雑談目次

随筆集 六  弟

著者 高田敞

 

  まえがき

 まあいろいろ大変なことがありました。放射能もたくさん降り積もっています。何事もなければいいのですが。困ったものです。

 

 

    呼ばれちゃった

著者 高田敞

 

 高野山は思っていた以上に山の中だった。

 末の弟が連れて行ってやると言うので乗せていってもらった。つづら折れの道は、登ってものぼっても果てしなく続いていた。

「歩きできたら大変だろうな」

「半日かかる」とハンドルさばきに忙しい弟が言う。

 いつもジョギングをしているという弟はそうかもしれないが、私には1日かかるだろうなと思う。後で聞いたら標高は千メートル近いと言っていたから、やはり一日がかりになるだろう。それでも歩く人は結構いるのだろう。所々に、遍路の人の絵が書いてある標識があって、横断注意と書いてある。通りすぎるとき見ると、お決まりの落ち葉だらけの細い遍路道が林の奥へと消えている。四国を歩き通したおじいさんや、おじさんや、おばあさんや、おばさんが船で和歌山に渡り、そのまま歩き続けてくるのだろう。 

 

 高野山は人だらけだった。山の上なのに、たくさんの寺や家が軒を連ね、人と車でごった返していた。それまでがまるっきりの山の中で、ほとんど人家が無いところを走って来たのでちょっとした驚きだ。

「いちおうかっこつけなくちゃ」と言って、お参りする奥の院の門の脇で、帷子を着て輪袈裟を着けた。

 参道は杉の林の中に長く続いていた。両脇はたくさんのお墓だ。その杉が太い。四国にも巨大な楠がいたるところにあったが、奥の院の杉の木も大きいのがいたるところにある。その参道も人であふれている。そのわりに静かなのは、下がっている、静かにお話ください、という看板のせいなのだろうか、それとも、杉林に声が吸い込まれるためだろうか。

 観光バスの団体客なのだろう、案内の人が、大きな声で抑揚をつけていろいろなお墓について説明している。何組もそういうグループがある。大きな声はそれくらいで、静かなものだ。

 外国の人が感じる日本で不思議なことというのをこの前何かで聞いた。電車の中で話す人がいない、というのがその人の不思議だった。どこの国の人か分からないが、その人の国では、電車でもバスでもみんな大きな声で話すらしい。

 違う日の新聞の投書欄に女の人が書いていた。電車の中で大きな声で話すおばさんたちがいた。つまらない事を大きな声で話して迷惑だった、と書いていた。お国柄の違いなのだろう。日本では迷惑を嫌う。人様に迷惑をかけてはいけないよ、とこどもを育てる人が多い。うちは違ったが。

 そんなこんなでみんな我慢しているのか、それとも話すこともないのか、話している声が聞こえない。あってもひっそりと小さな声だ。といっても私も弟とあんまり話さない。話すことがないのだ。男兄弟とはそんなものかもしれない。

 車を降りたころから、急に右足の太ももが痛くなった。歩いているうちにしだいに痛みが強くなる。

 昨日病気のことを話したから、それもあるのだろう、心配そうな顔の弟に、

「左足の力がなくなったから、右足でかばうからかな。右が痛くなるんだ」と言う。

 拝む所はほかの寺と違い本堂の裏にあった。弟に教わったから迷わずに行けたけど、一人で来たら分からなかったかもしれない。でも、知らない町や村を歩いて八十八の寺をたいして迷うこともなく行けたのだから、今日もそうだったのだろう。そういえば、まちがったり困ったたりしたときは必ずといっていいほどふっと誰かが出てきて助けてくれた。犬にまで道案内された。

 それで手順どおり拝んだ。四国では、観光バスの団体、車の人、歩きの人、とたくさんの遍路が競争のように経を唱えていたが、ここではおばさんが一人小さな声で経を上げていただけだ。ほかのたくさんの人はただ黙って手を合わせていた。小さな声で経を上げるようにと言う看板があった。小っちゃな声でも弘法大師さんまで届きますよ、ということなのだろうか。四国では境内に経を上げる声があふれかえっていたものだが。まあ、とにかく静かなのが好きなお寺みたいだ。

 体調も良くなかったので、長居をせずに、そのまま近くの駅まで連れて行ってもらって、家まで一目散に帰った。

 

 高野山は本山だけど札所ではなく番外だから、札所の八十八箇所を回ればいいのかもしれないが、お遍路は最後に高野山におまいりするのが、暗黙の了解のようになっているので気になっていた。これでやっと私のお遍路さんが終わった。

 腸に大きなポリープが見つかった。この大きさになると、ほとんど中に癌ができています、と医者はこともなげに言った。手術は順番待ちで、一月半後になると言われた。手術の後、抗癌剤などが始まると大阪まで行く体力がなくなるかもしれない、と思って手術の前に大阪にある両親の墓参りをかねて出かけていった。

 長い間、行かなくちゃ、と思いながら用事にかこつけて墓参りに行かなかった。たまには来いと親に呼ばれたのかもしれない。こんなことでもなければ墓参りはさておき、高野山にはあと何年も行かなかったろう。そろそろけじめを付けな、とそちらにも呼ばれた気がする。

 

 そういえば、あの足の痛みも、からだの疲れも山を下りて食堂に入るときにはすっかり消えていた。歩き遍路がお参りするときは、疲れて、足が痛くなくちゃならないんだろうな、と思ったりしている。ささやかな不思議は、続いているのかもしれない。

 

 冬の陽が部屋の奥まで差し込んで暖かい。もうすっかり葉を落としつくした枝垂桜の枝の向こうで小さな雲が輝いている。私はその陽のぬくもりの中に足を入れてこれを書いている。

 

 

 

 

    仲 間

著者 高田敞

 

 残った人は席を立たない。いつもなら、随筆クラブの読み合わせが終わったらすぐ立ち上がって片づけを始めるのだが、今日は座ったままだ。そのまま話し続ける。

 今日は、渡辺さんと成瀬さんが早く帰るというので急いで合評会をやった。といっても、持ち合った作品を読みあって、文法的なことや、漢字の使い方を訂正したり、少し感想を話すだけなのだが。だから三時少し前に終わった。いつもより速く終わったので、そのほかの人は時間に余ゆうがあった。 最近は、文法的なことはみんなうまくなったので、訂正しなければならないことはめっきり少なくなった。

 渡辺さんが大急ぎで帰った後、三時五分には出るという成瀬さんが、いつものニコニコ顔で、そうだ、と言って一曲歌を披露する。その後、美空ひばりのこどものころの歌をCDで聞かせてくれた。バスの時間だといいながら後ろ髪惹かれる顔で帰っていった。都会のようにバスが次から次に来るというわけではないから、ひとつ逃すと、次は1時間とか2時間待ちになるのだろう。

 で、四人が残った。

「うちの天井裏にも、こんな大きな巣が三つもあるよ」と、先ほど読んだ松本さんの随筆にあった、スズメバチの話をする。

「巣が近くにあると、危ないよ。いつも警戒してるから」と松本さんが言う。

「うちのは何年にもわたって作ったと思う」

 そして少しスズメバチの話になる。でもなんとなくみんな話しに身が入らない。

「どこを切るの」と松本さんが言う。

「いや、切らない。おしりから内視鏡入れて取るみたい」

「じゃあ大きい手術じゃないんだ」

「手術自体はたいしたことはないみたい。食塩水を注射して、ポリープを浮かせてから、電気で切り取るみたい」と医者に言われたことを話す。食塩水だったかな、と考える。食塩水の訳ないもんなと。

