日常的日記


2005年1月31日(月)
ジャンプ9号

DEATH NOTE
デスノートのゲーム性はノートの規則の上での駆け引きにあり、またそれが小出しにされてきたことでアンフェアだとの批判も受けてきたのだが、遂に月はゲームマスターの地位にまで登りつめた。無論これは偽ルールなので、月は偽神に留まるという暗示の可能性もあるが。

REBORN
萌えキャラ投入。しかもショタ。あざとい…

ムヒョ
新レギュラーか。最初のルールはどうなった?
ルールを簡単に変更してるとゲームは成立しないんだが。
それはそうと、ムヒョとガキ、ロージーと女は意外と相性良さそうだ。ムヒョもロージーもローテンションの陰性キャラだから絡みづらいんだよなぁ。陽性キャラの投入は好機と見るが。

HUNTER×HUNTER
以前あの世界の念能力者を総計1000人前後と弾いたことがあったが、インフレもいいとこだ。

ゲドー
流石に終わるんだろうなぁ…
どう見ても一発ネタのキャラだったコウモリ男やヒトモドキがここまで出張ってきてるあたり、サブキャラの影の薄さを証明している。
本来讃良側の人間キャラをもっと掘り下げなくてくならなかったはずだが。
結局恋愛フラグも立たなかったし。

2005年1月30日(日)
ふたりはプリキュア

最期までジャアクキングのキャラが立たないままだったため、戦闘パートが燃え切らなかった。
取り込まれた三人組は「自分のため」というテーマを持っていたのに結局復活も無かったし。

質量を感じさせる活劇は見ごたえがあったが、日常パートと戦闘パートで脚本の質が違いすぎた。

二期目からは三人になるが、出来上がってる二人の間に異分子が介入することで何らかの変化が起こるのか、あるいは新キャラはトリックスターとして状況をかき回す役を演じるのか。

2005年1月27日(木)
プラネテス

とにかく、脚本が素晴らしかった。
原作にあるハチの暗黒面というテーマを継承した上で、アニメオリジナルでそれぞれにテーマを持つキャラクターを登場させ、そのテーマに沿ったそれぞれの成長を描いた上で、すべてを全体のストーリーとして成立させるという離れ業だった。
まぁ ハチの達観は手塚治虫の『ブッダ』みたいだなぁとは思ったが。

各話の脚本でも複数のストーリーラインを平行処理しながら全体のストーリーに融合させるという手法をよくやっていた。

大河内一楼氏の一人脚本ということで、かなり脚本主導の作品だったと思う。

「アニメ業界の最大の弱点は脚本」と言われながらも、原作をストーリーとして凌駕する作家がアニメ畑から現れてきたことの意味は大きいのではないか。

2005年1月25日(火)
ひぐらしのなく頃に 追記

ホイジンガやカイヨワの思想をもう少し単純化すると、「遊戯」とは既存の社会秩序からの逸脱、と見ることができる。
賭博が遊戯でありうるのは「金銭を通常の経済秩序とは別の秩序によって交換する」からだし、ゲームの起源としての神託裁判も「世俗の論理とは別の、神の論理によって」成立している。この神託裁判から神の権威が薄れて、当事者同士の合意によって「勝ったほうが正しい」という秩序の下に行われるのが決闘なのだろう。
ただ、無政府主義を標榜して国家を打倒したり、世捨て人になって山に隠棲したりしても「遊戯」とは言わないわけで、帰るべき日常としての社会秩序が「遊戯」には必要である。
ずっと部屋に篭ってネットゲームをしていても「遊戯」ではないわけだ。

ハー○イ○ニー観察日記参照のこと。

「世俗の秩序からの一時的な離脱」を遊戯を捉えると、遊戯が自由意志の欲求に基づいていることが解る。だが、砂漠の真ん中に裸で放り出されて「お前は自由だ」と言われても意味がないので、一定の秩序による制約を自らの意志で選び取る所に「自由意志」が成り立つ。(これはカントの道徳律の援用だが)
一流のアスリートが口にする「楽しみ」も、その制約を選び取る「遊戯性」として解釈できる。
以前話題になった「ゲーム脳の恐怖」におけるルーティンワーク化したコンピュータゲームにしても、「ゲーム」としてはどうかと思うが、「遊戯」の本質は外していない。(ところで、学校で糞ツマラナイ授業を聞いているときの子供の脳波を調べればゲームよりずっと悪影響があることが解ると思うぞ)

