日の曜日
が目覚めたのは、隣りの部屋から聞こえてくる笑い声のせいだった。
ぼんやりと時計に目をやれば、もう9時過ぎ。
いささか寝過ごしたという気持ちはあれど、身体は鉛のように重い。
昨夜始めたデータ処理が思ったより長引いて、がベッドに入ったのは夜明け近く。
それでも4時間は眠っただろうか。
「…………オリヴィエ様…?」
どうやら向こうは窓を開けているようで、隣りに来客があることはすぐにわかった。
アンジェリークの部屋から、彼女のもの以外の声が時折聞こえて、
どうやらそれはオリヴィエのもののようだ。
隣りに来客があったのは何も今日が初めてではないにしろ、相手がオリヴィエなのは今までなかったこと。
珍しいとは思うけれど、それよりもこの睡魔を何とかしなければならない。
休日の食事を断わっているは、部屋に備え付けられている小さな簡易キッチンへ向い、
コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
それから熱いシャワーを求めて浴室へ。
今日の予定を思いながら、の一日も始まった。
「でも嬉しいです。オリヴィエ様が訪ねてきてくれるなんて!」
「アンタってばさっきからそればっかりだね?」
「だって、本当に嬉しいんですもの」
よく晴れた日の曜日。
特に予定はなくても、なぜか早起きができてしまうのが休日だ。
今日は何をして過ごそうか…そんなことを考えながらドレッサーに向っていたアンジェリークは、
部屋の扉をノックする音にも嬉々として扉を開けていた。
これはマルセルだろうか。
ランディかリュミエール…あるいはルヴァかもしれない。
時折自分を誘いに来てくれる守護聖たちの姿を思い浮かべながら扉を開けて、そこで見たのはオリヴィエの姿。
あまり親しいとは思っていなかったオリヴィエがなぜ…?
思いがけない人物の姿に一瞬驚いたアンジェリークであるが、
次の瞬間には満面の笑みを浮かべてオリヴィエを迎えていた。
「たまにはね。あんたと話してみるのもいいかなーって思ったんだ」
「はい!今日はゆっくりお話しましょうね」
仲良くなるチャンスとばかりに嬉しさを隠せないアンジェリークは、オリヴィエの言葉に頷いた。
その勢いのよさに肩をすくめてしまいそうになるのを抑えつつ、オリヴィエも笑顔を返す。
ただしその裏では、冷静にアンジェリークの様子を窺っているのだが…。
「そういえば昨日、王立研究院に行ったんだけどね。あんたの大陸すごいじゃない?
発展に勢いがついたってのは聞いてたけど…未だ衰えずって感じ」
「わぁ…大陸の様子を見てくださったんですか?そうなんです。
なんだかもう、どんどん育成が進んじゃうんですよ。
それに、大陸が元気だと私も嬉しくなるんです。これからも頑張るぞーって」
そう言ったアンジェリークは、心から嬉しそうに笑っていた。
彼女の様子を見ている限り、アンジェリーク本人は自分の育成に疑問を抱いている様子はない。
もしアンジェリーク本人が疑問を持っているとしたら、
オリヴィエがこうして訪ねて来る必要もなかったわけなのだが…。
「へ〜。…最近さ、アンタ私のところにはちっとも育成の依頼に来ないじゃない?
だからどうしてるかな〜と思ってたけど、順調そうで良かったよ」
「あ、そうですね…。でも今は、民たちが鋼と炎のサクリアをたくさん望んでいて、それで…」
「…ま、民の望みをかなえてやるのは育成の基本だからね」
「はい。でも今の状態が落ち着いたらまたお願いに伺いますから、その時はよろしくお願いします」
「OK。待ってるよ」
「はい!」
昨日ルヴァたちと話す前から、
実を言えばアンジェリークがオリヴィエのサクリアを求めてこないことが多少気にはなりはじめていた。
夢のサクリアは人間の希望、言うなれば人々が生きるための活力。
他のサクリアは少なからず望まれる時期や量に波があるけれど、
そこに暮らす人々の精神状態が正常ならば、夢のサクリアだけは常にある程度一定であるはずなのだ。
明るい未来を夢見ることは、誰もが無意識に望んでしまうことだから。
仮に人々が夢のサクリアを望まなくなるとすればそれは…
オリヴィエが結論にたどり着く前に、アンジェリークは育成から離れて身の回りに起こった話題を持ち出した。
オリヴィエの中に湧き上がった疑惑は限りなく確信に近いけれど、この場で確かめることはできない。