「電気で切るから、そのときほかに電気が流れて腸に穴をあけるかもしれないから、穴が開いたかどうか1日あれば症状が出るので1日入院するんだって」

「大丈夫よ。うちのお父さんも、おなかの調子が悪いと言ってながら、なかなか病院で見てもらわなくて、もう内視鏡が通らなくなってて、腸を取ったんだけど元気だわよ」と生井沢さんが言う。

「そう、大丈夫よ」と長谷川さんも言う。

「そう、今回はそれを取って癌の広がりを検査して、それから腸をとるかどうかだから、すぐ命にかかわるということではないらしいから」

 それで、なんとなくみんなほっとした顔になって席を立つ。

「がんばってね。大丈夫だから」

「うん、がんばる」とニコニコ別れる。

 

 

 

    

著者 高田敞

 

 電話の向こうで弟の声がニコニコしている。

「手術で取ったポリープは良性だったって。がん細胞は見つからなかったって」

 結果を聞きに言った夜、私は大阪のすぐ下の弟に電話した。

「よかったなあ」と言った声が笑った。

 実家には弟がひとり住んでいる。兄も一番下の弟も、結婚して外に出て暮らしている。小さなアパートだからいっしょに住むわけには行かなかったから、結婚したらみんな外に出た。弟だけはとうとう結婚しなかった。いつだったか、大阪に帰って兄弟で飲んでいたとき言っていた。「好きになる相手は好きになってくれないし、好かれる相手は好きになれないし」と。もう適齢期などずっと過ぎたころ言っていた。結婚したくなかったわけでもなさそうだ。

 弟は苦労した。まあ、苦労は人の常なのだが、兄弟の中で報われない苦労が一番多かったような気がする。

 つまずきは中学校のときだ。登校拒否になった。理由はわからなかったが、学校へ行かなくなった。無責任な私はその理由を聞いてやりもしなかった。母だけがひとり苦しんでいたような気がする。私も母に苦労をかけていたのだが。

 もちろん本人が一番大変だったろうが、それを思いやる心は私にはなかった。今もそうだが、どうも私には人の気持ちを考えることが欠如しているようなのだ。

 それ以来弟は下済みの暮らしをたどっていった。だからか、いつもおしゃれをし、颯爽と歩いていた。そしてなんにでも反対論を言うのが常だったから、話すといつも議論になった。といっても、生活や個人的なことではなく一般的な世相について議論するのだから、議論しあってもそれで仲がどうなるということでもなかった。議論のための議論だから。

 先日病気のことでもう会えないかも知れないと思い、兄弟に会うことと墓参りをすることのために帰った。そのとき、八十八箇所巡礼の後最後に残っている高野山にも行くといったら、下の弟に乗せていってもらえ、とボソッと言った。そして、フンと言って、仏壇をあごで指した。意味がわからないでいると、戒名を書かされるからと言う。せっかく高野山に行くのだったら両親のことを拝んでもらうといいという。

 大阪に帰るといつも兄弟で墓参りに行くのだが、弟はいっしょに行ったことがない。その弟が高野山までひとりでいって親のことを拝んでもらっていたのだ。弟は飲んべの父をひどく嫌っていた。その父を介護したのも弟だったのを父が死んでから知った。

 

 親に病気のこと頼め、ということだったのだろう。言われなかったら思いつきもしなかったろう。

 男兄弟話すことはないから、報告だけして電話を切った。笑っている声が耳に残った。 

 

 

 

    春なのに

著者 高田敞

 

「怖いよなあ」と言う。

「食えねえよ」と義弟が言う。

 義母がジャガイモを蒔けと言った。3月末になったし、種芋も買ってあったしだから、どうしようか迷っていたところに言われたから一応蒔くことにした。地震の前に買っておいたから例年通りの量買ってある。それも、味を試そうといろいろな種類を買った。

「まあ、どうなるか分からないから」と私は未練がましい。

 小っちゃな耕運機を義弟が押していく。私はそこに種芋を並べていく。義母は縁側に座って種芋を次々に切っていく。久美子がそれに灰をつけていく。

 彼岸すぎの日が高く昇り、ぽかぽか陽気だ。梅の花はもうほとんど散ってしまったが、変わりに姫こぶしがつぼみの先からピンクの花びらをちょっぴり突き出している。いい春なのに。

「できたらやっぱり食べたくなるよな」と耕し終えた義弟にまだ未練ぽく言う。

「すぐ野菜も蒔けって言うよ」と続ける。

「少し、ほんの少し。ばあさんのだけ」笑いながら義弟が言う。義母は、「私はもう長くないから関係ないよ」と先ほど言っていた。

「んだな。少しだけ蒔くか」

 ジャガイモの種を買ったとき野菜の種も買っていた。ナス。ピーマン。ミニトマト。トウモロコシ。ポップコーン。子どもたちがお盆に帰ってきたときみんなで食べれると。だからやっぱり未練がましい。

 「今宇宙人が食料探しに来て俺たちを見たら、『あれはだめだ、食用禁止だ』って、ほか行くな」と私は言う。

「塞翁が馬だ」と義弟が笑う。

「灰がなくなったから何か燃すものない」と点火バーナーを持った久美子がやってきて言う。

「ありゃ、足りなかったか。あれ燃やしたら」

と畑の端に積んである松の枝を指す。

 マスコミは、食べても安全だ安全だ、といっている。しかし、4月になって、食用禁止は千葉や、群馬にまで広がっている。うちの上を通り越して、ずっとはるか先まで行った空気が食べられないほどの汚染を拡げている。放射能も煙のように薄まりながら飛んでいくのだろうから、うちにはもっと濃い放射能がとんでいるはずだ。それを一日中吸っている。ヨウ素は気体だから肺から直接血液の中に入るだろう。それを毎日毎日1分の休みもなく吸っている。半減期8日という。1週間すると、今日の100と、昨日のが減って94になったのと、おとといのが減って88くらいになったのと、それから、82と、76と、と毎日休みなく吸ったのがからだの中に蓄積されていく。

 それ以外にも半減期が何十年とかいう放射能が地面に降り積もっている。

 雪なら解けて流れてノーエで消えてしまうけど、放射能は解けて流れていかない。

 いくら食べても安全だという学者さんたちよ、孫を連れて茨城に来て、畑からじか摘みしたほうれん草を家族で食べてみな。それなら少しは信用してあげよう。スタジオなんかじゃだめだよ。きっと、中国産のほうれん草に茨城のカバーをして、産地偽装なんて古くて新しい手を使うのだろうから。

 さわやかな春風が通りすぎていく。いつもなら、盆栽の植え替えや、花の手入れや、種まきやらと楽しい春だ。寒いから何もすることがなくてつまらなかったのが、やっときた楽しみにしていた春なのだ。でも、この春風の中に毒があるという。色もない、匂いもない、痛くも痒くもない。いくら吸ってもくしゃみ一つでない。ところが、この春風がそよそよとほうれん草畑をすぎていくと、それだけで食べられないほどの毒が付くという。その空気を吸わなくてはならない肺は、空気と効率よく接触するように作られている。そこに毎日大量の空気を吸い込む。朝日新聞には、たばこのほうが癌になると書いてあったけど、タバコの煙はからだに付いたくらいでは害は無い。くさいだけだ。けれど、この春風はからだに付くだけで危険なのだ。

