「…月見酒っていうのよね。こういうの…」
庭園の中央。
絶えず優しい水の流れを見せる噴水の前に、はいた。
噴水の縁に腰を下ろし、月を仰いでいる。
気の向くままにグラスを煽り、そしてまた月を見上げる。
比較的風が強く、結い上げた髪がいくらかほつれてはいるものの
こんなに穏やかな気持ちになったのは久しぶりのことだ。
もうすぐ日付も変る時刻ではあるが、規律正しい飛空都市では
日が落ちてから出歩く者など滅多におらず、誰かに咎められる心配もまずない。
無論、女1人で出歩いても身の危険を心配しなくても済む。
こんなことならもっと早くにこうするのだったと
何度目か空になったグラスにワインを注ぎながら、は1人で笑っていた。
自分でも久しく耳にしなかった自身の笑い声は、微かながらも本心から出たもの。
楽しそうな自分の笑い声につられるというのもおかしな話ではあるが
酔いも手伝ってか、笑いはすぐには治まりそうもない。
そしては、その笑い声を聞いている者がいたなどとは夢にも思っていなかった。
「…何者だ…そこにいるのは…?」
「…あ…?」
森の湖へ抜ける小路から聞こえてきた、耳慣れない声。
声に誘われて視線を向ければ、クラヴィスがじっとこちらを見つめていた。
「…こんばんは、クラヴィス様。お散歩ですか?」
「お前は…黒髪の女王候補か…。」
こちらを向いてわずかに微笑んだの姿を確認すると、クラヴィスはゆっくりとに歩み寄った。
普段の執務用の衣装ほどではないものの、長身のクラヴィスを足元まで覆う衣服のせいだろうか。
その歩みは、予想されるクラヴィスの歩幅からは考えられないほどゆっくりで…
それでもは、クラヴィスが自分の正面に立つまでずっと、その姿を目で追っていた。
「かような時間にこのような場所で…一体なにをしている?」
「…お酒を…飲んでいます」
そう言っては、手にしていたグラスを顔の横まで持ち上げてクラヴィスに見せる。
「ふ…そうか。月明かりに誘われて出てきたかいがあったというものだな。おかげで、珍しいものを見ることができた」
「珍しい?…それは私のことでしょうか?」
「…さてな…」
クラヴィスも噴水の縁に腰を下ろそうとした。
は少し横にずれ、ワインの瓶を持ち上げてクラヴィスが座るためのスペースを空けた。
「…クラヴィス様もいかがですか?…ああでも…グラスがないわ…」
「…それでよい」
「では、どうぞ」
グラスに残っていた飲みかけのワインを一息に飲み干して、はクラヴィスにグラスを渡した。
クラヴィスがグラスを受取ると、新たにワインを注ぎ込む。
注がれたワインを、クラヴィスはグラスを目元まで持ち上げてひとしきり眺めた後…静かに口にした。
そしては、そのクラヴィスの姿をじっと見つめている。
「…ん?…寝酒にしては…少々きついな」
「お嫌いですか?」
「いや。…私にはちょうどよい。甘い酒は好まぬのでな」
「ふふ…」
他愛のないやり取りで、がまた声をあげて笑った。
クラヴィスの視線がへと向けられる。
「…なんです…?」
「いや…先ほどの笑い声も、やはりお前のものだったのだと思ってな」
「それは…ここには私しかいませんでしたから…?」
「お前は…笑わぬのだと思っていた」
その言葉に、は頭の中が一気に冷めるような感覚を覚えた。
『は笑わない』
それはクラヴィスの誤解であるのだけれど、自分はクラヴィスにそう思われているということで…。
つまりは他の守護聖たちもそう考えているかもしれないということ。
酔いのおかげで忘れかけていた、今日の定期審査の結果が頭を過ぎったが…。
軋むような痛みを訴える心を悟られたくはなくて、は努めて落ち着いた返事を返そうとする。
「まさか…。誰だって…嬉しいときや楽しいときには笑うものではないのですか?」
「…そうか?…では、お前はこれまで一度も、ここでそういった感情を持たなかったというわけだな」
「…そんなことは…」
クラヴィスの言葉を認めることは、ここでの生活への不満を口にするのも同じこと。
だが、はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。
仮にどう言い訳をしようとも、本心はクラヴィスの言う通り。
予備知識もないままに指名された女王候補という肩書きに戸惑ううちに、充分な準備もできないうちに始まった育成の日々。
それだけでも混乱するには充分だというのに、加えてアンジェリークの存在。
いくら努力しても彼女には勝てる気がしなくて、それでも勝たなければ自分に後はないのだと、自身を追い込んできた。
女王候補としての役目をまっとうしようと躍起になっていたには、
楽しいとか嬉しいとか…そういう感情を味わう余裕などなかったのだ。
言い淀むに、今度はクラヴィスが笑みをこぼした。
「ふ…無理もなかろう。守護聖などという…訳のわからぬ者たちの中に放り込まれたのだからな」
「そんなことは…。守護聖様は私たちにとって伝説のような存在なのです。
そんな方々とこうして関わり合えた事は、光栄だと思っています」