すぐにでも証拠を探しに行きたい気持ちを耐えて、オリヴィエはアンジェリークに向ける笑顔を保ち続けていた。
「クラヴィス様…どうかなさいましたか…?」
沈み行く夕日を眺めながら散策でもどうかと、リュミエールがクラヴィスを館から連れ出したのは
日も暮れかかり、休日も終わりに近づいた頃。
闇の館の裏庭を抜け、森の湖を通って小道に差し掛かったとき、
一歩先を歩いていたクラヴィスがふと立ち止まった。
声をかけるリュミエールに答えることはせず、クラヴィスは小道を作る木々の間にそっと身を潜める。
クラヴィスの意図はつかめぬまま、リュミエールがそれに倣おうとクラヴィスの側に歩み寄ると、
微かだが誰かの話し声が耳に届いた。
2人がいる小道の並木は、庭園裏の広場を囲むように意図して植えられているもの。
クラヴィスの影からそっと伺えば、その広場にはランディとマルセル、そしての姿が見えた。
ベンチに座るを囲むように立つランディとマルセル。
ここからでは何を話しているかまでは聞き取れないものの、3人の表情はとても明るい。
話は弾んでいるようだ…
「あれ〜?クラヴィスにリュミちゃんじゃない。なにしてんのさ?そんなとこで」
「…あぁ…オリヴィエ…。今お帰りですか?」
向こうで話しこむ3人に視線を送ったまま何も言わないクラヴィスに戸惑っていたリュミエール。
すると、2人のあとからやってきたオリヴィエに声をかけられた。
何をしているのかと聞かれて返答に戸惑うリュミエールだが、
それでもクラヴィスは何も言わない。
ただ、その視線が一点を見つめていることに気付かないオリヴィエではなく、
クラヴィスの視線の先を辿ることで、オリヴィエも並木の向こうにいる3人に気がついた。
「なによクラヴィス…あんた覗きの趣味があったわけ?」
「オ、オリヴィエ…」
クラヴィスがなにを見ているのかは、すぐわかった。
しかし、楽しそうに談笑している彼らを、なぜ隠れて見つめる必要があるのだろう。
失礼極まりないオリヴィエの発言に冷や汗を流すのはリュミエール。
当のクラヴィスはオリヴィエを一瞥すると、また並木の向こうへ視線を投げた。
「ん!でも、が笑ってて良かったよ。昨日は育成のことでちょっと悩んでるふうだったけど…
こうして見る限りじゃ大丈夫そうだね。しっかし…あの3人に共通する話題ってなに?」
「…それはわかりかねますが…でも楽しそうなのですから良いではないですか」
「ま〜ね。マルセルとも本当に仲良くなったみたいだし?」
「………見た目ほど単純ではないようだがな…」
「「え?」」
オリヴィエにもリュミエールにも、
決して大きくはないはずのクラヴィスの声が、嫌に響いて聞こえた。
身を潜めていた木陰から抜け出たクラヴィスは、また何事もなかったかのように歩き始めようとする。
「ちょ、ちょっとクラヴィス!」
「…なんだ」
衣装の袖を掴んでまでクラヴィスを呼び止めたのは、彼の言葉にオリヴィエの勘が働いたためだ。
「クラヴィスあんた…何か知ってるね?」
「…え…オリヴィエ…それは一体…?」
「…………」
滅多に見せない厳しい表情をするオリヴィエと、感情を一切読ませないクラヴィスと。
意味がわからないと言うリュミエールに多少の苛立ちを露にしつつ、
オリヴィエは育成に関わることなのだと至極簡単に説明した。
それからクラヴィスに向き直り。
オリヴィエは不自然とも思えるほど落ち着いた声色で言葉を続けた。
「…アンジェリークに会ってきた。問題はあの子の方にあると思ったからね」
「ほう…」
「でも違ったよ。あの異常な発展のスピードは、あの子が意図してやってるわけじゃなかった。
本人は自分の育成の成果だと思ってるみたいだったけど…あれはそんなもんじゃない。
あの子は…勝手に発展してる大陸に振り回されてるだけだね」
「ッ…そんな…」
大陸が勝手に発展するなど、そんな馬鹿な話があるものかと口を挟みかけたリュミエールだが、
まだ何か言いた気なオリヴィエの様子と、クラヴィスもその先を待っているようだったために口を噤む。
そのほうが、今リュミエールの中にある疑問の答えを得られそうな気がしたのだ。
「女王試験の流れがおかしくなってるの…あんたは気付いてたんでしょ?
しかもその原因も。だからあの3人を見てた…。違う?」
「さあな…」
「…あんたが面倒ごとに関わりたくない性格なのは十分知ってるよ。でも…教えてくれないかな?
