ノックの小さな音がした。
書類に目を落としたまま、この部屋の主であるジュリアスは
ドアの向こうにいるだろう相手へ入室の許可を出す。
時計は午後1時を指していた。
時間からいって、訪ねて来たのはだろうと予想はつく。
だが…ドアは開かない。
そして再び、ノックの音が聞こえた。
「…開いているぞ」
「いやー とどかない〜。じゅりあすさま あけて〜っ!!」
「…………」
ドアの向こうから、の声と共に
心なしかだんだん大きくなるノックの音が繰り返し聞こえてくる。
ジュリアスは自ら立ち上がり、執務室のドアを開けた。
開いたドアの向こうには、ドアの取っ手に向かって必死に手を伸ばしていたがいて。
必死なその姿に、ジュリアスは僅かに笑みをこぼした。
「あ、あいた〜。 おへやに はいれないかと おもったよぉ。
じゅりあすさまどうもありがとう」
ジュリアスが開けてやったドアから中へと入ったは、胸に本を抱えている。
ドアを閉めたジュリアスが振り返ると、は応接用のソファによじ登っていた。
「ね ごほん かりてきたの。じゅりあすさまにね よんで ほしいの」
「私に読めというのか?…まあよいが…だが、少し待て。まだ仕事があるのだ」
「そうなの?じゃあ まってるね」
持ってきた本の挿絵を眺める。
がおとなしくしていることを確認したジュリアスは、机上に広げられていた書類をまとめ始めた。
署名を終えた書類を、提出先ごとにまとめて束ねる。
次々に並べられていく書類のその一枚が不意にジュリアスの手を離れ、机から床へと落ちていった。
それはが座る応接セットのテーブルの下へ滑り込む。
「すまぬ、拾ってくれるか?」
「はーい」
眺めていた本をソファの傍らに置き、は床へ立った。
そのまま身をかがめてテーブルの下へ潜り込もうとしたとき
鈍い音がジュリアスの耳に届いた。
顔を上げたジュリアスが見たものは…床にうずくまったまま、額を押さえている。
潜り込もうとして、はテーブルに額をぶつけてしまったのだ。
予想外の出来事に、椅子を倒してしまいそうな勢いでジュリアスは立ち上がった。
「ッ!?」
「…いたぁい…」
額を押さえたまま顔を上げた。
見る間にの瞳に涙が浮かび上がり、ジュリアスは慌ててへ駆け寄った。
「大丈夫か?ぶつけたところを見せてみろ」
「…おでこ ぶつけたの…いやぁ…いたーいッ…」
「うむ…ここだな。少し赤くなっているか…」
「ふぇ…」
「あぁ…泣くな。大した怪我ではない」
「…ひっく…」
は涙をこらえようとしていたが、湧き上がる涙はついにの瞳から零れ落ちた。
それでも懸命に泣くまいと唇をかみ締めている。
幼い少女の小さな額が、ぶつけたショックで赤らんでいるのは痛々しいのだが、
必死に涙を堪えようとするその姿がなんともらしくて
ジュリアスは微かに声をあげて笑い、の頬に手を伸ばした。
片手でも顔が半分以上隠れてしまいそうなぐらいに小さくなっているの頬を撫で、
その親指で流れる涙を拭ってやる。
「そなたは我慢強いであろう?さあ、もう泣くでない。」
「…う〜…」
「ん…?」
ジュリアスの首に、小さなの両の腕が回された。
子どもの力はこんなにも強いのかと驚くほど、はしっかりとジュリアスに抱きつく。
ジュリアスの肩口に顔を埋めたは時折しゃくり上げていた。
子どもの姿をしているとはいえは女王候補
そんな相手に泣かれてしまっては、例え自分に非がないといえども困惑してしまうジュリアス。
一瞬、そんなことでは女王になれぬなどと口にしそうになったものの
まだ聞こえている嗚咽や、首に回された腕から感じる意外にも高いの体温は
が自分に何かを求めているような錯覚をジュリアスに起させた。
泣きながら縋ってくるを慰めたくても気の利いた台詞など浮かばずに
ジュリアスがしたことといえば、を抱きあげてソファへ向い
ジュリアスの膝の上で未だ声を殺して泣き続けているの背に手を回して
ためらいながらもゆっくりと、あやすようにその背中を撫でてやっただけ。
それからどうすればいいものかと悩むジュリアスであったが、やがての泣き声は止み
代わりにもぞもぞと身動きしたかと思えば
体の向きを変えたは、ジュリアスを椅子代わりにするかのように体を預けてきた。
「…どうした?」
「…もう なかないから ごほん よんで…」
そう言う声はまだ少し震えていたが、ジュリアスの膝の上に座るは
もうすっかり本を読んでもらう気でいるようだ。
傍らに置かれていた本をジュリアスが手にとれば、それは『宇宙の神秘』と題されたシリーズ物で
これは女王の力について解説された巻のようであった。
子供向けとはいえぐらいの歳にはまだ難しいと思いつつも
ジュリアスはページをめくって活字を読み上げた。
そしてそれを聞くは、度々ジュリアスに疑問を投げかけてきた。
