『好き』

 『大好き』

 『愛してる』


 だからしょうがない。
 耳の痛い本音よりも、優しい嘘を人は選ぶのだから…。










嫉妬と執着と寂しさと











「………」
「………」


 何も言わず、玄関先で向かい合う。
 それはもう重い重い沈黙を纏って。


「………」
「………」


 一言発するのがまるで負けだと言わんばかりに、お互いに口を開くことも無い。
 それもこれも、お互いに理由は分かっている。
 分かっているからこそ、性質が悪い。


「………」


 先に動いたのは新一だった。
 一つ溜息を吐いて靴を脱ぐと、目の前に仁王立ちになっている快斗の横を通り抜けようと一歩踏み出した。


「…待てよ」


 先に口を開いたのは快斗だった。
 横を通り抜けようとした新一の腕を掴むと、普段出した事すら無い様な低い声でそう呟く。


「痛いだろ。離せよ」
「やだね。ちゃんと理由を聞かせろよ」


 新一が振り解こうとした手は、しかし、しっかりと快斗に掴まれたままそれ以上動かす事が出来ない。


「このっ…馬鹿力…!」
「有難う。褒め言葉として受け取っとくよ」


 嫌味で呟いた言葉すら、嫌味の応酬に飲み込まれて何の効果ももたらさない。
 より悪い事に、それで余計にその手に力が込められる。


「っ…」
「怪我しないうちにちゃんと言った方がいいんじゃない?」


 口元は笑っている。
 それでも、その目は笑っていない。

 こういう時の快斗が一番怖い事は新一が一番良く知っている。
 けれど、今日は…。


「だから、ちゃんと連絡しただろ」
「『トモダチと飲んでくる』ってメールしただけで、帰ってくるのが深夜の三時?
 心配してメールも電話もしたのに、それを全部シカトしてた人が『ちゃんと連絡した』なんて言う訳?」


 スッと目が細められて、流石の新一も背筋にスッと悪寒の様なモノが走り抜ける。
 コイツだって、伊達に怪盗なんてやっている訳じゃない。
 存在感も、向ける愛憎も、生半可なものじゃないと知っている。


「俺だって偶にはそれぐらい…」
「偶に、ね。今週それが何回目だか分かっててそんな事言ってるの?」
「………」


 三回目。
 そう言いかけて、新一は口を噤んだ。
 今この状態で言ってしまえば、火に油を注ぐ事になるのは分かりきった事だ。


「それが『偶に』だったら、一体何が偶になんだか…」


 そういう嫌味がどういう効果をもたらすのか、きっと快斗は本当の意味では知らないと新一は思う。
 そんな事を言われたって、怒って反論する訳でも、泣き喚く訳でもない。新一の場合は。

 一つ一つの嫌味が小さな黒い塊となって内心へ落ちていく。それだけ。
 ただそれだけだと、ずっとずっと思っていた。
 大した事はないと…ただ、溜め込んで小さく小さく固めてしまっておけばいいのだと。

 けれど、最近思う。
 それが日々積もり積もって、飲み込めなくなっていく。
 飲み込む瞬間に、その黒い塊が、胸の中にわだかまって、泣きたい様な苦しい様な嫌な感触を植えつけていく。
 だから、ただ唇を噛み締める。
 泣いてしまわない為だけに。


