「民の望みをかなえてやることが育成の全てではないと、何度も言っているだろう。
時には試練が人を成長させるもの。
人を導くということがどういうことなのか…今一度考えてみるのだな」
「…はい…ジュリアス様…」
ジュリアスの執務室を出たアンジェリークは、閉めた扉を背に深いため息をついた。
うつむいた顔を上げることなく、重い足取りで立ち去るアンジェリーク。
やっと育成が軌道に乗ったと喜んでいたのもつかの間
大陸が成長することで人口が増え、その望みは多岐にわたるようになってきた。
どれもこれも大陸には必要な望みのような気がして、日々育成には励んでいるものの。
尽きることのない民の望みに、アンジェリークの育成が追いつかない。
気ばかり急いて…それでも懸命に育成に励んでいたところへ、今日のジュリアスからの呼び出しである。
もう何度、同じことを言われたことか。
ジュリアスの厳しい物言いは自分のためを思ってくれているからだと、頭ではわかっているけれど…
滲んでくる涙を止めることが出来ないアンジェリークは、その足で聖殿を出た。
「…どうしたらいいんだろう…」
気晴らしにと立ち寄った庭園の東屋。
石造りのベンチに腰を下ろしたアンジェリークは、ため息と一緒にポツリと呟いた。
答えを求めて育成のテキストを開くも、細かい活字を読み込む気分ではない。
ジュリアスに呼び出されて注意を受けるたび、テキストは何度も読み返したが答えを見つけることは出来なかった。
視線は文字を追っていても、脳裏に浮かぶのはジュリアスの厳しい表情ばかり。
聖地に来てしばらく経つが、アンジェリークにもまだ馴染めない守護聖はいる。
未だまともに話すらできていないクラヴィスに、訪ねて行けば最後にはいつも怒鳴るゼフェル。
人当たりはいいが、真面目に取り合ってもらえていないような気がするオリヴィエもそのうちの一人。
けれど一番苦手なのは、やはりジュリアスで…。
首座の守護聖として、揺ぎ無い自信と誇りに裏付けられたジュリアスの態度は信頼に値する。
けれど今のアンジェリークにとって、ジュリアスの存在は威圧的でしかない。
女王候補としてのアンジェリークにジュリアスが望む基準は高すぎて。
その期待に応えられないアンジェリークは
もう、ジュリアスの前に立つことすら苦痛に感じられてしまうのだ。
パラパラと悪戯にページを捲っていたアンジェリークは、やがてテキストを閉じた。
「どなたかにご相談してみようかしら…ディア様とか…?」
「やあ、お嬢ちゃんじゃないか」
「…えっ…?」
不意に名前を呼ばれ、慌ててアンジェリークは顔を上げる。
向こうから歩いてくるのはオスカーと、そして隣にはがいた。
「どうしたんだ?こんなところで」
「…オスカー様こそ…」
「ああ、オレは王立研究院に行った帰りなんだ。と庭園の前でばったり会ってな。
オレに育成の依頼をしたいって言うから一緒に聖殿へ行くところだ。」
「そうなんですか…」
他愛のない世間話に笑顔は見せるアンジェリークだが、その表情はどこか曇っている。
それに気付いたからこそ声をかけたオスカーだったが、気付いていたのはも同じ。
育成が大変だと言って、必死な顔をしていることが多くなったアンジェリークだが
今朝、寮で顔をあわせたときは少なくともこんなに苦しそうではなかった。
「…なんだか元気がないわね。何かあった?」
「あの…さんはその…ジュリアス様のこと…どう思います?」
「「………」」
遠慮がちにアンジェリークがジュリアスの名を口にした時、オスカーとは顔を見合わせた。
アンジェリークが沈んでいる原因がなんなのか、わかってしまったから。
そんなアンジェリークを放っておくわけにもいかず、オスカーの提案で3人は庭園内のカフェへ向った。
自分がご馳走するというオスカーに甘え、それぞれ好みのドリンクを注文して
それがそろったところで話の続きが再開された。
