「元気出してアンジェ。キミの大陸だってだんだん発展してきてるもの」
「…でも…」
「マルセルの言うとおりだよ。まだまだこれからさ!そんなに暗い顔をしてちゃ、大陸の民たちに笑われるぞ?」
「…はい、ランディ様」
定期審査を明日に控えた金の曜日の夕方。
大陸へ降りたが浮遊都市へと戻ると、アンジェリークの姿が見えた。
歩道の隅に置かれたベンチに座り、すっかり暗い顔をしているアンジェリークを囲むようにして
マルセルとランディが立っている。
アンジェリークも先ほど大陸に降りていたはずだ。
まだまだにおよばない結果を目の当たりにしたのだろう。
自信をなくしているアンジェリークを励ます二人の声が、まで届いた。
寮へ戻るには彼らの前を通らなければならないのだが…
何故かそれ以上歩み出すことが出来なかったは、彼らに背を向けて来た道を戻っていた。
行くあてもなくやってきたのは森の湖。
女王試験が始まって以来、は初めてこの場所を訪れた。
「…………」
夕日を受けて輝く湖の美しい風景。
水辺に立ったはまっすぐに前を見つめていたものの…その目に素晴らしい風景は映っていない。
の脳裏に浮かぶのは、先ほどのアンジェリークの姿。
泣き出さないのが不思議なほどに、悲しそうな顔をしていた自分のライバル…。
公正な試験の結果である。
その結果が相手より勝っていただけのことなのに…この罪悪感はなんだろう。
初めてアンジェリークの姿を見たときに、女王にふさわしいのは自分より彼女だと感じた。
これはきっと、女王のサクリアを内に秘めた者にしかわからない感覚。
自分も女王になりたくて…いや、なるしかなくて。
そのための努力は惜しんでいないが、どんなにアンジェリークに差をつけても、
アンジェリークのほうが女王にふさわしいと思うこの感覚は、未だに消えない。
心のどこかでずっとそう思っているから…まるで自分がアンジェリークの邪魔をしているように思えるのだろうか。
「…可哀想に…」
知らずに呟いていた自分の言葉に、は苦笑いをするしかなかった。
自分でも、この言葉の意味が理解できない。
一体何が「可哀想」だというのか…。
悲しそうな顔をしていたアンジェリークを、哀れんでいるのだろうか。
いや、より女王にふさわしいのだろうアンジェリークに差をつけていることで
くだらない優越感に浸っているのかもしれない。
もしくは…自分がさっさと彼女の持つ女王の素質を認めて、試験を辞退なり放棄なりすれば
あんな顔をさせることもなかっただろうアンジェリークへの、自責の念…?
どれも違うような気がする。
しかしどれも本当なのかもしれない。
結局…自分は心のどこかでアンジェリークを見下しているのだろうか。
そんなことを考えている自分がひどく滑稽だ。
いつから自分は、こんなに卑屈な人間になってしまったのか。
「そんなつもりは…ないんだけどね…」
水辺に立っていたは静かにしゃがみ込んだ。
そっと水に手を差し入れると…その冷たさで少しは頭も冷えるような気がした。
焦っているのだ。
今はまだ…の方がリードしている。
しかし…大きく引き離していたはずのアンジェリークに、確実にその差を詰められていた。
少し前までは比べるまでもなかった差が、いつのまにか半分ほどに・・・ 。
だからくだらないことを考えてしまっただけ。
本気でアンジェリークを見下しているわけではない。
アンジェリークも努力している。
それが実を結び始めて…彼女の大陸は順調に発展を始めた。
努力しているのは負けないつもりだけれど…
発展に勢いがつき始めた彼女の大陸と、勢いを無くしつつある自分の大陸。
その違いがどこにあるのか…にはそれがまだわからない。
『それがきっと…私の育成の欠点…』
王立図書館でルヴァに声をかけられた日から、ずっと考えていたこと。
アンジェリークと自分の育成の違い…答えはきっとそこにある。
それさえわかれば…
時折ふく風でわずかに波立つ湖。
動く水の中で、微妙に形が変わって見える自分の指先を見つめる。
その耳には、誰かがこちらへ向かって歩いてくる足音は届いていなかった。
『おや〜?先客がいるねぇ。じゃないか』
私邸に戻る途中、散歩がてら森の湖に姿を現したのはオリヴィエであった。
