「失礼します。マルセル様、今…お時間はよろしいですか?」



「あ、 。うん、大丈夫だよ」

















育成依頼のためにマルセルのもとを訪れた



マルセルは執務の手を休め、わざわざ立ち上がってを迎えてくれた。

















「育成をお願いしたいのですが?」



「そうなんだ。たくさん…でいいの?」



「ええ。お願いできますか?」



「うん、わかったよ。ちゃんと力を送っておくね」



「はい。よろしくお願いします」



「うん。………」



「……………」

















とマルセルが二人きりになると、決まって二人の間に流れる沈黙。



するとは必ず小さなため息をつき、退室の挨拶をして執務室を出て行くのだ。



それを見送るマルセルは、の姿が見えなくなると、同じようにため息をつく。

















「…はぁ…ボクってダメだな…」

















身を投げ出すように椅子へ座ったマルセルは、そのまま机に突っ伏してしまった。



その様子を案じてか、マルセルが親友のように大事にしている青い小鳥が



どこからともなくやってきて机に降り立った。



それを横目で確認したマルセルは、優しい瞳の親友に語りかける。

















「ねぇ、チュピ…どうしたらいいと思う?と二人でいると…ボク、何を話したらいいかわからなくなるんだ…」



















今回の女王試験を、マルセルほど楽しみにしていた者はいないだろう。



女王陛下に仕える守護聖として、それなりの時間を過ごしてきたマルセルだが、



初めて聖地を訪れたときの緊張と不安はまだ鮮明に覚えている。



未来の女王という重い使命を背負った女王候補たちは、更なる重責を感じることだろう。



だからこそ、未熟だった自分を導いてくれたあの人がいたように…



マルセルも女王候補たちの支えになってやりたいと強く思っていたのだ。



そして始まった女王試験。



やってきた女王候補の一人は、マルセルの支えなどなくとも何でも一人でやってしまえるだった。



試験前日の食事会でも、そして始まった試験の日々の中でも、



は初めから、女王候補として完成された姿をマルセルに見せつけた。



守護聖として、これまで大勢の人々に助けられて成長してきたマルセルは、そんなに親近感を抱けないでいたのだ。

















は大人だもん。…ボクみたいな子どもなんか頼りにしてくれないよね…」

















ため息と共につぶやかれた言葉には、諦め色もうかがえる。



そしてに向けることの叶わないマルセルの関心は、



後にもう一人の女王候補への、過剰な入れ込みへと姿を変えていくのであった。





































マルセルの執務室を出たは、珍しく上の空で聖殿の廊下を歩いていた。



そんなに声をかける者がいる。



執務開始時刻はとうに過ぎているにもかかわらず、今ようやく聖殿へと現れたクラヴィスが、



すれ違いざまにを呼び止めたのだ。

















「お前…今日はこれからなにをするつもりだ?」



「ランディ様とルヴァ様を訪ねる予定ですが…なにか?」



「そうか。では…帰りがけにでも私の部屋へ寄ってくれ」



「なにかご用でしょうか?それならこれからすぐに伺ってもかまいませんが…」



「いや、後ででかまわぬ。ではな」



「はあ…」

















用件を伝えると立ち去ってしまったクラヴィス。



その用件に心当たりのないは、しばしその場に留まっていたが、やがて再び歩き出した。



けれどもその足取りが重いのは、先ほどのことが心に引っかかっているせいか…。

















あの年若い守護聖は、どうやら自分を敬遠しているようだ。



彼はそれを表に出さないようにしているつもりなのだろうが…隠し切れないのは幼さゆえか。

















そこまで考えて、は小さく首を振る。



相手を敬遠しているのはこちらも同じこと。



彼ばかりを責められない。



決して嫌いなわけではないけれど…感情がストレートに表れる、彼の瞳が苦手だ。



まっすぐ自分を見つめてくる瞳がふとした瞬間に曇ってしまったとき…言いようもない罪悪感が湧き上がる。



ああ…私はまたこの子を悲しませてしまったのだと…



そうなるともう、あの瞳に映っていることすら悪いことのように思えてきて…。



あとはただ、彼の前から立ち去ることしかできない。



おそらく彼は、自分と二人でいること自体苦痛に思っているだろうから。



































ランディの執務室の前で、は気持ちを切り替えるために軽い深呼吸をした。