「…ようするに、アンジェリークはジュリアス様が苦手だと…そういうわけね?」
「…はい…」
「まあ…あの方は自分に厳しい分、他人にもそれを望むところがあるかならな」
「ジュリアス様のおっしゃってることはわかります。でも私…なかなかうまくできなくて…」
事情を聞けば思ったとおりのこと。
普段はジュリアスを敬愛しているオスカーでさえ、アンジェリークの気持ちはわかるようで。
身に覚えもあるのか苦笑いを見せている。
オスカーのカプチーノ、のアイスティーはもう半分ほどになっているが、
テーブルについてから、ずっとうつむいているアンジェリークのグレープジュースは手付かずのまま、
溶けた氷のせいで、水とジュースの二層になりつつあった。
「ジュリアス様は、民の望みのままに力を送るだけじゃダメだっておっしゃいました。
でも力を送らなければ、民たちが苦労することになると思うんです。
試練が人を成長させるっていうジュリアス様の言葉もわかるんですけど…
でも私は…まだそこまで思い切れなくて…」
「なるほどな…。まあジュリアス様のことだ。こと育成に関しては、間違った助言をしたりはしないだろう。
オレの目から見ても、今のお嬢ちゃんは行き詰まっているようだし。
迷っているなら、ここはジュリアス様の言葉に従ってみるのもいいんじゃないか?」
「…やっぱり…そうですよね…」
誰が聞いても、ジュリアスの言葉は間違っていないだろう。
なにより育成に関して素人であるアンジェリークには、ジュリアスの言葉に異を唱えることすら思いつかない。
だからそこ、次にが言った言葉には、アンジェリークはもちろんオスカーも驚いた。
「…別にそこまで言いなりになる必要はないと思うけど…」
「え…?」
「確かに、ジュリアス様の言っていることは正しいわ。でもね、それを今すぐ実行に移す必要はないんじゃない?
ジュリアス様の言う試練を乗り切れるレベルまで、大陸の民が成長しているかどうか、
それを一番理解しているのは守護聖様じゃなくて、実際に大陸を育成している私たちでしょ?
私は自分が女王候補である以上、たとえジュリアス様が相手だろうと、そこだけは絶対に譲れない。」
強気という言葉では片付けられないの言葉に、アンジェリークは驚きで目を丸くした。
誰よりも大陸の民たちのことをよく知っているのは自分自身だと、言われてみれば確かにその通りなのだ。
誰にも負けない自身はある。
ではなぜのように、胸を張ってそう言いきれなかったのか。
絶対に譲れないと言い切ったの堂々とした姿に、
アンジェリークの目には、一瞬ジュリアスの姿が重なって見えた。
二人に共通するものは、使命に対する責任感の強さなのだろう。
ジュリアスやを特別に思えるのは、プライドを持って使命にあたっているから。
それに気付いたとき
アンジェリークは、今まで自分がジュリアスの雰囲気や肩書きに気後れしていただけなのだと悟った。
ジュリアスの前で萎縮してしまうのは、自分にまだ女王候補としての自覚が足りないからなのだと…。
だとすれば、やらなければならないことは一つしかない。
アンジェリークの瞳に力が戻った。
僅かに片方の眉を上げて興味深げに二人のやり取りを傍観しているオスカーの前で、
と、いつの間にか悲しげな表情を消していたアンジェリークは、
オスカーの存在など目に入らないとでもいう様子で、女王候補同士らしい会話を繰り広げ始めた。
「あなたが試練を与えることに迷うのは、まだ無理だと思うからではないの?」
「はい。正直、まだ自信はないんです。」
「だったら今は待つべきよ。試練というのは、決して民を苦しめることではないのだから」
「そうですよね!私、これから大陸の様子を見に行ってきます。
育成を次の段階に進められるまでに、あとどれだけ時間が必要かちゃんと予測を立てて、
それからジュリアス様にご相談に行こうと思います」
