ジュリアスの執務室の前で、は見た目にもはっきりとうな垂れていた。
ここまでやっては来たものの…まだジュリアスに報告するべき言葉が見つからない。
何度もノックを試みては、扉に伸ばしかけた手を引いてしまう。
もう十分以上もそんなことを繰り返しているのだ。
先ほどから廊下を通りかかる、守護聖の側仕えを勤めている者たちは、
皆一様に不思議そうな視線をに送った。
もう一人の女王候補ならば、こんな姿を何度も見ている彼ら。
けれどそれがとなれば話は別のようで。
彼らの中には一体何があったのかと、に声をかけるものもいた。
こうしていても仕方がない。
意を決して顔を上げたは、ジュリアスの執務室の扉を叩いた。
入室はすぐに許される。
敵陣に乗り込んだ心境で、はジュリアスと向き合っていた。
「遅かったな。少し前から扉の外にはいたようだが…一体何をしていた?」
「…すみません…」
「まあよい。では、早速報告を聞かせてもらおう」
それまで手にしていた書類をデスクに置き、ジュリアスはへと視線を向けた。
そういう質なのだろう。
誰かと話をするとき、ジュリアスは相手の目をじっと見つめる。
それはもそうなのだけれど…ジュリアスの場合、彼の瞳は妙に迫力があるのだ。
ジュリアスの蒼く鋭い瞳で正面から射抜かれて、は無意識に背筋を伸ばしていた。
ジュリアスの前で萎縮してしまっていたアンジェリークの気持ちが、今さらながら身にしみる。
こちらに確固たる自信と根拠がなければ、ジュリアスはすぐにそれを見破ってしまうから。
この瞳の前では、嘘や偽りは通用しない。
口先だけの言葉では、到底この相手は納得しないだろう。
「…どうした。まさか報告できることが一つもないのではあるまいな」
「…それは…」
珍しく歯切れの悪いに、ジュリアスが僅かながら苛立っている。
鋭さを増すジュリアスの視線。
いけないとはわかっているが、は合わせていた視線を外してしまった。
育成が止まっている原因…おそらくは真実であろう可能性を掴んではいる。
けれど、それをここで口にすることは果たして正しいのだろうか。
マルセルとの信頼関係を築けなかった非を、自身が咎められるのは覚悟のうえ。
言い訳をするつもりはない。
しかし…マルセルはどうなる…?彼にも何かしらの咎があるのではないのか?
守護聖であるマルセルが、女王候補の育成依頼に対して相応の力を送っていない。
いくらとの関係が希薄であるとはいえ、これは守護聖としてあってはならないことに間違いない。
マルセルの…守護聖としての資質に関わる問題に発展しはしないだろうか…。
「。何を黙っている!」
「…ッ…」
ジュリアスが苛立ちを露にした。
執務に対して妥協をしないジュリアスは、相手にもそれを望む。
は今、それが怖いのだ。
もしの仮説が正しかったとして、マルセル本人はおそらくそのことを自覚していないだろう。
マルセルを見ていれば、彼がどちらの女王候補を高く評価しているかすぐにわかる。
けれどそれは、純粋にアンジェリークのほうを応援しているだけ。
決して、意図的にの大陸を発展させまいとしているのではないと思う。
だって彼は、誰よりも生命を尊ぶのだから。
今のままの大陸が発展せずに、このまま荒廃の道を辿ることをマルセルが望むとは考えられない。
もしもマルセルが、無意識であるとはいえ、自分のしていることを知ったなら
彼は一体どれだけのショックを受けるのか。
そしてそれが露見したとき、目の前にいる首座の守護聖は、
追い討ちをかけるように容赦なくマルセルを咎めてしまわないか。
そんなことになったら…あの少年は立ち直れるのだろうか。
先の定期審査でを凌いだアンジェリークのことを心から喜んでいたマルセルの笑顔が脳裏に浮かび、
は唇をかみ締めた。
厳しい表情でを見据えながら、それでもジュリアスはの様子を冷静に観察していた。
がここまで歯切れの悪い態度をとるのは珍しい。
もしも本当に報告するべき報告なり結果なりを持っていないのならば、
はとっくにそう言っているだろう。
は、そんなことで自分を取り繕うような人間ではないのだ。
外した視線を足元に落とすの表情は、長い前髪に隠れて伺うことは出来ない。
けれども身体の前で組んだ両手が強く握り締められていることや、
時折聞こえる詰めたような息遣いからは、が何かを隠そうとしている様子は伺える。
それはおそらく、この件に関わる重要なことであり…
にも関わらず、ジュリアスに知られては都合が悪いということか。
これまでの女王試験で、決して長いとはいえない期間ではあるのだが、
がどんな人物なのかはだいたい把握したつもりだ。
彼女は自分に非があることを認められない人間ではない。
大陸の発展が止まっている原因が自身にあるのならば素直にそれを認め、
その改善が自分の手に余るようであれば、ジュリアスの指示を仰ぐことができるはずだ。
もう一人の女王候補との違い、はジュリアスの、指導という名の説教を恐れてはいないから。
けれどは今、確かにジュリアスを恐れている。一体それはなぜなのか。
自身はジュリアスを恐れない。
とすれば…ジュリアスの存在を恐れる、以外の誰かを庇っているのか…?