 春風が、息をするたびに肺に毒を残していく。今日は何もない。明日も何事もない。くしゃみひとつ出ない。ひとっつも怖くない。しかし、五年後や十年後に白血病や、癌にならない保証はない。もう歳だからどっちにしろ大差はない、と笑っている度胸はない。なのに、毎日そよそよと春風が私の体をすぎていく。逃げるったて、たくさんの友達と、この生活を捨ててどこに行けるところがあるだろう。

 

 

 

 

    小鳥がいない

著者 高田敞

 

 雀がいなくなった。鶯の声が聞こえてこない。ツバメの姿がない。

 気が付いたら庭から小鳥の姿が消えていた。ヒヨドリがいつも庭にいた。ドッグフードと、私が置いてやるバナナや、みかんを食べるためにいつも庭に陣取ってほかのヒヨドリと喧嘩していた。一日中うるさかったので、ほかの鳥がいなくなったのに気が付いたのは五月になってからだ。

 ヒヨドリが、あんまり喧嘩しなくなったな、と思っていたときに、妻が、NHKのドキュメントで、チェルノブイリの事故のため鳥が半分くらいに減ったというのをやっていた、と私に言った。そういえば、とこの前からヒヨドリしかいなくなったような気がして気になっていたので、庭を見ると、冬には毎日あんなに来ていた雀が1羽も来なくなっていた。日に何度も見るのだが、数日に1羽くらいしか来ない。普通に庭に来ていたシジュウカラも、そういえばこの1ヶ月で、2度しか見なかった。

 ヒヨドリが追い払っているのかなと思って近くを見に行ったが、近くの電線にも、屋根にもスズメはいなくなっていた。町うちに行くと少しいた。ほんの少しだ。スズメなんて、見あげれば必ず何羽も目に入ったものだが、それが探さなくてはいない。

 去年までは、いつもどこかから必ず聞こえてきていた鶯の声も、春先に1度聞いたきり1度も聞こえてこない。

 前の田んぼにもツバメが飛んでいない。1度、つがいのツバメが来ていた。1羽が田んぼの土をついばんでいた。1羽が上の電線にとまっていた。仲良く飛んでいった。ああツバメが帰ってきた、とほっとした。次の日、1羽が電線にとまっていたのを見た。それっきりもう何日も見かけない。巣づくりの土を取っていたのだから、近くに巣を作ろうとしていたはずだ。それがいない。例年なら、ツバメなんてどの田んぼの上にもいつも飛んでいるのだが。姿がない。町うちには少しいる。町うちにはツバメもスズメも少しいる。

 でも雀なんか、おそらく数十分の1に減っていると思われる。いるのは、ヒヨドリとか、カラスとかサギとか鴨のように、中くらいから大きな鳥だ。その鴨も見かけなくなった。カラスも少なくなっている。ヒヨドリも、庭に来て小枝をくわえて飛んでいっていたのに、今は庭に来ない。時々ほかのところで見かけるだけだ。

 ここから30キロほど離れた鉾田の人も、雀がいなくなったといっていた。カラスも減ったと。

 田んぼの向こうの、林から聞こえてくる鳥の声が日ごとに小さくなっている。裏の林からも鳥の声がほとんど聞こえてこない。空を見上げても、小さな鳥の姿がない。鳥ばかりではない、蝶も蜂も非常に少なくなっている。去年までとまるで違う。周りから生き物が消えている。これが放射能のためかどうかは分からない。しかし、農薬なら、去年も一昨年も同じように無線ヘリコプターで撒いていた。しかも今年はまだ撒かない。地球温暖化なら、ここ数年増えてきていた南方系の蝶まで原発事故の後いなくなったのはおかしいし、今年はまだ鳥や生き物がいなくなるほど暑くなってはいない、どちらかといえば涼しいほうだ。これが放射能が原因であるとは分からない。しかし、冬にはいっぱいいたスズメが今いなくなった間に起こった大きな変化はそれひとつだけだ。

 何か怖いことが起こり始めている気がする。これが、杞憂であることを切に願う。

 

 

 

 

    怖い話三

著者 高田敞

 

 昨日は初夏を思わせる暖かさだったのだが、今日は寒い。

「寒いね」とみちこさんの喫茶店に入るなり言うと、

「4月上旬の寒さに戻るって言ってたわよ」とみちこさんが言う。みちこさんは暇なときはよく店のテレビを見ているから情報通だ。でも最近は少し客足が戻ったみたいだ。今日も先客がいる。珍しく松田さんだ。

「あれ、久しぶり」と挨拶する。

「しばらく来なかったからね」と、にっこり言う。

 少し挨拶言葉を交わしたところでみちこさんがでてきた。湯を沸かしに厨房にいったのだろう。いつも客が来てから湯を沸かすから、紅茶が出てくるまで時間がかかる。その間おしゃべりをしているから、ときどき湯を沸かしていたのを忘れていたりする。紅茶の出てくるのが遅くなるときは、きっと蒸発して沸かし直したりしているのだ。

 松田さんが、「高田さんは、生き物で何が嫌いだい」と聞いた。

「クモ。クモの糸が顔にかかったりするとゾゾッと来る」

「すると、前世は虫だったね」と松田さんが言う。

「へえ」と答える。へえっとしか答えようがない。

「クモなんて、別に何にも悪さしないだろ。刺されるわけじゃなし。毒があるわけじゃなし。それなのに怖いのは前世の記憶が体に残っているからなんだよ」

「そんなもんなんだ」と適当に合わせる。でも、言われてみれば、たしかにクモが怖い理由はひとつもない。

「高田さんは蝿を見ると捕まえたくなるタイプかね」

「言われればそうかな」

「じゃトンボかアブか虫を食べてた昆虫だね」

「それも前世の記憶」

「そうだよ」松田さんは確信有り気だ。

「アブより、トンボのほうがいいな」私は適当に合わせる。

「私は、青虫が嫌い」と、みちこさんが言う。

「そりゃ、前世は、キャベツか、白菜だね」

「キャベツなの」みちこさんは不満気だ。

「そうだよ。むしゃむしゃいつも青虫に食べられてたからだよ」

「そうか。昔、同僚で青虫を見ると飛び上がってた人がいたけど、そういうことだったんだ」と、青虫がいたくらいでなんで飛び上がるのか不思議に思っていたことを思い出す。クモだって大差ないけどそれは棚上げだ。

「青虫が怖いなんておかしいだろ。みんな前世の記憶なんだよ」

「キャベツだったなんてやだ」とみちこさんはまだこだわっている。

「みちこさんはちょうちょも嫌いだろ」

「ちょうちょは好きじゃないけどぞっとするほどじゃないわ。嫌なのは蛾。秋になると大きなのが来るでしょ。窓でパタパタしているのを見ると、もう、鳥肌だっちゃう」

「そうか。だったら、キャベツじゃなくて栗かクヌギだったのかもしれないな。あの蛾の幼虫は、栗とかクヌギの葉を食べるからね」

松田さんは得心顔だ。

「栗なの」とやっぱり不満顔だ。

「じゃ、オレなんか花育てるの好きだから、ちょうちょかな」

「そっちかもしれないな。蜂かもしれないし」

「久美子は蛇がだめだから、蛙かな」

「それか、ねずみか、小動物だったね。ちょこまか動き回るならねずみ系統だね。あんまり動かずに、じっと待ってるタイプなら蛙だね」

 言われてみるとなんだかそんな気がしてくる。でも、前世があったということになるとやっぱり信じがたい。でも、松田さんはもう年だし、大病もしているから、そろそろ前世や来世のことを考えるのかもしれない。人のことはいってられない、私だってそろそろ考えていてもいい歳に近づいている。