どこでアンジェリークの気持ちが晴れたのかはわからない。
けれどそれまで手をつけていなかったジュースをあっという間に空にして、アンジェリークは一足先にカフェを出て行った。
に礼を述べ、何度も振り返っては手を振りながら駆けて行ったアンジェリーク。
アンジェリークの立ち直りの早さに肩をすくめるだが、
見送るその目がとても嬉しそうだったのを、オスカーは見逃さなかった。
「泣きごと言うなと突っぱねるかと思ったが、お嬢さんは意外に面倒見がいいんだな」
「…別にあの子の面倒を見たつもりはありませんが」
「そうか?なかなか見事だったと思うぜ?」
「人の面倒まで見られるほど、私に余裕はないですよ」
先ほどの行いを見事だったと言われても、別に照れている様子はない。
今は自分のことで手一杯だというのは、の本心なのだろう。
それでもアンジェリークを突き放さなかったのはの優しさに他ならないのに、
がそのことに気付いている様子は全くなくて。
オスカーは、が女王候補に選ばれた理由を垣間見た気がした。
「なんにせよ、お嬢さんの言葉でアンジェリークがやる気を出したのは事実だ。
正直助かったぜ。オレが何を言っても、アンジェリークには守護聖からの言葉としか届かなかっただろうからな」
「根が正直すぎるんですよ、あの子は。だから誰かに何か言われるたびに、それを全て間に受けるんです。
おまけに不器用だから、それをうまく消化できない…」
「ほぉ…お嬢さんはそうじゃないのか?」
「あくまで選択肢の一つとして受け止めるようにしています。人の意見を鵜呑みにすれば、
失敗したときその人のせいにしたくなりますから。選んで決めるのは結局自分でしょう」
「そいつはいい心がけだ。オレと同じ考え方のようだな」
アンジェリークが去ってからも、オスカーとはしばらくカフェで時間を過ごした。
場所が場所だけに育成の話はなし。
ドリンクを追加で注文して、お互いのとりとめもないことを話す時間はまるでデートのようで。
カフェを出ることにしてからも、オスカーはこのまま執務に戻るのはおしいような気さえしていた。
「仕事に戻るにはおしい陽気だな。どうだ、いっそ今日はオレに付き合わないか?
さっき見てきたが、お嬢さんの大陸はそれほど急いで炎の力を送る必要もないんだろう?」
アンジェリークのことがあったせいで、偶然とはいえと育成を離れて話しをすることができた。
無口だと思っていたは、思いのほかはっきりものを言う。
甘い言葉を囁けるわけでもなければ、アンジェリークのように簡単にからかわれてくれるわけでもない。
女性とはこの二つのパターンで接することが多いオスカーだが、にそんな真似をしようとしたならば、
たちどころに拒絶されるか、いつの間にかうまくはぐらかされてしまっているのだ。
好戦的なオスカーにとって、難攻不落の相手に挑むのは面白い。
それがなくとも、大人同士として自分の価値観をぶつけ合うのも楽しいものだ。
もう少しの話を聞いていたくて、オスカーはにそう持ちかけた。
結果は…まあ予想通りではあったのだが。
「今日できることを明日へ延ばすのは嫌いです」
「…そう言うと思ったさ。仕方ない、今日のところは大人しく執務に戻るとしよう」
「賢明ですね」
「やれやれ。お嬢さんをデートに誘うのは骨が折れそうだ」
「ふふ」
意味ありげに微笑むを見たオスカーは、自分に分がない悔しさを感じると同時に
はこんな表情もできるのかと驚いた。
けれどその悔しさと驚きは、不思議と嬉しいような感情に変っていく。
滅多に見ることのなかったものを目にした優越感なのかもしれない。
こんなことで喜ぶ自分がとても滑稽で、女の微笑みは危険だと強く再認識したオスカー。
に心を悟られないようにと、努めて紳士的な態度でを執務室へエスコートしていった。
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