話の続きの関係で掲示板のままコピーした部分もあります。
アイ
征韓論 kazuya - 2004/11/07(Sun) 01:15 No.263 |
ここ1時間以上にわたり、奈津と征韓論について討議していました。 いろいろな資料にまぎれて征韓論その悪者説が多くあらわされていますが、その元凶は西郷でなく木戸であるということはあまり知られておりません。 奈津たちも現代史が専門では無いので仕方ないことでありますが、西郷の誤算がある上に彼がその自身の意見を多く、文章に表さないのと、武力出兵の強硬論者の桐野利秋・別府晋介等を多く部下に抱えていたために誤解されていると思います。 そしてあの大西郷でさえ征韓論を唱えたという事実が残り軍部にその言質(ゲンチをゴンチとつい言ってしまい奈津に注意されてしもうたぞい)を利用されてしまう結果になってしまっのです。 武力出兵の最大の論者は木戸孝允です。 しかし彼はその最大の論争に巻き込まれること無く洋行の旅に出ていたため渦中の人とはなりませんでした。 西郷は自分が単身朝鮮に出かけ彼の政府と勝海舟と腹を打ち明け話し合ったように理解を求めに行くつもりでした。 しかしそのもくろみも木戸は逃げ岩倉と大久保が反対に回ったことでの不信感に、耐えられなくなった西郷が、逃げるように薩摩に隠棲することを決めたため、征韓論自体の武力闘争を主張したものたちの意見が大きく歴史の記憶に残ったものです。 西郷の誤算は洋行に出かけた人員の多くが、文明先進国の機械力に恐れをなし東洋大連合の機会をつぶしてしまったことです。 後の軍部による大東亜構想とは違う西郷の征韓論の多くは文底にしまわれてしまいました。 Ps 板垣退助も武力出兵賛成論者でした。 西郷は大久保に対抗勢力が次々につぶされても動かずついに西南戦争によりその多くの支持者と命運を共にしてしまいました。 |
Re: 征韓論 kazuya - 2004/11/07(Sun) 01:27 No.264 |
もうひとつ付け加えるならば、西郷は当時の軍部の指導者であった土佐の板垣退助の決起を抑えるためには自分が隠棲して、薩摩氏族の決起を抑えるという役目を自分に課したのでは、無いでしょうか。 西郷の遺志を受け継ぐべきものの中に伊藤博文がいたとしても不思議ではないのですが、何回も総理大臣を務めた彼が韓国統監に就任したことが、その重要性についての彼の認識であろうかと思います。 彼が韓国統監辞任後ハルピンで暗殺された事の謀略説が今でも残るのは、軍部を抑えるに(山県有朋とは対立していたらしい)彼以上の人間はいなかろうと思われるからです。 |
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風雲録−3 |