「…ジュリアス様」
「なんだ」
「この件は…どうかもうしばらく、私に預けてはいただけませんか?」
「なに…?」
ずっと俯いていたが顔を上げた。
まっすぐにジュリアスの目を見つめ返し、淀みのない口調で言った。
彼女は何かを決心した。
ここしばらく見られなかった、の硬い表情がそれを物語っている。
本当のことを言うべきかどうか、は随分悩んだ。
出た結果は…否。
女王候補としては、本来ならば大陸を発展させることを優先し、
その妨げとなっている原因を明かすことが正しいのかもしれない。
だがここでマルセルとのことを報告してしまったら、彼とは二度と打ち解けられない気がするのだ。
そんなことになれば、それこそ自分は女王候補として失格だ。
アンジェリークを応援するあまり、にまで気が回っていない事実は
すぐにでもマルセルに伝えなければならない。
けれどそれはジュリアスの口からではなく、自分で直接伝えてみたいのだ。
それが、もしかしたらマルセルとの関係を修復する手がかりになるかもしれないから。
「策はあるのだろうな」
「効果があるかどうかはわかりませんが」
「そんな不確かなことでは、そなたに一任するわけにはいかぬ。
任せてほしいと思うならば、それなりの理由を聞かせてもらおう」
「…それは…」
「そなたの行動は、大陸の運命を左右する。失敗したでは済まぬのだぞ」
「わかっています!けれど…ここで理由を話したら…私はきっと…この先自分を女王候補だとは思えなくなる…」
言葉の最後は、ともすれば消え入ってしまいそうだった。
それと同時に、まっすぐにジュリアスに向けられていたの硬い表情が歪んだ。
苦しげに顰められた眉や、途方にくれたような視線。
一瞬、ジュリアスはに泣かれるのではないかと思った。
「…どうあっても、理由は話せぬというのだな?」
「…はい…詳しいことはまだ…。けれど、原因は私にあるんです。
ですから自分で何とかしなければならないことだと…そう思っています」
「そうか…」
一つ息をついて、ジュリアスは立ち上がった。
そのままデスクの横を通っての側まで歩み寄り、
ジュリアスの出方を伺っていると視線を合わせた。
「わかった。そなたがそこまで言うのなら、思うようにやってみるといい」
「…わがままを言って…申し訳ありません」
「まったくだな。しかし…いくら私が問い詰めようとも、そなたは口を割らぬであろう?」
「…おそらくは…」
「ならば仕方あるまい。ただし、あまり時間に余裕がないことだけは、頭に入れておくのだぞ」
「はい。ありがとうございました」
意思を聞き入れてくれたジュリアスに対して、は深く頭を下げた。
彼の立場を考えれば、本当はすぐにでも原因を聞き出して解決したいはずなのだ。
それでもジュリアスは、女王候補であるの意思を尊重してくれた。
厳しいだけではなく寛容な心をもつジュリアスに、は尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「…では、今日はこれで失礼します」
「うむ…。…」
「はい?なんでしょう」
「…いや、よいのだ。またな」
「はい」
最後にもう一度頭を下げて出て行ったを見送り、一人になったジュリアスはため息をついた。
そしてデスクへと戻り、読みかけだった書類を手に取る。
王立研究院からのものであるその書類には、二人の女王候補が導く大陸の様々なデータがまとめられているのだ。
の大陸の発展が止まってしまってから、もうずいぶん時が経つ。
の能力からして、ここまで長引くとは正直思っていなかった。
そして今日のの様子…。
あまりにも思いつめた表情を見せられてあれ以上追求できなかったが、間違いなくは原因を掴んでいる。
掴んでいながら、はこの先の方向性をはっきりとは口にしなかった。
つまり、大陸の発展が止まった原因を取り除くことが、にとって簡単ではないのだろう。
「…困ったものだな」
もしも困っているのならば、そうと打ち明けてほしい。
首座の守護聖である自分に言いにくいのならば、ほかの誰かにでもかまわないのだ。
あんな顔をしてまで一人で解決しようとしているの気持ちは、ジュリアスにも痛いほどわかる。
そんな彼女だからこそ、迂闊に手助けが出来ないのだ。
そんなことをすれば、彼女のプライドを傷つけてしまいそうで…。
「いや…そんなことを考えている場合ではないな」
軽く頭を振って、ジュリアスは目の前にある問題に気持ちを向けた。
報告書のデータはもちろん、の普段の様子を見る限りでも、
あの大陸が発展しない理由は見つからない。
の大陸には、次の段階に進むために必要なサクリアの総量はすでに蓄積されているのだ。
ではなぜ、変化の兆しが見えない?
星にも寿命はあり、それが尽きようとしている惑星ならば、稀にサクリアに対する反応を示さなくなることもある。
けれどあの大陸は特別だ。寿命が尽きるどころか生まれたての状態。
そこへがバランスよく各サクリアを送り続けているのだから、発展しないはずがないのだ。
これは…の手におえる問題ではないかもしれない。
調べてみる必要がありそうだ。
「…オスカーを呼べ。私は王立研究院へ行っている」
側仕えの者にそう告げて、ジュリアスは執務室を後にした。
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