪盗を見詰めた。


「俺は探偵だ」
「ええ」
「で、お前は怪盗」
「…そうですね」
「だとしたら、それ以上にどんな理由が必要だって言うんだ?」


 探偵だから怪盗を拒む。
 それ以上に一体どんな理由が?


 向けられる視線は先程の鋭い冷たさはない。
 それでもあくまでも、その視線は冷静。


「…だとすれば、貴方が私を嫌わないのも可笑しい」
「どうして?」
「探偵である貴方にとって怪盗である私は捕まえるべきモノであり、敵だ」
「そうだな」
「だとしたら、嫌うのが道理では?」


 正論に正論で返した、とばかりの怪盗の視線を、探偵は口元に笑みさえ浮かべて軽く受け流す。


「お前を嫌える探偵が居たら是非見てみたいな」
「どういう意味ですか?」
「お前みたいな“謎”の塊を探偵が放っておける訳ないだろう?」
「…私は貴方達の玩具、という訳ですか」


 まるで子供が拗ねた様な言い草だと、怪盗とて分かっていた。
 それでも、そう言わずにはいられなかった。

 そんな怪盗を探偵は更にクスクスと笑う。


「そう拗ねるな。褒めてるんだ」
「褒められてる気がしないんですが?」
「そうだろうな」


 相変わらずクスクスと笑う探偵に、不機嫌そうに怪盗の眉が寄る。
 掴んだままの腕を思いっきり引き寄せて、探偵を再度無理矢理に腕の中に収めてしまう。


「おいっ…!」
「貴方が悪いんですよ」
「あのな、キッド…」
「拒むなら私を突き飛ばして逃げたらどうです? 名探偵」
「………」


 挑発的な怪盗の言葉に探偵は口を噤む。
 そして、身体の力を抜いた。


「名探偵?」
「お前と俺じゃ、力の差があり過ぎる」
「“言い訳”ですか?」
「“言い訳”だな」


 クッと小さく笑った探偵が、怪盗の胸にすりっと頬を擦り付ける。
 甘える様なその仕草に、怪盗の心拍数が上がる。
 それは当然、その腕の中にいる探偵にも伝わった。


「どうした?」
「名探偵…貴方は一体何を考えているんですか?」
「さあな。少しは自分で考えてみたらどうだ?」


 一歩押せば一歩引かれる。
 一歩引けば一歩押される。

 手に入りそうな位置でするりとそれを裏切ってみせる探偵の本心が怪盗には分からない。
 それが酷くもどかしい。


「私は怪盗で探偵じゃない。貴方の心の内を推理するなんて真似は出来ませんよ」
「それなら怪盗らしく、俺の心でも盗んでみたらどうだ?」
「っ…」


 皮肉交じりに投げつけた言葉に返ってきたのは、それよりも更に上を行く皮肉。
 返す言葉が咄嗟に出ず、怪盗は唇を噛む。
 それに探偵がまた少しだけ笑って、もう一度頬を擦り付けた。


「お前は俺が今まで見た中で一番の怪盗だと思うよ。だから、一番盗み出せる可能性はあるんじゃないか?」
「………」


 惹き付けて。
 突き放して。
 そしてまた、思わせ振りな言葉を告げる。

 まるで―――悪魔だ。


「…私には貴方が分かりませんよ」
「そうだろうな。そういうのは探偵の領分だ」
「探偵というのは随分意地が悪いんですね」
「怪盗っていうのは随分要領が悪いんだな」


 ああ言えばこう言う。
 本当に探偵なんて性質の悪い生き物だ。

 そんな性質の悪い悪魔に、怪盗は完全に魅入られてしまっている。


「好きな相手の前では要領も悪くなりますよ」
「それじゃ、俺は手に入れられないな」


 クスクスと腕の中で楽しそうに笑う探偵に、怪盗はどうしたものかと溜息を吐く。


「手に入れられるなんて最初から思っていませんよ」
「天下の怪盗キッド様が随分と弱気だな」
「平成のホームズが相手では私も分が悪い」
「それじゃ、俺がつまらないだろ?」