 外は寒い雨がぱらつき始めている。怖い雨であると週刊誌に書いてあった。本当はひとつも怖くないクモや、青虫が怖くて、本当は怖いのに、それが怖いとはひとつも感じられない放射能雨である。人間とは不思議なものだ。 

 

 

    ダークマター

著者 高田敞

 

 ダークマターを観測するための装置が動き出したということである。ノーベル賞を取った小柴氏の、ニュートリの観測装置カミオカンデに似た巨大な装置らしい。

 ダークマターというのは、日本語では、暗黒物質と訳されているが、別に黒いわけではない。目に見えない物質ということであるらしい。その物質は、もし物質と呼べればだが、どのような観測でも今まで直接観測されたことがないという謎の性質をもっているという。だから、それを直接観測すれば、宇宙の成り立ちの解明が大きく進むという。ノーベル賞も可能性があるらしい。

 

 ダークマターの性質は以下のようである。

1 重力を持っている

2 電磁波(光の仲間)とは反応しない。自ら光を出さないし、反射も屈折もしない。重力で光

 を曲げるとは言われているが、屈折とは仕組みが違う。

3 宇宙には、通常の物質(星や星間ガスなど今分かっているすべての物質)の4倍から6倍ほ

 ど存在する。

 の三点が分かっているということである。

 ここで注意しなくてはならないことは、述べたように、まだダークマターは一度も観測されたことがないので、これらはすべて推測であるということである。観測されてもいないのにどうしてこのような性質が分かったのかは以下に書くとおりである。

 1の、重力を持っていることと、3の、その量が4倍から6倍であるということの理由は、今、ほとんどすべての宇宙論者が信じている、ビッグバン宇宙理論の必要性からである。

 ビッグバン宇宙理論の宇宙年齢は137億歳である。一番遠い銀河は、120億光年ほど遠くにある。これは、120億年前のその銀河を見ているということである。ということは宇宙誕生後17億年ですでに銀河ができていたということになる。ところが、宇宙誕生後17億年ほどで銀河ができるには、通常の物質だけでは重力が大幅に足りないということになった。すると、銀河を作るための謎の重力があるはずだということになった。計算上、その量は、普通の物質の4倍から6倍必要である。それが謎の物質、ダークマターになった。

 このように、ダークマターの重力は観測から分かったことではなく、理論の必要性から推測されたものである。

 理論からでたことは、実証されて始めて科学的事実となる。銀河の回転や、重力レンズの観測から実証されたという人もいるが、それらがダークマターが原因であるということはまだ証明されていない。共に、通常の物質でもおこる現象であるから、確実な証拠とはならないと思える。贔屓目に見た希望的解釈である。

 2の、見えないという性質も観測から分かったことではない。4倍から6倍もあるのに、今までどのような観測、可視光でも、X線でも、ガンマー線でも、赤外線でも、電波でも検出できなかったということから、見えない物質であるということになっただけだ。

 このように、ダークマターは、ビッグバン宇宙理論と現実の観測の食い違いを埋めるために考え出されたものである。

 普通の場合、どんなに観測をしても観測できないときは、見えないのではなく、存在しないと考える。ないことが証明された、とされる。観測できないから、仕方がないから見えない、という性質をくっつけて存在を肯定するというのは例外なのだ。

 そこで、次にダークマターが本当に存在するかを考えてみる。

 まず、地球上に存在するか、ということから考えてみる。

 見えないから探しようがないというので、巨大な施設を作って見つけようとしているのだから、普通には見つけようがないように思える。しかし、手がかりはある。重力である。もし地球に、地球の4倍のダークマターがあったら、おそらく立ち上がるのは非常に困難になるだろうと思われる。73キロの私は、そのプラス4倍の体重になる。365キロである。立ち上がるどころか、座ることさえできないだろう。ところが、どのように精密な秤も、まだダークマターの重力を検出したことがない。また、地球の公転は、通常の物質だけの質量でぴったりケプラーの法則に合う。月の公転もそうだ。ということから、地球上にはダークマターの重力は存在しないということがわかる。ということは、地球にはダークマターは存在しないということになる。

 太陽系を見ても、他の惑星の公転も、通常の物質だけの計算で、ぴったり合うことから、太陽系にもダークマターの重力は存在しないということが分かる。

 このことから、太陽系にはダークマターは存在しないか、あっても、惑星の公転に影響しないくらい少ししか存在しないことがわかる。宇宙にある、通常物質と、ダークマターの比率とは、まるで違うことになる。

 これは、太陽系には通常の物質が極端に多くあるということかもしれない。銀河間の星のない宇宙に比べると、極端に物質が集まっているからと考えられる。しかし、ビッグバン宇宙論では、星は、まずダークマターが集まってそれが通常の物質を引き付けてできることになっているから、星があるところには、多くのダークマターも集まっているということになる。重力はあるから星ができたら胡散霧消するというわけには行かないのだから、今も大量にあるはずである。そればかりか他のダークマターを引き付けるから、増えているはずである。だからかなり多くあるはずだ。特に4倍から6倍集まってやっと星ができるということなのだから。

 そこで宇宙ではどうだろうと考えて見る。観測の非常に難しく不正確な遠い宇宙では、重力レンズや、銀河の回転にダークマターの影響があるというのに、観測が正確にできる地球や太陽系には、痕跡さえないのはどういうことだろう。太陽系だけこの宇宙の中で特殊なのだろうか。

 昔、望遠鏡の解像度が低かったころ、火星の運河の観測図がずいぶんあった。今はそれがすべて見間違いだったということが分かった。観測技術が発達したからである。ダークマターも観測が正確にできるところには痕跡さえなく、観測が不正確なところほど多量に現れるというのは、この火星の運河とよく似た現象である。

 このことから、ダークマターはこの宇宙には存在しないと考えた方がつじつまが合いそうである。ダークマターは、ビッグバン宇宙論の矛盾そのものから生まれたつじつまあわせであるといえそうである。

 

 

 

    東京マラソン

著者 高田敞

 

「これだけの人が自殺しているのね」 と久美子が言った。

東京マラソンの特番を久美子と見ていたときのことだ。

「ああ、そういえばそうか」と私はあらためて画面を見る。

 ビルの間の大きな道路を上から映した映像は、交差点を曲がって道路いっぱいに広がって流れて行く人の群れを映している。次の画面でも、やはり人の群れが元気よく途切れることなく走り抜けていく。

「この一塊が、1日の自殺者くらいなんだろうな」と画面に大きく丸を書く。

「そう」久美子は考えている。

「1日百人だから」

「そうね」

「そういえば、昨日、ヨサコイのおばさんから自殺の話聞いたなあ。49とか言ってた。中間管理職がどうのこうのとか。みどりさんの弟と同じだ」

「大変よね」

「政府は知らん振りだもんね。政治の責任にされないようにうつ病対策だから。本気じゃないんだよね。うつ病になるような働き方をさせることが良くないのに、精神ケアで治るなんて、そっちに原因を擦り付けてんだ」