ジュリアスはその質問に一つ一つ答えてやり
傍から見れば子どもに本を読み聞かせている微笑ましい光景でありながらも
実際は女王試験の一環のようでもあった。
「ねー じゅりあすさま。どうして じょおうさま なの?」
「ん?どういう意味だ?」
「なんで おうさま じゃないの?おとこのひと は だめなの?」
「うむ…女王たるサクリアが、なぜ女性にのみ芽生えるのかは、まだわかっていない。
女性のもつ母性が関係しているというのが現段階で一番有力な説だ」
「ぼせい ってなぁに?」
「子どもに対して持つ愛情のことだ。一般にそれは人が生まれながらに持つものだが、
男性よりも女性のほうが強いとされている。宇宙の全てを慈しむ慈愛の心は、その母性に近いのらしい」
「ふ〜ん。じゃあ じょおうさまは うちゅうの おかあさん なの?」
「…そうともいえるな」
「じょおうさまって すごいねぇ。 じょおうさま できるかな〜」
「出来るようになるために、そなたはいま女王試験を受けているのだろう?」
「そっか!じゃあ もっと がんばるね」
「ああ。だが、宇宙を守るということは例え女王といえどもそう簡単にできることではない。
それを助けるために我々がいるのだ。それを忘れるな」
「うん。しゅごせいさま とも なかよくするね」
「うむ、それでよい。では続けるぞ」
やがて本が半分ほど進んだとき、の頭が前後に揺れ始める。
ページを捲ろうとしたジュリアスの手が止まり、の様子をみようと視線を下げた。
「眠そうな顔をしているな。疲れたか?」
「…ね…もう おひるね の じかん なの…」
「そうか。では少し休むといい」
「…うん…」
半分閉じかかった目をしたをソファに横たえようとしたジュリアスであったが
動くことが出来なくなった。
なぜならが、目の前に垂れてきたジュリアスの髪の一房をしっかりと握ってしまったから。
「…じゅりあすさま の かみ…きらきら…きれーねぇ…」
「…なに…?」
「…の かみ まっくろ…。も こういう かみのけ が いいなぁ…」
それを最後に、は眠りについた。
が自然に髪を離すまでじっとしていなければならなかったジュリアス。
すぐ足元には先ほど落としてしまった書類が目に付き、まだ若干残っている執務も気にはかかったが
不思議とジュリアスは、無理にこの場を離れたいとは思わなかった。
眠ってしまったせいか先ほどより増えたの重みも気にはならない。
視線を下げれば、ジュリアスの胸に体を預けて眠るの寝顔がある。
充分な明るさを取り込めるように大きく作られた窓からは、眩しいほどの光が差し込んで
柔らかなの黒髪には、その光を受けて見事なエンジェルリングが出来ていた。
「…そなたの髪も、十分に美しいがな…」
そう呟いたジュリアスも、の寝息に誘われて目を閉じる。
数分のことではあったが、ジュリアスにしては珍しく眠りに落ちたようだ。
小さなを膝に乗せたまま、うたた寝をするジュリアス。
人に知れればちょっとした騒ぎになろうが、その姿を見たものは誰もいない。
20分程してが目を覚ましたとき、ジュリアスはいつものように執務をこなしていた。
「起きたな。ではオスカーを呼ぶとしよう」
「おすかさま?」
「ああ。私の次にそなたの世話をすることになっている」
「へー。あ、おすかさま の おへや、 ひとりで いけるよ」
「そうか。では好きにするといい」
「うん」
ソファを降りたは、オスカーの執務室へ行こうとドアへ向う。
だが…
「じゅりあすさまっ!どあ あけてー」
「……………」
来たときと同じように、ジュリアスが自らドアを開けてやる羽目になった。
廊下へ出たはジュリアスに向き直り、笑顔を見せる。
「じゅりあすさま、ごほん よんでくれて ありがとう」
「うむ。そなたは熱心に聞いていたな。あのような時間ならまた過ごしてもいいだろう。
…ん?、本を持っていないではないか。忘れるところであったぞ」
ジュリアスは部屋に戻って本を取って来ようとしたが、はそれを引き止めた。
「あのね、ごほん まだ おわってないから いいの。またあした よんでちょうだい?」
「それは…いや、わかった。そうしよう」
「うん。じゃあ もういくね。じゅりあすさま ばいばい」
廊下を駆けて行くを見送って部屋に戻ったジュリアスは、が残していった本を手にとった。
は明日もここを訪れると言ったが、
それはが明日もあのままの姿でいる可能性があるということだろうか。
本来ならばそれはよくないことである。
手にした本を見つめながらしばし考え込んでいたジュリアスではあるが
やがてその口元に笑みを浮かべ、本を自分の書架へ納めた。
その笑みの意味は、ジュリアス以外誰にもわからない。
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