思わぬ人物を見かけて一瞬足を止めたオリヴィエであったが、やがてゆっくりとに近づいていく。
なにやら考え込んでいるは…まだオリヴィエの接近に気づいていない…。
別に気配を消していたわけではないのに、真後ろまで近づいてもオリヴィエの存在に気づかない。
そんなの様子に、オリヴィエのイタズラ心が働いた。
急に声をかけて驚かせたら…はどんな反応を見せるのか。
ジュリアス張りに感情を表に出さないの、驚いた顔が見たくなったのだ。
「……わっ!!」
「ッ!!」
「げっ…」
湖へと流れ込む小さな滝の水音や風の音、小鳥の鳴き声…
それぐらいしか聞こえなかった静かな場所に突如、大きくはないが派手な水音が響いた。
別に背中を押したわけではないけれど…オリヴィエの声に驚いたは、
その拍子に膝をつき、危うく湖に落ちそうになってしまったのだ。
なんとか両手をついて体を支えたものの、すでに片方の手を水に入れていたせいだろう…。
が手をついたのは湖の底。
肘から下は水に浸かってしまったのである。
顎に届くだけの長さのある前髪もまた…水に浮かんで波紋に揺られていた…。
予想外の事態に固まるオリヴィエと、急な出来事に事態が把握できていない。
「ちょっ…大丈夫!?ごめん、まさかあんたがそんなに驚くなんて思ってなかったよ」
未だ水の中に手をついたままだったの体を助け起し、オリヴィエはの顔を覗き込んだ。
呆然としているは、ゆっくりとオリヴィエに視線を合わせた。
「・・・ オリヴィエ様・・・ 」
「大丈夫?怪我なんかしてない?」
「ええ・・・ なんとか・・・ 」
「よかった・・・ って、よくないよね。その服なんとかしなきゃ。私の館に行こう。そんなに遠くないから」
「あぁ…平気です」
そう言うとは、濡れてしまった上着を脱いだ。
アンジェリークと違ってすでに制服など着る立場にいないは、
毎日を仕事で愛用していた黒のパンツスーツで過ごしている。
今日は上着の下のシャツがノースリーブだったため、濡れたのは上着だけで済んだのだ。
脱いだ上着のポケットからハンカチを取り出して、濡れた手や腕を拭きながら、オリヴィエに向き直った。
「それにしても…一体なんだったのですか?」
「なにって…あんたが難しい顔してたからさ、ちょーっとびっくりさせちゃおうかなーって思ったわけなんだけどね」
「ええ…充分驚きました」
「だよねぇ…ほんとごめん。怒った?」
「いえ…」
「そう?よかった」
先に立ち上がったオリヴィエは、に手を貸して立ち上がらせた。
なんとなしに…二人で湖を眺める。
「で?」
「…え?」
「あんなに難しい顔して、あんたは何を考えてたわけ?」
「………」
予想外のハプニングのせいで、いつもの表情に戻っていたはずのが、
オリヴィエの言葉で再び表情を強張らせた。
その様子から、オリヴィエにはの考え事が育成がらみのことだと察しがつく。
「明日は定期審査の日だからね、いろいろ思うところはあるんだろうけど。
アンジェリークならともかく、勝ってるあんたがそんな顔してるっていうのもおかしなもんだね。
もっと嬉しそうにしてるかと思ってた」
「…嬉しいですよ?」
「そう?そんな風には見えないけど」
「そんなに手放しには喜べません。今は勝っていても…この先はどうなるかわからないのですから」
「まあね。アンジェリークの育成もようやく軌道に乗ってきたみたいだし」
「ええ…」
『あーあ…私の不安が的中しちゃったらしいねぇ…』
守護聖の間で問題になっているの行動指数の低さ。
このままではいずれ、の育成に支障をきたすだろうと思ってはいたが、
どうやらそれが現実のものになっているようだ。
傍目にはまだ、の大陸の発展速度が落ちたようには見えないが…当人はすでにそれを感じ取っているのだろう。
『さーて?どうするつもりなんだろうね、は』
の視線が足元に下りている。
育成速度が落ちてきている原因…よほど悩んでいるのだろう。
「私とアンジェリークの育成の違いは…何だと思われますか?」
不意に呟かれたの言葉。オリヴィエは思わずを見た。
ここまで一人で頑張っていたの口から、まさかこんな言葉が出るとは思わなかったのだ。
育成に関して、が第三者に意見を求めたのは初めてのこと。