 みどりさんの弟は、会社で、リストラ選別係にされたという。首を切ると、次の日から家族ともども路頭に迷う人たちを名指ししなければならない。妻子を抱えてどう暮らすのだろうと思っても、名指しするしかない。そして、酒びたりになって、うつ病になって自殺した。先日も、就職活動の学生がうまくいかなくて、自殺しようとして、バスを横転させている。たくさんの人が路頭に迷っている。それくらいで自殺したりするのが間違っているという人もいるかもしれない。でも、あの、と今日マラソンの怒涛のように流れていく人と同じ数の人が自殺しているのだ。個人の問題では済まされないはずだ。 

 国際競争力だ、発展だの掛け声で、リストラや人件費の削減は致し方ないとマスコミはいっている。コストを下げなければ、国際競争に勝てないという。そうだろうか、日本の大企業は、三百兆円近くの金を貯蓄しているという話だ。みんな人件費や、中小企業への金を削った金だ。この金が今までのように、働いている人や、中小企業に流れたら、自殺者はぐっと減るだろう。東京マラソンではなく、せいぜい福岡マラソンくらいになるのじゃないだろうか。

 今世界では金持ちの懐に金が流れ込む仕組みが出来上がりつつある。給料が減り福祉が減りしている間に、株主の配当金はうなぎのぼりだ。金持ちの税金は減り続け、庶民の税金は上がり続けている。

 金融界は金があまり、実業の世界は金がなくなった。世界一金持ちのアメリカまで、7人の子どもに一人が満足な食事をしていないという。

 世界中で、「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」、の世界になっている。ところが、これをいかんともしがたいのである。情けない話である。

 

 

    

 

    英語の公用語の是非

著者 高田敞

 

 先日、深夜番組で(どこの局か見ないちゃった)日本の公用語を英語にするのは是か非かということをやっていた。よくは見なかったからどういう成り行きになったかは分からないが、中に、外国人の若者が流暢な日本語で賛成論を述べていた。「北風がバイキングを生んだ、ということわざがある。日本も、大変だけど、英語を公用語にすると、バイキングになれる」という趣旨の発言だった。

 バイキングって海賊だろ、日本人がどうして海賊にならなくちゃならないんだ、といいたかった。まあ、それはことわざなんだから強くなるとかなんとかで、本当のバイキングになることではないのだろうと思うけど。

 それを見ていた久美子に、

 「アメリカも、公用語を日本語にすればそのとき、日本は英語を公用語にすればいいと思うよ」といってみた。

「そうよね」と久美子は言った。このところ久美子は絶対私の言うことに反論にしないから本当のところは分からない。反論すると、いっぱい言われるから、めんどうくさくて何でも賛成しているようなのだ。

 でも、あの外人の若者に聞いて見たいと思う。アメリカの公用語を日本語にしたらと提案したらはなんていうだろうかって。それはいい考えだというだろうか。彼はそんなことを思ったこともないだろう。アメリカを馬鹿にする気か、世界の覇者のアメリカが、何で東洋のちっぽけな国の言葉を公用語にしなくちゃならないんだ、と言うんじゃないだろうか。この若者も、フランスに、「北風がバイキングを生んだ、ということわざがある。フランスも、大変だけど、英語を公用語にすると、バイキングになれる」というだろうか。考えたこともないだろう。

 世界で通用するのは英語だから、英語を公用語にすれば便利だというのはひとつの考え方にしかすぎない。もしいつの日か、貿易は中国語が主流になっても、アメリカも、イギリスも、フランスも公用語を中国語にすることなど考えもしないだろう。なぜなら、それは、中国に屈すろことになるからだ。 

 アメリカは日本を破った覇者だから英語を日本の公用語にするなどということを考えるのかもしれない。

 昔、最後の授業というのを習ったことを思い出す。翌日から言葉が征服者の国の言葉になることの悲哀を書いた小説だったように思う。あの小説を彼に読ませたいものだ。言葉は、商売に有利であればいいというだけの問題ではない。それは人間にだけ役立つ植物を植えたり、建造物を立てたりして、自然を壊すのと根っこで共通した考え方だと思う。私は、のんびり母や、父の使った言葉を楽しんで生きていたいと思う。

 

 

 

    芥子(けし)

著者 高田敞

 

 車で鉾田へ向かっていると、道路沿いの雑草の中に朱色の花がふたつ見えた。

 鉾田への真っ直ぐな道は春も盛りだ。雑草だって青々と茂るとグリーンベルトだ。ツバナの白い穂が群がり、風の中で光っている。いやずいぶん早いな、ツバナってもう穂が出るんだっけ、と通り過ぎた先で緑の中に朱色の花を見つけた。ここにも咲いているんだ、と思う。

 この花は、ここ数年いろんなところの道路沿いで見かけるようになった。犬の散歩の途中でも今年咲いた。小さな芥子の花だ。

 花壇で見る、鮮やかで豪華絢爛と咲き誇るあの芥子の花ではない。小さく、ひょろっと伸びた茎の先にやっと1輪咲かせている弱々し気な花だ。それでも雑草の緑の中ではよく目立つ。

 子どものころ大阪に住んでいた。港に貨物を運ぶ列車の線路が近くを走っていた。その線路の敷石の砂利の間から細々と伸びてけしの花が咲いていた。一面に咲いているのではなく、所々に、ポツリポツリと咲いていた。手のひらくらいの背丈で、その先にひとつ小さな花を風にゆらしていた。そんなに小さくても、遠くに伸びていく鉄道線路の砂利石の間に咲いているからよく分かった。

 「手のひらの大きさくらいだったのだから、よほど小さかったんだなあ」と考える。砂利をどけて、そっと抜いて家の前に植えたりしたのだが根づいたことはなかったなあ、と思い出す。

 小学校の低学年だったから、あのころは戦争が終わってからまだ十年そこそこしか立っていなかったんだ、と計算してみる。平成になってもう二十三年も立っているのにと。

 あのころはまだ大阪にも草原が至るところにあった。でも、もう少し赤い色の花の記憶があるから、今咲いているけしの花ではないかもしれない。鉄道線路の砂利の間でしか見たことはなかったし。今いたるところで咲いているけしは、道端や、グリーンベルトの植え込みなんかの草の中で咲いているから、違う種類かもしれない。半世紀も前に大阪で見たけしの花が、鉄道や、車に運ばれてやっと茨城まで来た。やっと私に追いついた、と考えるのは面白いけど、そう世の中はロマンチックではない。

 まだ蒸気機関車だったからなあ、と忍者ごっこを思い出す。SLは下から、蒸気を噴き出して走る。その蒸気の中で、ドロンドロンと忍者になろうというのである。あのころの忍者は猿飛び佐助や、霧隠れ才蔵だった。

 やってくるSLは蒸気をもうもうと噴出している。線路わきで待ち構える。SLは蒸気をもうもうと吹き出しながら近づいてくる。あと少し、と忍を切りからだに力を入れる。目の前でパタッと蒸気が消える。通り過ぎると、またもうもうと蒸気を噴出す。忍法はあえなく失敗である。いつもそうだった。

 ところが、あるときそれが成功した。目の前で蒸気がいつもより勢いよく噴出すとパタッと止まった。でもいつもと違うのは、それがからだの直前だったことだ。だから、ほんの少しだが、ちょこっと蒸気がかかった。思い切り忍を切った。しっかりと霧隠れ才蔵になったのである。見上げると、通り過ぎる運転席から運転士が笑って見下ろしていた。