これから訪ねる相手は、思いのほかこちらの心理状態に敏感だから。



暗い顔のままでは、ランディに心配をかけることになる。



気持ちが落ち着いたころを見計らって閉じていた目を開き、は扉をたたいた。



返事の変わりに響いてきたのは、悲鳴のようなランディの声と何かが倒れたような音。

















「ッ…ランディ様、です。入ります」



「…ッたた…や、やあ、…」



「ランディ様!?」

















たまらずに開けた扉の奥の光景に、は目を見開いた。



部屋の中央で…なぜかランディが腰をさすりながら床に倒れこんでいる。



照れくさそうに笑うランディの姿から、大事ではないと思いながらも、



はランディの傍へ歩み寄り、膝を付いて状態を確認する。

















「いったい…何があったのですか?」



「え…いやその…ちょっと逆立ちを…」



「…逆立ち?」

















執務の途中、今日は一日デスクにかじりつきだったランディは、軽く体をほぐそうとしていたらしい。



ストレッチついでに逆立ちを試みたまではよかったが、そこへノックの音が聞こえてきて…



体勢を戻そうとしたとき、床に広がっていた自分のマントに手を絡ませて、そのまま倒れてしまったという。

















「…まったく…驚かせないでください…」



「ご、ごめん…。でもオレ、書類整理ってどうも苦手でさ。今日はとっても天気がいいだろ?



外に行きたいと思ってたけど、仕事はぜんぜん進まないし。そのうち体がうずうずしてきちゃって」



「…そういう問題じゃありませんてば…」

















照れ笑いはしながらも、少しも悪びれたところを見せないランディに、は呆れたように首を振る。



その動きに合わせての長い前髪が揺れ、ランディの鼻腔を一瞬だけ甘い香りが擽った。



花の香りのようでいて、けれど人工的なその香りは香水なのか…。



ランディが確かめたくても、その香りはもう消えていた。

















「お気持ちはわかりますけど、外へ出たいと思うなら早く仕事を終わらせることです。



部屋の中で体を動かしてもたかが知れているでしょう。怪我の原因にもなりますからね。



ほら、鼻の頭。擦りむいてますよ」



「え…?あ、ほんとだ…」



「大きな怪我ではないですが、血がにじんでますね…とりあえずこれで」



「あ…」

















取り出したハンカチで、はランディの鼻を軽く押さえた。



そしてまた…あの甘い香り…

















「お忙しいようですが、育成をお願いできますか?



ランディ様のお力を少し、大陸へ送っていただきたいのですが」



「あ、ああ。わかったよ。少しでいいんだね?」



「ええ。お願いします」

















の手を借りて立ち上がったランディは、そのままぼんやりと彼女を見つめていたが…



部屋を出ようとするを見て思わず引き止める。

















「も、もう行っちゃうのかい?」



「ええ。こちらへくる途中、クラヴィス様に呼ばれてしまいまして。その前に今日の育成を済ませておきたいので」



「そう…それなら仕方ないね…」

















なぜかはわからないが、あからさまに肩を落とすランディ。



その姿をかわいらしく感じたは、少しだけ笑った。



するとそれを見たランディが顔を赤くする。

















「また今度、ゆっくりお邪魔します。今日はランディ様もお忙しいのでしょ?」



「あ、そうか…そうだった…」



「ふふ。それでは今日はこれで」



「うん。またな」

















自分に背を向けて歩き出したを見送っていたランディ。



扉を開けて一歩部屋を出たとき、不意にが振り返った。

















「な、なんだい?」



「頑張って下さいね。書類整理」



「ああ!ありがとう」

















最後にもう一度、は笑みを浮かべてランディを見た。



静かに閉められたドアをしばらく見つめていたランディは、



手に握ったままだったのハンカチでもう一度鼻の傷を押さえる。



もう血はにじんでいなかったが、やっぱりまたあの香りがした。



香りに詳しいわけではないランディだから、これが何の香りなのかはわからない。



けれどこの人工香料の香りは好きだと思う。

















「よーしッやるか!」

















ぐっと体を伸ばすと、さきほど床に打ち付けた腰がまだ少し痛んだが、



ランディは気にすることなく、書類の束が待つデスクへ嬉々として戻っていった。















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