発展の速度が落ちてきている原因を、育成方法の違いだと思っているあたりは相変わらずであるが、
それでもこれは…
『…なかなかよい傾向なんじゃない?』
「ね、?あんたさ…私の好きな食べ物って知ってる?」
「…え…?」
「オスカーの好きな飲み物は?ジュリアスんとこの馬の名前は?ゼフェルの趣味は?」
「…わかりません…」
「だよねぇ。…でも、アンジェリークはちゃんと知ってるよ」
「はぁ・・・? 」
オリヴィエが何を言いたいのか、は計りかねていた。
怪訝そうな顔をするに、オリヴィエは意味ありげな笑みを浮かべる。
「女王試験ていうのはね、育成の上手さだけを競うものじゃないってこと。
女王候補と守護聖の信頼関係を築くってのが案外重要なんだよ。
お互いに相手が信じられなきゃ、当然育成もうまくいかないしね」
「そんな…私も皆様のことは信用しています。」
「信用ねぇ…まあ信用でもいいけど。…あんたは私たちを信用してるって言う。
でもね、あんたはそうでも、私たちがみんなそう思っているとは限らないよ。
あんたが私たちの何を信用しているのかはわからないけどね。
私たちにだって、あんたを信用できる何かが必要なんじゃない?
なのにあんたは、それを私たちに充分には見せてくれてない」
「……なっ……」
「育成自体はね、あんたのほうがうまいやり方してるよ。女王教育受けてないなんて思えないぐらい。
でも、私の言葉の意味がわからないうちは…今以上に育成がうまくいくことはないだろうね。」
「………………」
「ゆっくり考えてごらんよ。まあ…育成にばっかり気を取られてる今のあんたじゃ、
そう簡単に答えは出ないだろうけどね?」
オリヴィエが立ち去った後、それ程時間を置かずにも寮へと戻った。
いつものように机に向かい、今日の育成データをパソコンに打ち込む。
使い慣れたパソコンのキーボードを打つ音は、軽快に響いている。
しかし画面に映し出されるその情報は、全く頭に入ってこなかった。
の思考を占めているのはオリヴィエの言葉。
自分が守護聖に信用されていないかもしれないという事実…。
女王候補としてのに守護聖が望むだろう結果は出しているつもりなのに、役目は果たしているのに。
それをもってしても信用してはもらえないなどということがあるのだろうか。
そんなことを考えながら迎えた土の曜日、定期審査の朝。
そこで出された結果は、さらにに追い討ちをかけた。
アンジェリークとと、女王にふさわしいと思うのはどちらなのかと問う補佐官に
守護聖たちが出した答え。
ジュリアス、ランディ、マルセル、リュミエール、ルヴァ
この5人はアンジェリークを推した。
クラヴィス、オスカー、ゼフェル、オリヴィエの4人は今回の投票を棄権。
が女王にふさわしいと考える守護聖は1人もいない。
昨日のオリヴィエの言葉から、アンジェリークを推す守護聖が多いだろうとは思ったけれど、
まさかここまでとは…。
確かに守護聖の個人的なことまでは知らなかったけれど、努力と能力は多少なりと評価してもらえていると思っていたのに。
裏切られたというには語弊があるかもしれないが…まさにそんな気分。
「現時点ではアンジェリークのほうが守護聖の心を捕らえているようですね。
も頑張ってください」
「…はい」
ディアからの励ましにうなずいて見せただったが、急に全ての熱が冷めるのを感じていた。
今までだって頑張っていたのに、全てを否定されたようで。
これ以上どうしろというのだと…その場にいた全員を問い詰めたい衝動を押さえるので精一杯。
初めから感じていた通り、結局アンジェリークには適わないのか。
定期審査が終わったと同時に、守護聖の何人かがアンジェリークに言葉をかけた。
初めてに勝ったアンジェリークへの賞賛を述べるために。
嬉しさを隠せないアンジェリークの笑顔を、悔しいのか悲しいのかわからないほど複雑な気持ちで横目に見ながら
はその場を立ち去った。
その足でがどこへ行ったのかは誰も知らないが、
その日が育成地に降りたのはアンジェリークよりも後のことで…
王立研究院から戻るようにと連絡を受けるまでの長い時間、は大陸へ留まっていた。
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