 あれは、子どもが線路のわきにいるから、わざわざ、蒸気を切って危なくないように通り過ぎていたんだ、と思い当たる。

 誰と遊んでいたのだろう。思い出せない。兄弟4人で遊んでいたのだろうと思うが記憶はない。そういえば母が時々いっしょにいた。小さいころの記憶にはいつも母がいる。あの線路は今はどうなっているのだろう。

 鉾田の町並みが近くなって、スーパーやホームセンターを通り過ぎる。この道を走り始めてもう何年になるのだろう、と考える。5年、6年。わからない。早いものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

   年の差なんて

 著者 高田敞

 

 島崎裕美さんがいる。このところ島崎さんによく合う。といっても、月に2,3回なのだが。

「みどりさんも来るって」とみちこさんが言う。三人はとても仲良しみたいだ。よく呼び合ってここでお茶飲みしてるみたいで、ときどき出合わせる。

その裕美さんが「藤田さんと軽井沢行ってきたのよ」と、うれしそうに私たちに言う。

「軽井沢まで2時間で行けるのよ。それもただで」

「被災地支援てやつ」と私は合いの手を入れる。

「そうなの。水戸から乗ると、どこに行ってもただなのよ」と、裕美さんはニコニコ顔だ。裕美さんはいつもニコニコ顔だ。裕美さんは楽しいことしかないのかもしれない。

「オレも被災証明もらっとくかな」

「もらうといいわよ。ガソリン代だけでいいんだからお得よ」

「テレビで見たけど、停電しただけでもらってるってよ。そんなの被害じゃないでしょ」と、みちこさんが言う。

「被災者の支援になるんだからいいのよ」と裕美さんがニコニコ言う。

「そうだよ、俺たち被災者なんだから」と私も適当なことを言う。

「水戸で、トラックがユーターンしてるって」とみちこさんが言う。

「そうよ。関西のほうから来て、水戸で降りてただにして、また水戸から乗ってただにして東京方面に行くのよ。首都高を通るとだめみたいだから、首都高に入らないマニアルがあるみたいなのよ。それで、何万も助かるのよ」と、裕美さんは詳しい。

「そっか。そりゃ水戸まで来るわな」と私は相槌を打つ。

「ひどいじゃない。それって、被災地救済じゃないじゃない。それで水戸が迷惑してるってテレビでやってたわよ」

 みちこさんが憤慨している。でも、裕美さんはそのことが話したいことではなかったみたいで、話題を変えた。

「藤田さん今度見合いするのよ。やっとその気になったの。この前、失敗したでしょ、だから、すぐって気にはなれなかったみたい」

「だって、この前の人は、ブスだったでしょうよ。せめて普通の人紹介しなくちゃ彼だって嫌になるでしょ」みちこさんが言う。

(藤田さんてやっぱり男なんだ)と、私はひそかに思う。「藤田さんと軽井沢に行ってきたのよ」と言ったときの顔が、ひょっとしてと勘ぐらせるニコニコだったのだ。

「そんなことないわよ。今度の人はとっても気立てがいい人なのよ。女子大も出てるし、きっと気に入るわよ」

 私の頭は激しく回る。旅行に行った男に見合いの相手を紹介している。どういうことなのか。ウン、こいつは、週刊誌に載っているような話なのかもしれない、とからだが前のめりになりそうになる。

 そこに、みどりさんが入ってきた。それで、裕美さんは、また、藤田さんと軽井沢にいってきた話をする。そんなに吹聴したら夫にまで伝わらないかしら、と他人ながら心配などしてる。でも、みどりさんも藤田さんのことは知っているみたいで話はするすると滑っていく。三人寄ればなんとやらでおばさんたちの話は実に喧しく、私など隅に追いやられてただふんふんうなずいているだけで、口を出す隙間などこれっぽちもない。

 どれくらい経ったろう、みどりさんが、「お母さんの所行かなくちゃ」と言って財布を出しお金を払う。でもまた話がはずむ。「行かなくちゃいかなくちゃ」と言いながらなかなか立てない。話が切れないのだ。私も時計を見ながら、さっきから腰を浮かせている。三美女を前にして立ち去りかねているのだ。でも、それを振り切って「さあ、御飯作りだ」と立ち上がりかけると、みどりさんが、「お泊りだったのかしら」とこっそり私に聞く。週刊誌みたいなこと考えてたのは私だけではなかったようだ。

 で、私も気になっていたので、お金を払いながら「泊まりだったの」と、裕美さんに直接聞いた。

「お泊まりなんかしないわよ。日帰りよ」

 裕美さんは、とてもうれしそうにニコニコ答える。

「泊まるわけないでしょ。夫があるんだから」とみちこさんが変わりに憤慨する。

 みどりさんは納得したのかしないのか、ニコニコ席を立つ。「ほんじゃまた」と私も席を立つ。

 世の中は本当は楽しいことだらけなのかもしれない。

 

 

 

 

    夢

著者 高田敞

 

 みちこさんの喫茶店は春も盛りだ。小さな窓を小さなしゃらの木の若葉が覆っている。その向こうにクレマチスの白い花が見える。

 平日の午後、喫茶店でお茶などのんびり飲んでるのは年金爺さんかばあさんくらいのものだ。だから、みちこさんの喫茶店には、私と、あと一人同じ年くらいの浩子さんしかいない。でも、浩子さんはパートで働いているから私なんかと違ってまだまだ元気な現役だ。

「お母さんのとなりのベッドのおばあさんがね。このごろ夫の夢を見なくなった、って言うの」とみちこさんが私たちに言う。

 みちこさんの母親が、入院さきからリハビリのために介護施設に移ったので、その見舞いに行ったときの話を先ほどからしている。

「『前は毎日夫が出てきてくれたのよ。それがこのごろはちっとも出てきてくれないの』ってニコニコ言うのよ。そりゃそうでしょ。院長先生が後ろから、こんなふうに住友さん元気、って毎日抱いてくれるんだって言うの」と、大げさに抱きつくまねをする。

「そりゃ夫も遠慮して出て来ないわ」と私はニコニコ答える。

「院長先生の話すると、目がキラキラしてて、顔なんか十歳くらい若返ってるの」

「夫さん、あっちでしばらく待ちぼうけだな」

「それっていいんじゃない」

 浩子さんがちょっと東北訛りのような含み声でニコニコ口を挟む。浩子さんは話すときいつもニコニコ顔だ。「こりゃ俺にほれてるな」、と以前は思ったことがあったが、いつも誰にでもだから、どうもちょっとした勘違いだったようだ。

「そんなの変でしょ。院長先生は若いのよ。その人もう八十過ぎてるのよ。相手にしないわよ」

 みちこさんが憤慨している。

「いいんじゃない。女はいくつになっても恋したいものなのよ」

 浩子さんの目もキラキラしている。

「先生が迷惑でしょう」とみちこさんは先生の見方だ。男嫌いのみちこさんが味方するのだから、先生は若くてよほどハンサムなのだろう。

「そんなことないわよ。先生だって、嫌われているより好かれているほうが気持ちよく診察できるでしょうよ。ね」と浩子さんは私に同意を求める。

「だって釣り合いってものがあるでしょ」とみちこさんは引かない。

「釣り合いなんていいの。恋に年齢は関係ないよな」と私は浩子さんの味方をする。みちこさんは一本気だからかまいやすいのだ。

「そうよ。タレントの人なんかみんなそうでしょよ。20歳くらい違う人なんてざらじゃない」と味方を得た浩子さんはここぞとばかり言う。

「それは芸能人だからでしょ。普通の人はだめよ」とみちこさんは多勢に無勢なのに屈さない。

「みんな同じよ。若い人は美しくていいわよ」

 浩子さんの目はうっとりと遠くを見ている。何かとってもいいことを思い出しているのだろう。

「そうだよ。男だって女だって、棺桶片足引っ張り込まれててもがんばるんだから」と私は笑う。

「おおやだ」大げさにみちこさんは肩をすくめる。そしてそんな話に付き合ってられない、と話を変える。

「そしたら、お母さんが、『お風呂入ってくる』といって、さっさと行っちゃうの。『ソッチの人といっぱい話してたら』って。あれってなに、人がせっかく見舞いに行ってるのに」