「言いたい事でもありそうな顔してるね? 言えば?」


 まただ、と思う。
 もう一つ、小さな塊を飲み込む。唇を噛み締める。
 ただ、それの繰り返しだ。


「別に…」


 漸く、そう紡ぐ事の出来た言葉に快斗は一つ深い溜息を吐く。
 それがどれだけ新一の心を抉るかなんて知りもせずに。


「言いたい事があるなら言えばいいだろ? 新一はそうやっていつも溜め込むんだから」


 簡単に言ってくれる、と思う。
 溜め込みたくて溜め込んでいる訳じゃない。

 言いたくても、言葉にならない。
 言いたくても、言葉が出てこない。

 そんな事、恥ずかしくて言える訳がない。


「そういうの、新一の悪い癖だよ」


 断定的に言われた言葉に、カッと頭に血が上るのを感じる。

 今までどうやって生きてきたかも知らない癖に。
 今まで何を考えて生きてきたかも知らない癖に。

 勝手に断定的に自分を否定されるのは、まるで全てを否定されている様な気がする。

 こみ上げてくる熱を胸の中で押さえつける度に、吐き気にも似た気持ちの悪さがこみ上げる。


「…悪かったな。溜め込むタイプで」


 もうこれ以上は限界だと思った。
 これ以上話していたら、多分頭と心が壊れてしまいそうな気がする。

 だから、自分が出来る限りのおもいっきりの力で快斗の腕を振り払った。


「……!」
「部屋に居る。入ってくるな」


 それだけ言って、逃げる様に階段をかけ上がり、自分の部屋へと滑り込む。


「新一!」


 後ろから聞こえた声も聞こえない振りをしてやり過ごし、自分の部屋のドアを閉め鍵をかけ、そのドアに背を預けたままずるずると座り込む。


「新一! 開けろよ!」


 鍵をしっかりと閉めたドアの向こうから聞こえる声を避けるように耳を塞いで蹲る。
 まるで叱られた子供の様だ、なんて頭の片隅で思い付いて、自嘲的な笑みが口元に上る。
 今の自分はソレと大して変わらない。


「……! ……!」


 快斗が何かを言って扉を叩いているのは分かる。
 でも、耳を塞いでいるから明確に何を言っているかは聞こえない。

 だからそっと目を閉じる。
 目尻から溢れ出した雫を抱えた膝で受け止める。

 目が熱い。
 それにハッとして、膝から顔を離す。
 泣くと目が腫れる仕組みを思い出して。

 泣くと目が腫れるのは、泣いたからではなく、泣いた時に目を押さえたり擦ったりする事によって毛細血管から組織液が浸出し、まぶたの皮膚組織がむくみと同じ状態になるからだという。

 だとすれば、こんな風に膝に顔を押し付けたまま泣いてしまえば明日はきっと目も当てられないぐらいに腫れてしまう。
 それは避けたい。
 明日、もしくはこの後、もしかしたら要請が入る事だって考えられるのだから。

 そう冷静に思った自分に何だか少し笑えてきた。
 こんな時でも、世間体を気に出来る自分が何だか酷く可笑しく、惨めだった。


 いつだってそうだ。
 世間体と、相手の都合と、そして自分の都合と。
 感情を表すより先に考えるのは、そんな現実的な事。

 いつからか抱え込む事を覚え。
 いつからか抱え込んだまま蓄積する事を覚え。

 そして、感情を前面に出す事を忘れてしまった。

 感情的な自分なんて見せたくもなくなって。
 感情的な自分なんて無かったことにして。

 包み隠せると信じていた。


「……! …っ……!」


 相変わらず背中を預けたままのドアには、快斗が扉を叩く振動が伝わってくる。
 そんな振動を味わいたい気がして、ドアに頭をつける。
 そして思う。
 いつからこんな風になってしまったのかと。

 新一にも言いたい事ぐらいはあった。

 お前が仕事で忙しいから、その時間を一人寂しくこの家で待つのが嫌だったんだ、と。
 要請がある時はいいけれど、それでもそんなに都合良くいつも良いタイミングで要請が入る訳はない。

 だから、他の誰でもいいから、その時間一緒に居て欲しくて。
 一番大切な人に会えない寂しさはそんなモノでは埋まらないと知っていたけれど、寂しくて寂しくて堪らなかったから、少しでも一部でも良いから他の何かで埋めたくて…。
 そんな日々を繰り返すうちに、そんな風に思う自分を彼に見せたくなくて、そんな自分が彼にばれるのが嫌で、だから他の日でもそうやって過ごす日を少しずつ増やすようにして、何もかもカモフラージュして…。

 その瞬間の寂しさを埋める事は自分の中での最優先事項で。
 そして、それが彼にばれないようにするのに必死だった。

 だって、そこまで寂しがりで格好悪い自分なんて彼には見せたくない。
 いつだって余裕綽々で、お前の事なんてそこまで好きじゃないんだというスタンスで居たかった。
 こんなにも彼の事を考えてしまう自分なんて絶対に彼には見せたくなかった。

 でも、分かっている。
 それが唯の悪循環にしかならない事は。


「……! ………!」


 ぼおっと、そんな事を考えていた頭にガンガンと響く振動が酷く心地良い。
 それと同時に、何だか訳の分からない自虐的感情が生まれた。
 その感情のままに両手を耳から放し、おもいっきりドアに頭を打ち付けてやる。


