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秋の日のつるべ落としである。木の影も昼間でも長く伸び、午後になると、もう麦わら帽子の庇の横から顔に日が差してくる。その光も柔らかい。
「八郷から来るおじさんいるでしょ」とみちこさんが言う。
みちこさんの喫茶店も開けた窓から涼しい風が入り込んでくる。
たぶんと思ったのだが。誰という顔をする。
「自転車で来る人」
「ああ、あの人。自転車おじさん」
退職して、東京から田舎暮らしに隣町にやってきたという人だ。いろんな趣味を持っているらしく忙しく飛び歩いているという。その趣味の一つが自転車で、房総を一回りしたというくらいだ。だから、大概のところは自転車で行くらしい。ここだっておそらく10キロはあるだろうが自転車で来る。時々来るらしいが、来る時間帯が違うのか、2度ほどしか遭ったことがない。
「そう、吉村さん。この前、そば食べに行こって誘われたの」
「へえ。よかったじゃない」
と言ってみたが、みちこさんが男の人の誘いにのるとは思えない。
「私じゃないわよ」
「なんだ。そりゃ残念」
「ひとっつも残念じゃないわよ。この前、佐竹さんの店紹介してあげたの」
佐竹さんは美智子さんの親戚で、陶芸の店をやってる人だ。若いころ夫を亡くして、一緒にやっていた店をそのまま切り盛りして現在にいたっている。私より少し歳上みたいだが、いまだに現役で仕事をしている。みちこさんが唯一信頼している人だ。
「それで店に行ったのよ。そしたら、気にいっちゃって、佐竹さんとそば食べに行こって誘ってほしいって頼まれたのよ」
「買いに行ったんじゃないんだ。偉い」と茶化す。
「佐竹さんに話したら、好きでもない男の人と二人じゃつまらないから、私にも付き合えっていうの」
「断った」
「断ったわよ。どうして私が吉村さんと食事に行かなきゃなんないの、と思ったのよ。そしたら、女の人は男の人を喜ばせて上げるものなのよ。『もうそんなに後もないのだし、冥土に楽しい思いで持たせてあげるものよ。独りで暮らしている人は淋しいものなんだから』って言うの」
「オッケイしたんだ。よかったじゃない」
「紹介したの私だし」
よく承知したこと、と思ったが黙っていた。せっかく楽しいことが決まったのに水差してもしゃあないし。
「吉村さんその蕎麦屋さんに行って下調べしてきたのよ。そしたらまだ新蕎麦じゃないというので、ほかのところにしたのよ。それで、フランス料理の店見つけてきたのよ」
「すごいなあ」
「そうでしょ。高田さんもそれくらいしなくちゃだめよ」
「無理だよなあ」
「高田さんも行かない」
「よしとく。おれ男に興味ないもん」とやっぱり茶化してしまう。
みちこさんの喫茶店は、さっきから話しているのにだれも客が来ない。入ってくるのは窓からの秋風ばかりだ。まあ、よくあることだが。アベノミクスがここまで届くにはまだまだ先なのだろう。いや、届くのは金持ちばかりで、こんな田舎町の小さな喫茶店のことなどもとから考えてるわけはないか。
みちこさんは話し続ける。
「その話したとき、佐竹さんとお茶飲みに行ってたのよ。スカーフにネクタイピンしてたの。ネクタイピン見たいだけど、代わってるって思ってたの。それがレストランに入ったとき無くなってたの」
「裏返して見ると裏の留め金だけで、ないのよ」と身振りで話す。
「あらあら、落っことしたんだ」
「探しに行こって言ったんだけど、いいわよって言うの。今来たところたどっていったらあるわよって言ったら、あれ夫のネクタイピンなの。夫の持ち物で残ってたのはもうあれだけなの。みんないつの間にかなくなってあれが最後だったの、って言うの。じゃあ余計探さなくちゃだめじゃないって言ったのよ、そしたら。いいの、もういいよ、忘れて自由に生きなって夫が言ったのよ、って言うの」
「へえ」と私は言う。
「佐竹さんあっさりしてるのよ。元もとこだわらない人なの。佐竹さんてすっと純粋な人だと思ってたの、ところが違ってたの。佐竹さんは絶対恋愛結婚だと思ってたの。そしたら、お見合いだっていうのよ。若いころはいろんな人と付き合ってたけど、結婚は違うから、って言って、親に、お金持ちで商売している人紹介してって言って、お見合いしてサッサと結婚したの。それまでの人すっぱり切ったのよ」
「普通じゃない。俺たちの上の世代は、結婚は永久就職っていわれていた時代だったし。食べていくのが大変だったから。愛か金かってこと言えるようになったの、俺たちの時代になってやっとだったんじゃないかな。みちこさんの時代はもっと良くなってた」
みちこさんはちょっと考えている。おそらく意味が通じなかったのだろう。話をそのまま続ける。
「私罰が当たったのよ、と言ってるの」
「ふうん」と私は答える。それじゃ私の罰の為に旦那さんが死んだことになるなあ、と思ったりしたけどそれは言わなかった。
「吉村さんはいくつになるの」
「80って言ってた」
「へえ、そんなになるんだ。俺70くらいかと思ってた。鍛えてるからなあ」
「佐竹さんは」
「70になるとこよ」
「10歳違いか」
「70と80じゃ大違いよ」
「でもあの人若く見えるからいいよ。まだ走れるし」と何がいいのだか。
「そうよ、佐竹さんのところも自転車で行ったって言ってた」
「うらやましいな」
「高田さんも見習ったら」
「毎日ウオーキングはしてるよ。さて帰って歩かなくちゃ。このごろ暗くなるの早くて」と立ち上がる。
向こうの杉林の頭に日が引っかかって輝いている。一緒に出てきた美智子さんがのぼりをしまっている。
「もう閉めるの」と聞くと。
「もうだれもこないから」と言う。
私は車に乗り込む。
40年もずっと独りでいたんだ。いまだにスマートで、整った顔立ちをしているから、その気ならいくらでも相手はいたろうにと思う。佐竹さんが付いていれば楽しい食事会になるだろう。秋にも黄昏にも恋は似あうものなのだから。
25年10月17日完