「ちょっとそれ、嫉妬したんだわよ」浩子さんが手振りを交えて言う。浩子さんの目はもう近くに戻っている。

「そうだわ」と私も言う。

 みちこさんはちょっとの間黙っている。そして、

「もうすぐ退院なの」と言う。

「よかったわね」浩子さんがやはりニコニコ顔で言う。

「もう元気なのよ、自分でもしっかり歩けるし」

 みちこさんはお母さんの話をよくする。離れて住んでいるからなのだろうか。私なんかは二人とももういないけど、それ以前からだって親の話はほとんどしなかった。久美子もよく両親の話をするから、男と女の違いなのかもしれない。まあ、よくは分からないけど。

  

 

 

 

    夢 色

著者 高田敞

 

 梅雨も盛りで蒸し暑い。みちこさんは店の外で掃除をしていた。

「今クーラー入れるからすぐ涼しくなるからね。お客さんいないときは切ってるの」いっしょに店に入りながらみちこさんが言う。

「節電に協力してんだ」

「もったいないでしょ」

 もったいないからというのがみちこさんの口癖だ。こう蒸し暑くては、年金じいさんも、ばあさんも出歩く気力もなくしているのだろう。出だす人はクーラーが数年前から壊れたままになっているわたしくらいなものなのだろう。今年は放射能が怖くて窓が開けられないから、よけい暑くて我慢できないのだ。

「島崎さんがね」

 みちこさんが話す。島崎裕美さんのことはなぜか苗字で呼ぶ。みちこさんはたいがい女の人のことは名前で呼ぶのだが。彼女は数少ない苗字で呼ばれる人だ。どうしてだか聞かないから分からないけど、いっしょによく旅行にも行ったりしているようだから結構親しいようなのだが。

 その裕美さんの話によると彼女の友達に離婚した人がいるという。美智子さんがその話をしている。

「そういうのなんていうの。ほら、夜自分勝手で、ひどいことするんだって」

「ああ、SMってやつかな」

 私は思わず乗り出しそうになるのをぐっとこらえてさりげなく答える。

 みちこさんはそのことには知らん振りで、

「横浜に行って暮らしてるんだって」と続ける。何でも、五十歳前で、子どもを二人連れてスナックに勤めているとか。みちこさん得意の噂話が続く。

「それでね、いま恋人ができたんだって」 

「いいんじゃないの、もう自由なんだから」

「それが、知ってる、昔、テレビで神様になった人が出てきてこんなことしてた番組」といって、胸の前で腕をばってんに組む。

「ああ知ってる」

「長い髪がぼさぼさで、太っていて、乞食か、仙人か、神様か分からないかっこうしてて、上から水がばしゃっと落ちてきたりするの」と大げさに身振りをする。

「見てた。子どもと見てた」と私は子どもの付き合いで見てたような顔をする。

「その人そっくりなんだって」

「へええ」

「日雇い労務者で、独り者なんだって。お金もないから結婚もできなかったのよ。労務者だからきっと筋肉こんなになってるのよ。想像できちゃう。あの神様になってた人みたいなのよ」

 みちこさんは両腕を横に広げて垂らし、マッチョな男の真似をする。

「横浜でスナックに勤めてるんだったら、いろんな人来るんだからもっといい人見つられるでしょうに」

「筋肉質に参ったんじゃない。前のだんなと正反対なのかもしれないよ」私はニコニコ言う。

「よくないわよ。お金がなかったらこれから先大変よ。デートしたって、みんなその友達が払ってるって」

「まあな、子どもがいるから先を考えたらな。でも大丈夫だよ遊びだろうから」

「そうじゃないのよ。島崎さんも分かれるように言ってるんだけど、ぞっこんで、聞かないって」

「いいんじゃない。今だけだよ。3年もすれば熱も冷めるよ」とどこかで聞きかじったようなことを言う。

「横浜で店出してたら、わたしならハンサムで、そこそこお金を持ってて、やさしくて、独り者のひと見つけるんだけど」みちこさんの目に大きな星がキラキラしている。

「イケメンは懲りたんじゃないの」と私はからかう。

「ブスはだめよ。ちいさいころからいつもいじめられてるでしょ。だから心も捻じ曲がるのよ。そのてんイケメンはみんなからかわいがられるから素直に育つのよ」

「あれ、だんなさんイケメンじゃなかったの」

「違うわよ、ぜんぜんよ」

 声が大きくなる。目の星がこんどは赤く燃え上がった。

「ありゃ知らなかった。息子さんすごいイケメンだから、だんなさんもいい男だと思ってた」とからかう。

「醜男よ」やっぱり力がこもる。

「そんなだんななんか忘れて、早くいい男みつけな」

「岩間にはいい男いないからだめ」

「場所じゃないよ。自分だよ」とからかう。

みちこさんはちょっと考えてる。

「光代さんは28で連れ合いなくしたから、独りに慣れてるし、誰もなんとも言わないからいいけど、私はいろいろ言われるのよ」とよく聞かされる従姉の話が出る。

「大丈夫。還暦すぎたら誰もなんとも言わないから」

「そうよね。放射能で死んじゃうから早く見つけなくちゃね」

 いつも放射能を怖がっている私をかまう。

「そうだよ、後はないよ」

「残り少ないんだから、楽しく暮らさなくちゃ」みちこさんの目の星がまたキラキラしている。

 「冒険してきたの」と言って、北のほうにひとりで行ってホテルの温泉に入ってきた話になった。

 窓の外は梅雨空。降りそうで降らない暗い空だ。夢は夢。かなわぬのが夢。

 かなう当てがないから安心して夢が見られるのかも。

 

 

    女性力

著者 高田敞

 