「ガンッ!」


 頭を通して響いた大きな音と痛みと共に、目の前が少し真っ白になり、スッと頭が冷えていく様な感覚が生まれる。
 その感覚を堪能して数秒、ドアに叩きつけられていた振動が止んだ事に気付いた。

 それはそうだろう。
 いきなりおもいっきり内側からの衝撃があったのだ。

 それが手か、頭かなんてドアを通して向こうには分からないだろうが、普段そんな事をしない新一の今日の奇行に快斗も驚いたのだろう。


「……新、一……?」


 何秒かの間の後、戸惑った快斗の声が聞こえた。
 その声が余りにも弱々しくて、不憫になる程の声だったから、思わず答えてやってしまった。


「何だよ」
「…怒ってる?」
「ああ」
「ごめん」


 何だかいつの間にか、立場が逆転しているらしい。
 怒っていたのはアイツだった筈なのに。


「別に…」
「本当にごめんね」
「別にいいから、頼むから今は放っといてくれ」
「………」


 どうしようか考えているのだろう。
 無言で過ぎていく時間に少しだけイラっとする。


「もう寝ろよ。お前だって明日早いんだろ?」
「でも…このまま寝るなんて出来ない」
「だったら、ずっとそこに居んのかよ」
「新一が出てきてくれるまで、俺はずっとここに居るよ」


 面倒だ、と思う。
 放っておいて欲しいと思う。

 それでも、そんな感情よりも、このまま放っておいた時の面倒さの方が先に頭に湧いて出てきた。
 仕方なく、溜息を吐いて扉を開ける。


「新一!」


 途端に抱きつかれ、その腕の中で顔を歪める。

 どうせまた、いつもと同じ繰り返しだと分かっている。
 それでもまた、同じ事を繰り返してしまう自分が悪いとも知っている。


「ごめんね。本当にごめんね」


 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、そう言われても、何の心の変化も起こらない。
 ただ、苦しいだけ。


「別に…俺も悪かったし…」


 申し訳なさそうに、言う。
 意図的に。何も感じていない癖に。


「ううん。俺も言い過ぎたから…ごめんね」


 言われれば、言われる程に頭が冷えていく。
 冷静に。
 ゆっくりと。


「いや、ごめん」


 ただ、謝ればそれで済む事をもう知っていた。
 自分が謝ればそれで丸く収まるのだと知っていた。

 ただそれだけ。


「ううん。そんな顔させてごめん。本当にごめん…」


 ぎゅっと抱きしめられて、辛そうにそう言われても、自分がどんな顔をしているかなんて分からなかった。
 それでも予想は出来た。
 きっと辛そうな痛そうな顔をしていたのだろう。

 そう、演技した顔を。


「悪かったな。…ちょっとさ、トモダチの相談に乗ってやってて、話しが話しだけに、途中で携帯を開くのも気が引けて…」
「そうだったんだ…。ごめんね、理由も聞かずに怒るだけ怒って」
「いや、俺も悪かったよ。帰る時ぐらいちゃんと連絡すれば良かったんだけど…」
「ううん。いいよ、もう。ちゃんと話してくれただけ、俺は嬉しいよ」


 ぎゅっと抱きしめられた腕の中、苦し紛れにそう言えば、今日初めて聞く快斗の嬉しそうな声。
 それにほんの少しの罪悪感を頂きながらも、それでもその思いに蓋をする。

 自分の日常を円滑に紡ぐ為に。
 互いの日常を円滑に紡ぐ為に。


 嫌いな訳じゃない。
 勿論好きに決まってる。

 ただ、余りにも寂しさを我慢しているうちに、感覚が麻痺してしまっただけ。
 ただ、情とも慣れとも言える感情が素直に真実を言うよりも、日常をより円滑に紡ぐ嘘を選んでしまうだけ。


ごめんな…


 小さく小さく呟く。
 彼に聞こえない様に。
 いや、本当はもしかしたら聞こえて欲しいと願っているのかもしれないけれど。


「ん? 何か言った?」


 案の定聞こえていなかった事に安堵にも似せた落胆を覚えながら首を振る。


「いや、何でもない…」


 そうしてまた一つ、言葉を飲み込む。
 それが最善だと信じて。

 だからまた、小さな塊をゆっくりと飲み下していく。










 『好き』










 『大好き』



















 『愛してる』




















 それは紛れもない事実。
 寧ろ、好きだからこそ、愛しているからこそ、口を噤む事だってある。




















 それは必要な事。
 愛しているからこそ吐く残酷で優しい嘘…。




















end.



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