引用頂いたA.B.様の『ひぐらし』記事その後より
>と、ここまで考えると「それってゲームと呼べるの?」という最初の疑問に戻ってきて堂々巡りなわけだが、こういった疑問について考え情報を集めるのもまた娯楽の一形態だろう。そして、それこそが制作側の狙った効果であろうと思う。

この状況は典型的な「遊戯」ではあるが、正解が提示されて(私は知らないが)「真相当て」という勝利条件がなくなっている現在では「ゲーム」とは言い難い。それこそTRPGのようにその「世界」を好き勝手に楽しんでいるわけで、現実世界とは別の世界秩序の中に身を置くことで成立する「遊戯」である。

(作品の構成要素として、タテ軸としての「物語」とヨコ軸としての「世界」があるのだが、それはまた別の話)

2005年1月23日(日)
ひぐらしのなく頃に
体験版のみプレイ済。

ここでテーマとされているゲーム論について少しだけ。
一般に「ゲーム」を構成する要素としては、勝敗・偶然・模倣・思考・関与などが挙げられる。
このうち最もゲームの本質をなす要素は「勝敗」であり、ゲームとは「勝利条件としてのルールの体系」と定義づけられる。

これは最も原始的なゲームであるサイコロ賭博からジャンケン、将棋、サッカーなどに至るまで「あらかじめ決定されたルールの下で勝利を目指す」という点で共通している要素である。そのルールに合意した参加者がいて始めてゲームが成立するわけだ。

その意味で「どこまでやったら勝ち」という合意なしに始められる戦争はゲームではないし、その合意があればどんなに人が死んでもゲームであるといえる。
これは「殺人」と「決闘」の違いに近い。ルールのある「決闘」はゲームである。

ここで「模倣」をゲームの本質とすると、現実に人が死ぬ場合ゲームでは無くなる。

だが、ゲームを遊戯の下位属性と捉えた場合、ホイジンガによれば遊戯とは「物質的な利益や効用とは無関係に、限定された時間と空間の中で、一定のルールにしたがって秩序正しく行われるもの」となる。
ホイジンガの場合、遊戯は遊戯そのものを目的として行われるべきという「唯遊主義」の思想が強すぎるために「物質的な利益や効用とは無関係に」を強調しているのだが、これでは典型的な遊戯である賭博が除外されてしまう。

金を得る手段として賭博を行うわけではなく、相手を殺す手段として決闘を行うわけでもない。双方が合意したルールの下にそれが行われることが主眼であって、現実に金が賭けられたり命が失われることで遊戯性が減少するわけではない。

つまり「模倣」はルールを形成する要素として考えるべきだろう。

カイヨワの定義では「競争/運/模倣/めまい」と「それを貫く規則−衝動の軸」を遊戯の本質としている。ここでも「模倣」は「規則の快感」の一種である。
男の三大遊戯「飲む・打つ・買う」のうち「飲む・買う」が「衝動の快感」であるのに対し、「打つ」すなわちゲームは「規則の快感」に属している。
(まあ 賭博の要素「競争/運」のうち「運」は「衝動の快感だが」)

ただ、ゲームを「勝利条件としてのルールの体系」とした場合の問題は「勝利を目指さないゲーム」の存在である。
RPG、特にTRPGなどが典型で、戦闘やクリア条件は一応設定されているものの、その目的達成自体が楽しみの主眼ではなく「その世界で生活すること」が楽しみの主眼となっている。
TRPGを「非常に高度なゴッコ遊び」と言うように、あるいはRPGはゲームではなく「ゲームの要素を含んだ別の遊戯」とするべきかもしれない。
まさか子供のゴッコ遊びを「ゲーム」の範疇には入れないだろうし。
とりあえずこの項では「ゲームの本質は勝敗」としておく。

以上の定義に従うと、「ひぐらしのなく頃に」はゲームなのか?