 「お姉さんが内装を変えるんだって」とみちこさんが言う。みちこさんの喫茶店は客は私一人しかいない。

「ふうん」と私は上の空だ。人が話しているのに、ふとほかのことを考えて、話が聞こえなくなる。悪い癖だ。それで慌てて話に集中する。

「せめて1年はお兄さんのこと思ってそのまま住むべきなのよ」

「別にいいんじゃないの内装くらい」

「お兄さんがいろいろ考えて作った内装なのよ」

「そういうのって好みがあるから。できるんならいいんじゃないの」

 そろそろリホームしなくちゃと思いながらできないでいるくすんでしまった我が家を思う。

「そればっかりじゃないのよ、歩くクラブにも入ったみたい」とさも呆れ顔だ。

「せめて1年くらいは辛抱しなくちゃだめよ」

「そりゃそうだ」

 以前にも、四十九日も終わっていないのに旅行に行った、といって怒っていたのを思い出す。

「うちの周りだって、だんなさんが亡くなった人いるけどみんな元気だよ。1人になったら自由だもん。元気にもなるよ」

「最愛の人なくして。私はできないわ」

「あれ、みちこさんは1年悲しむ」とかまってみる。

「嫌よ。うちは暴力振るったけど、お兄さんは優しかったもの」

「そうだわ。それは大違いだわ」

「お兄さん亡くなったのだから、せめて1年くらいは辛抱してお兄さんの作った部屋で暮らすべきなのよ」

「そうだけど、でもいくら好きあった夫婦でも、いろんなやりたいことを我慢して暮らしてるんだから、1人になったら少しは自由に暮らしても良いんじゃない」

 この前、一度ここで出会った小柄なお姉さんを思い浮かべる。たしかに夫をなくしたばかりとは思えないくらい元気な様子だった。でも至って普通の人だった。おばさんを卒業したにしては若く見えるくらいがちょっと変わっているくらいである。還暦を過ぎたみちこさんのお姉さんだからもっとおばあさんを想像していた。私だってとうに還暦を過ぎているのだから、それこそ自分のことは棚に上げてである。

「でもあんまり早すぎるわよ」

 以前、手をつないで散歩している老夫婦の話を思い出す。みちこさんが、「手を離したらどこ行くか分からないから捕まえてるのよ」と半分冗談めかして言っていた。

「でも、そうなんだから仕方ないんじゃない。夫婦っていうのは、あなた以外の人とは楽しいことはしませんという契約なんだから、その契約がなくなったんだから、今まで我慢してた楽しいことするのは仕方ないんじゃない」

「違うわよ。お姉さんは好きな服着て、おいしいもの食べて、いっぱい旅行に行って、ほんと好き放題してきたのよ。みちこはかわいそうね、今死んだら、何にも楽しいことなかったって悔いが残るでしょ。私なんかいつ死んでももういっぱい楽しいことしてきたから満足よ、って言われたことあるのよ。私なんか旅行は新婚旅行だけよ。家族旅行も一度もないのよ。会社の慰安旅行だって行けなかったのよ」

「そうなんだよな。遊ぶ人はいつも遊んでるし、遊んでない人は、いつも遊べないんだよな」

「真面目は損。私なんか一生懸命働いて、夜中まで酔っ払いの面倒見て、贅沢しないで子供育てて、家のローン払ってきたのに」

 みちこさんは憤懣やるかたない。好き放題してたお姉さんは夫を看取ったあとまで幸福で、身を粉にしてつくしてきた自分が別居しなければならないのは理不尽だと思うのは当然だ。

「いいんじゃない、真面目な人生やってきたんだから。それっていい人生送ってきたってことなんだし。不真面目な人のことうらやむことないと思うよ」

「ほんと一生懸命つくしてきたのよ」

「たいしたもんだと思うよ。だからいつまでもこどもが頼ってくるんだよ。それでいいんじゃない」

「ショウが引っ越したの」とぱたっと子どもの話になる。

 夫婦というのは難しいものだ。うまく行けばめっけものなのかもしれない。なんといっても、世界で二番目に迷惑を掛け合うのは夫婦なのだから。

 

 

 

 

    若返りの秘宝

著者 高田敞

 

 珍しくたくさんの人がみちこさんの喫茶店に集まった。

 行ったときは春代さんがいた。そこに、「列車を乗り間違えたの」という電話が来て、みちこさんが裕美さんを駅まで迎えに行った。裕美さんが来て話していると、

「いやア、久しぶり、1年ぶりかな」と挨拶したほど遇わなかった米倉さんが入ってきた。

「しばらく調子が悪くて」と米倉さんが言う。そして、裕美さんに呼ばれた 

みどりさんが来て、総勢5人にもなった。最近は、なじみの人が来なくなって新しい人ばかりだから、来ても話し相手がいないことが多かったのでうれしいことだ。

 裕美さんが、娘と見に行ったコンサートの、何とかいう歌手の話をした。みちこさんも、春代さんもいろんな歌手の話をした。それが、みんな年寄りばかりだ。

「この前ジュリー見に行ったけど、ブヨンブヨンなのよ」と裕美さんが言った。

 あんまり歌手の話はできないみたいで聞き役だったみどりさんが、

「最近夫筋肉マンになったの」と言う。

「おなかも締まって、もうブヨンブヨンじゃないのよ。背中もこのあたりに筋肉がついてすごいの」

 彼女のだんなさんは最近なんかの武道にこって、ずいぶんと頑張っているという話を以前していた。

「筋肉の夫良いの」と言う目が輝いている。

「私もがんばらなくっちゃ」とおなかを押さえる。

「女の人が筋肉マンになってどうするの」と私が言う。

「そうじゃないわよ、もう恥ずかしくて見せられないのよ」とおなかを押さえている。

「だいじょうぶだよなあ」と私は米倉さんにふる。

「そうですね」

 米倉さんはしどろもどろに答えている。もともと彼は話すほうではなく、聞くほうだからだし、みどりさんとはあんまり親しいほうではないからなのもあるし、女の人は少し苦手なのかもしれないしなのだろう。

「年取るとだめよ」とみちこさんが話に応じる。

 裕美さんはニコニコ話を聞いているだけだ。彼女はこの中で一番若いし、まだまだスマートなのだ。

「年取ると、みんな下がっちゃうのよね、特に大きい人は」とみどりさんは、みちこさんに同意を求める。二人とも、普通より大きな胸をしているのだ。

「若いころは良かったわね。もう一度戻りたい」と、真面目が売りのみちこさんは話を変える。

「わあ、もどりたくない」とみどりさんが即座に言う。

「そうだよな。せっかく年金暮らしでのんびりできてるのに、もう一度あの苦労をやり直すなんて、おおやだ」と私もみどりさんに同意する。

「そうよ。もうあんな苦労はやだ」とみどりさんがもう一度言う。私と同じで、よっぽど嫌だったんだろう。

「みんなもそうですか」

 米倉さんが言う。なんだか安心した顔だ。ひそかに、鬱おじさんといわれている彼らしい。

「普通はそうだよ」私は言ってやる。彼は私より十歳は若いのだ。

「私は若返りたいな。そしたら、今度は、やさしくて、お酒飲まないで、家庭を大切にしてくれる人を見つけて結婚するの。そして、家をきれいにして、おいしいものいっぱい作って食べさせてあげるの」

「そんなことしたら、夫、ブヨンブヨンになっちゃうよ」と私はかまう。

 みちこさんはいつも夢見がちだ。私なんかは、もう一度やり直しても、また同じ苦労が付きまとうと思っている。でも、みどりさんも、私も、みちこさんのように、夫の暴力だの浮気だのの、苦労をしたわけではなく、普通の暮らしをしてきたからかもしれない。もう一度やっても同じだろうし、取り戻さなければならないほどひどい人生ではなかったのだろう。

 

 

 

 

 あとがき

 

 年とともに書ける量が少なくなっている。それで、仕方なく、時事問題や科学物までいれた。時事問題や、科学物は、考えたことをそのまま書けばいいから案外簡単である。それに、題材は、本や、新聞に書いてあることに対する自分なりの意見だから、題材探しに苦労するということも少ない。それに対して、随筆はまず何を書くかを見つけることから大変だ。それに、書くことは感情のことである。そのまま書くわけにはいかない。読む人にそれを感じてもらうには、工夫がいる。それが難しい。それでも、今年もこれだけは書けた。良かったよかった。