 本当につまらなそうにそう言って、腕から抜け出ようとした探偵を怪盗は慌てて抱きしめる。


「離せよ」
「嫌です」
「俺はつまんねー奴は嫌いなんだよ」


 つっけんどんに言われた言葉はやはり冷たい。
 突き放すその冷たさに背筋が凍る。


「名探偵」
「何だ?」
「あんまり可愛くない事ばかり仰ると、流石の私も何をするかわかりませんよ?」


 怪盗自身、探偵相手によくこんな冷たい声が出せたと思うぐらいの冷たい声が響く。
 けれどそれに探偵が動じる事はなかった。


「勝手にすればいい。俺には関係ない」
「……そうですか」


 余りにも他人行儀な受け答えに、流石の怪盗も痺れを切らし、探偵を抱きしめる腕に力を籠める。


「痛い。離せ」
「嫌です」
「…離せよ」
「嫌だと言っているでしょう?」


 言いながら、怪盗は腕の中の探偵の背筋をそっと下から上に撫で上げる。


「っ……」


 探偵が腕の中で小さく声を上げるのを確認して、漸く怪盗の口元に笑みが上る。


「どうしました? 名探偵…」
「…てめぇ……」
「私が何をしても関係ないのでしょう?」


 怪盗は小さくクスクスと笑いながら、探偵の耳元に唇を寄せる。
 探偵がビクッと反応したのに気を良くして、囁く様に息を吹き込む。


「貴方が悪いんですよ。貴方がそんな風に私を煽らなければ素直に帰してあげるつもりだったのに…」
「ぁ……っ……」


 ちろっと舌を出し、軽く耳を一舐めしてやれば、途端に甘い声が上がる。
 自分の出した声に、咄嗟に唇を噛んだ探偵を怪盗は小さく笑う。


「敏感なんですね」
「う、うるせー! 離せよっ…!」
「嫌だと言っているでしょう?」


 じたばたと暴れ出した探偵を、更に腕に力を籠める事で封じて。
 顔を更に首元に埋め、項を一舐め。


「やめっ……んっ……」
「嫌がっている様には私には見えませんけどね」
「…やっ……」


 次々と上がる甘い声に、背筋に痺れが上ってくる。
 堪らなく…甘い。


「嫌、ではないでしょう?」
「やだっ……」
「強情ですね」
「…あっ……!」


 耳を甘噛みしながら、背中を撫で上げる。
 探偵の甘過ぎる声に、怪盗も堪らなくなってくる。

 このままでは―――。


「そんなに甘い声を上げられては、私も我慢できなくなってしまいますよ?」


 少しだけ冗談めかしてそう言って、怪盗は顔を上げ少しだけ腕の力を緩める。
 腕の中を覗き込めば、耳まで真っ赤に染め上げた探偵が少しだけ息を荒くしていた。


「てめぇっ…! 何しやがる、この変態!」
「随分な言い方ですね。貴方だって感じてらっしゃった癖に」
「なっ……! ふざけんな! てめぇが勝手にそう思ってるだけだろうが!!」
「仕方ありませんね。今日の所はそういう事にしておいてあげますよ」


 全く、あんな反応をしておいてこんな減らず口を叩くのだから、ある意味大したものだ。
 心の中で少しだけずれた感心をしながら、怪盗は探偵から手を離した。
 慌てて腕の中から抜け出した探偵に、怪盗の口からはまた小さく笑みが零れる。


「今度あんまり可愛くない事を言ったら、貴方が嫌だと言っても止めてはあげませんからね?」
「バーロ! 大体お前は怪盗“紳士”なんじゃねえのかよ!!」
「あまりに貴方が魅力的なのでね、紳士の仮面なんてどこかに行ってしまいましたよ」
「っ…! この変態! さっさと帰れ!!」
「やれやれ…。全く、貴方って人は……」


 頭は良いのに、こういう事はからっきしだ。
 そういうちょっとばかりの反抗が男心を煽るのを全く分かっていらっしゃらない。

 本当に――――煽られて仕方ない。


「分かりました。今日の所は大人しくお暇しましょう。でも…」
「何だよ…」


 意味深に言葉を切った怪盗を探偵が訝しげに見つめれば、返ってきたのはニヤリとした何かを企んだ様な笑み。


「今度は、ちゃんと覚悟をしてきて下さいねv」
「っ…ば、バーロ!! 誰が覚悟なんかするか!!」
「はいはい。でも、私はちゃんと予告はしましたからね」


 クスッと楽しそうにそう笑って、怪盗は腰のスイッチに手をかけるとハンググライダーの翼を広げた。


「それでは名探偵。次回こそは、貴方の心を盗んで見せますよ」


 言うが早いか、怪盗は夜の闇の中へと躊躇いもなく飛び込む。
 黒の中に飛び込んだ白の三角が徐々に小さくなっていくのをフェンス越しに見詰めて、探偵は小さく息を吐く。


「バーロ…。誰が簡単に盗まれてやるかっての…」


 好きだと。
 愛していると。

 口にする方がどれだけ楽だか分からない。

 彼を追う者は多い。
 彼に魅了される者はもっと多い。

 どれだけの人間が、彼を求めているかなんて、彼自身にすら分かっていないだろう。
 自分がどれだけ人を魅了するかなんてあの男はさっぱり分かっていない。

 怪盗の愛の囁きに愛の囁きを。
 怪盗が差し出す手に自分の手を。

 差し出す事は簡単。
 そして、差し出せば怪盗は自分を優しく抱きしめてくれるだろう。


 けれど―――いつ彼に飽きられるかなんて、分からない。


 今日愛を囁いた彼が、明日自分を捨てるかもしれない。
 今日自分に差し出された手が、明日には他の誰かに差し出されるかもしれない。

 それはもう―――明らかな恐怖。

 飽きられたら終わり。
 もっと魅力的な探偵が彼の前に現れた日には、自分はきっと彼の中ですっかり色褪せてしまうだろう。

 だから、自分は彼の言う『名探偵』でなければならないし、素直に彼のモノになってやるわけにはいかない。
 手に入らなければ手に入らない程、人は焦がれるものだから…。



「愛してるよ、キッド……」



 本人には決して告げる事の出来ない言葉は、夜の闇の中、これ以上ないぐらい甘く響いた―――。





















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