先のサイトでは「推理小説と同じ意味でゲーム」としており、これには私も同意できる。
勝利条件は「真相の解明」である。
先に挙げたゲームの構成要素のうち「偶然」がないが、将棋やパズルのように偶然の要素がないゲームもあるので、これは本質的な問題ではないだろう。

だが、「ひぐらしのなく頃に」は「選択」、すなわちプレイヤーが行動することでゲーム世界の状況に「関与」するという要素もない。
推理小説だって、読者が犯人を当てたからといって結末が変わるわけではないので、それでもいいと言えばいいのだが。

しかし、「ひぐらしのなく頃に」においてはこの「関与」はもっと大きな視点で捉える必要があると思う。

ここで、製作者がネット上の掲示板、サイトなどでこの作品に関する議論をどんどんしてくれ、と呼びかけている点に注目したい。
つまりこの作品における「関与」とはゲーム内での選択を意味するのではなく、ネット、同人界、ヲタク社会すべてをフィールドとして「関与」することを含みこんだ概念なのである。

グーテンベルグ以来「著者>読者」のヒエラルキーが確立したように、ゲームがコンピュータの中に取り込まれてからは、それまで対等な参加者を前提としていたゲームに「製作者>プレイヤー」のヒエラルキーが生じた。

だがネットが普及した現在、万人が表現者としての権利を持ちつつあることでこのヒエラルキーが崩れつつある。
その好例が『もえたん2』や『電車男』のカオス的な作者なのだろうが、この作品はそのゲーム版ともいえる。

この方向を発展させ、多数のプレイヤーの意志によって作品世界を動かし、形成することができれば、現在のネットゲーム、かつての蓬莱学園などよりも遙かに巨大な世界ができあがるのではないだろうか。

2005年1月21日(金)
舞-HiME
アニメ版では漫画版に比べ楯の影が薄いため、視聴者の感情移入の対象としての主役が存在しない。
すべてのキャラクターがフラットな状態で多対多の人間関係を楽しむ作品になっている。
『あずまんが』に始まり『マリみて』『スクラン』『苺ましまろ』『みなみけ』へと続く萌え系作品の最先端路線だが、これらは主役を不在とすることで縦糸のストーリーを放棄し、日常性の中での関係を描くことで萌えを成立させていた。
この作品ではその方法論を応用しつつ非日常における燃えを描くことで縦糸のストーリーを成立させている。

メディア特性上、ストーリーを「キャラクターの成長」として描かざるを得ないテレビシリーズや週刊連載においては主役不在では話が終わらない。
その役を与えられているのが舞衣なのだろうが、彼女自身の中に「克服すべき課題」や「達成すべき目標」といった目的意識がないため、彼女が成長の主役となることは考えにくい。
むしろそれらのテーマを持っているのは命やなつきである。
おそらく、ファーストガンダムのアムロとシャアのように、傍観者としての舞衣とストーリーの中心としての命やなつきという関係になるのではないか。
バトルロイヤルという形式からすると、敗者となるキャラクターのストーリーを一話ずつ見せていく公算が高い。

フラットなキャラクター関係と縦線のストーリーの止揚として、それぞれのキャラクターが持つストーリーを輻輳させることで作品密度を高めるという技術が『ハンター×ハンター』や『プラネテス』等で一部用いられているが、この作品ではどうか。

キャラクターそれぞれが持つ「内面の物語」と封架やHiMEという「外面の物語」との融合ができるのか。

2005年1月17日(月)
ジャンプ7号
ギャグフェスタ
「殿」は単発ネタだが、「SAYMAY」は連載もアリか。レギュラーのツッコミ要員が必要だが。

銀魂
編集のコメントまでは読んでる。
AKって誰?赤松?

武装錬金
頑張った!和月がんばった!

ゲドー
逆鼎戦かっ!

2005年1月9日(日)
され竜Y WWF 感想
されど罪人は竜と踊るY 浅井ラボ スニーカー文庫

演算されし想い
心を「人間が持っているもの」と定義すれば、そりゃあ人間以外は持てないなぁ。

打ち捨てられた御手
宗教論議とかは面白かったが、ライトノベルとしてはどうなんだろう。
もっとガユスが死にそうになったりとかしないと、腐女子的には萌えないんじゃないだろうか。
ベヨトルの薄い胸板にはしっかり萌えたが。

ジヴがコロンボの「ウチのカミさん」状態になっているのは、裏で進んでいる物語の伏線でしょうか?


WWF No.29
松本氏の文章はパソコン上の横書で書かれたものなんだろうが、縦二段組のレイアウトでは少し違和感が残る。
横書で紡がれた思想は、やはり横書で読まれるべきものじゃないだろうか。

「萌え」論議そのものについては措くとして、「萌え」が常に「毒」と表裏一体のものとして表現されてきたことは、もっと注目されていいと思う。