「ほう…。我らの扱いに、困っているようにも見えたがな?」
「え…」
驚きの表情で自分を見つめるを尻目に、クラヴィスはゆっくりとワインを口へ運ぶ。
「守護聖の中には、お前に嫌われていると考える者もいるようだぞ?」
「そ、そんなことは決して…」
「お前はわかりにくいのだ。ともに試験を受けているもう一人の女王候補が、わかりやすすぎるだけによけい…な。」
誰でも、自分に好意的な態度で接する人物には理解を示すもの。
気持ちを隠すことなく、喜怒哀楽の全てを素直に言葉や態度に表すアンジェリーク。
女王候補として常に自分を律し、そのままの態度で守護聖たちにも接してきた。
どちらが守護聖に理解されるのか…結果は明らかだ。
「…守護聖といえども所詮は人だ。自分に懐く者の方を可愛がるのは…当然であろうな」
「…そうですね…」
そんなことはも知っている。
今回の定期審査でも痛感したことだ。
だが…アンジェリークのように誰に対しても本音でぶつかっていくことなど自分にできるのだろうか。
以前なら…自分中心に世界が形成されていた幼い子どものころならば、あるいはできたかもしれない。
自分に正直でいれば人は心から分かり合えるのだと、そう信じていた時期もあったと思う。
アンジェリークは、まだそう信じてるのかもしれない。
けれどは…年を重ねてさまざまなことを経験していくうちに、本音と建前を使い分ける術を身につけてしまった。
常に相手の出方をみて、時には自分の心に嘘をついたほうが人間関係は円滑に進むことが多いと知ってしまった。
がいた世界は、そうして作られたうわべだけの人間関係がほとんどで。
も含めて皆がそれを良しとしていたのだ。
「私は…あの子のようにはなれません…」
膝の上で組んだ両手に視線を落としたまま、は苦しげにそう呟いた。
しかしクラヴィスは、事も無げに言い放つ。
「その必要はあるまい。お前があの娘のように振舞って…それに何の意味がある?」
「ですが…今の私には女王となる資格がないと…そう判断したのはあなた方ではないですか」
「お前が自らを偽ってまで女王候補に徹することは、何の意味も持たぬ」
「え…」
横目での姿を見た後、クラヴィスは庭園の一角にある女王の像へとその視線を移した。
それに誘われるように、もその像を見つめる。
「女王とは、なろうとしてなれるものではない。
女王になりうる可能性があるとすれば、それはお前自身の中に存在するもの。
女王になりたいと思うのならば、お前はお前のままで在ればよい。
お前が自分を偽り続ける限り…我らにはお前の可能性を見ることは出来ぬからな」
「…ぁ……」
目が覚めた心地がした。
女王候補とはの存在そのもので、そう在ろうとするものではないと…
今までずっとわからなかったことを、クラヴィスは教えてくれたのだ。
は守護聖に信用されていないと言ったオリヴィエの言葉も、今ならその本当の意味がわかるような気がした。
「…本音を見せないやつを、信用なんてできるわけない…か…」
「ん…?」
「私は信用に足る人物ではないと…オリヴィエ様に言われたことがあるんです。
その時はそうとう頭にきましたよ。試験には、こんなに真面目に取り組んでいるのに…って。
でも今ならわかります。信用されていないのは私の技量ではなくて…
女王候補にふさわしくあろうとして自分を取り繕っていた、私自身。
クラヴィス様がおっしゃったように、女王候補の素質は、本当の私の中にしかないんですね」
初めて見る、の晴れやかな表情。
それを珍しげに眺めるクラヴィスに、はまた笑みを見せた。
「女王になるには、よっぽど人間的に優れていなければいけないのかと思っていました」
「ほう…」
「私はアンジェリークのように素直ではありませんが、それを誤魔化す必要はないんですね。
私がどんな人間なのか…それを皆様に知っていただくことから始めてみようと思います」
「…そうか」
気のなさそうな返事を返すクラヴィス。だがその表情は優しい。
空になりかけていたグラスに残りのワインを注いだは、立ち上がってクラヴィスの正面に回った。
「クラヴィス様のおかげで、久しぶりに今夜はゆっくり眠れそうです。ありがとうございました」
「…礼にはおよばぬ。私も、お前のおかげで旨い酒にありつけたのだからな」
「ふふ。私はそろそろ寮へ戻ります。おやすみなさい、クラヴィス様」
「…ああ」
クラヴィスに一つ頭を下げて、は確かな足取りで庭園を出て行った。
その姿が見えなくなるまで見送っていたクラヴィスはワインを飲もうとして…ふと手を止めた。
「…グラスを忘れたな…?」
今すぐワインを飲み干して後を追えば、難なくには追いつけるだろう。
だがクラヴィスは慌てる様子もなく、ゆっくりとワインを味わう。
充分な時間をかけてワインを飲み終えたクラヴィスは、そのグラスを手に私邸へと戻っていった。
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