このままにしてたら、近いうちに取り返しがつかなくなる気がするんだよね…」
「クラヴィス様…」
おおよそだが、事の次第が飲み込めたリュミエールは、クラヴィスに不安げな視線を送った。
アンジェリークにもにも、女王試験には惜しみない協力をしてきたリュミエールだ。
自分の知らないところでなにがおきている。
しかもそれが良からぬことだと知った今、リュミエールの気持ちはオリヴィエと同じ側にあるのだ。
縋るように自分を見るリュミエールと、真剣に取り合おうとしないクラヴィスへの苛立ちより、
ここまで事態が悪化するまで異変に気づかなかった自身への自責の念を隠しきれないオリヴィエの姿に、
クラヴィスはようやく重い口を開いた。
「哀れなものだと…そう思って見ていた」
「そう…。で、哀れなのはあの3人のうちの誰だい?」
「相手の気まぐれのせいで、2度も育成のペースを崩されている女王候補に決まっている」
「…2度…」
「1度目は何とか解決させたようだが、2度目はどうするか…。見ものだな」
口元にわずかな笑みを浮かべてそう言ったクラヴィスは、今度こそ歩き始めた。
オリヴィエはもうそれを止めず、ここまでクラヴィスと共に来たリュミエールもその場に佇んだままだった。
「…そういうことか…」
「え…?」
クラヴィスが立ち去って程なく、オリヴィエは深いため息と共にそう漏らす。
アンジェリークの部屋を出てからずっと心に痞えていた疑惑がようやく解けたのだ。
ならばもっと晴れやかな表情をすればいいものを…リュミエールの目に映るオリヴィエはどこか悲しげだった。
「オリヴィエ…一体いまなにが起こっているのですか?あなた方のお話で、
女王試験に何か良くない問題が起きているのはわかりました。ですが…」
「あぁ、うん…」
リュミエールの問いかけにオリヴィエは口を開きかけた。
が…
「…ふう…なんか話す気になれないや。あとでクラヴィスにでも聞いてちょうだい」
「…オリヴィエ…」
「ごめんね」
「いえ…」
笑顔は浮かべている。
けれどそれは、いつものオリヴィエの笑顔ではなかった。
やるせなさを隠せないでいるオリヴィエに、リュミエールもそれ以上問いただすことはできない。
リュミエールが見守る中、オリヴィエは2度目のため息をついていた。
育成者であるアンジェリークの手を離れて発展を続けている大陸。
つまり女王候補のものとは別の力があの大陸の育成に関与しているのだろうと予想はついていた。
そしてそれが本当ならば、その者はサクリアを操ることの出来る守護聖の誰かだということも。
けれど、まさかそれはマルセルなのだろうか…。
女王の許可なくサクリアを用いてはならないことは、守護聖となる者ならば誰でも教えられている。
まだまだ非力ながらも守護聖としての使命感に燃え、
職務への忠誠心はジュリアスも認めているほどのマルセルがその禁を破るとは思えない。
しかし今のこの事態…大陸の発展速度をこれほどまでに速めることが出来るのは
マルセルが司る緑のサクリア以外考えられないのもまた事実。
証拠はまだ何もない。
あるとすればクラヴィスの残した言葉だけだ。
本当にマルセルなのか…それとも別の誰かなのか…
確信を持つにはまだ情報が足りない。
ため息をついたまま俯き、考え込むオリヴィエと、この場を動けずにいたリュミエール。
そんな2人の間を、木立をざわめかすほどの風が通り抜けていった。
「風が…出てきましたね。そろそろ戻りませんか?」
「そだね…」
風に煽られた髪に手を当て、2人は同時に歩き出す。
この並木が終る分かれ道で、互いの館へ続く道へと立つオリヴィエとリュミエール。
ずっと黙り込んでいたオリヴィエを按じて、リュミエールは今一度オリヴィエを見つめた。
「…大丈夫ですか?」
「ん?私は平気だよ」
「ならば良いのですが…」
「ありがとうね、心配してくれて」
ようやくオリヴィエに笑顔が戻ったことで、胸をなでおろすリュミエール。
安心した彼もまた、微かに笑みを浮かべていた。
女王試験に今何が起きているのか…リュミエールも本当は知りたいはずなのだ。
それでもオリヴィエの心情を察して口に出さない優しさが、今のオリヴィエには何よりもありがたい。
「今はね、まだ言えないんだ。私も真実を掴んでいるわけじゃないからさ」
「オリヴィエ…?あの…無理には…」
「いいのいいの。でも、2・3日中にははっきりさせるから。話すのはそれからでも構わないな?
まぁ…今回はちょっとモメそうだから、平和主義のあんたは聞きたくなくなっちゃうかもしれないけどさ」
「いいえ。女王試験に関わることなら、どんなことでも受け入れるつもりでいます」
「…そっか。私も、なるべく穏便に済ませられるように動くつもりだから。もう少し待っててね」
「ええ。わかりました」
「ん。それじゃ、またね〜」
くるりとリュミエールに背を向けて、オリヴィエはひらひらと手を振りながら館への道を歩き出した。
傍観者でいることの多いオリヴィエ自身が事態解決に動くというからには、事態はそれだけ大事なのだろう。
リュミエールの胸に一瞬独特の痛みが走った。
誰かが悲しむのだろうか…?それとも傷つくのだろうか…?
心の痛みの程度は、それを受けた本人以外誰にもわからないもの。
目に見えない傷を癒してやることは容易ではない。
充分な慰めや癒しを受けられればよいけれど、
ともすれば傷ついたままの心で生きていかなければならなくなるのだ。
誰にも…特に親しい人たちには、そんな思いをしてほしくない。
「どうか…誰も傷つきませんように…」
去っていくオリヴィエの背中を見つめたまま、リュミエールは静かに呟いた。
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