暦は立秋を過ぎているが一向に暑さは去らない。世界中が燃え上がっている。
せん婆さんは縁側にぼんやり座って庭を見ている。広い庭の、大きな梅の木も、紅葉の木も、桜の木も炎の中だ。蝉の声がその炎を必死にかきまぜている。でも、せん婆さんの耳には、どれが蝉の声で、どれが耳鳴りか区別ができない。せん婆さんはもうすぐ九十になる。
その熱い庭に車が滑り込んできた。車から二人の人が降りてくる。
「ばあちゃん、暑くないの、こんなところで」と一人が驚いた声を出す。娘のひろこだ。
「こんにちは」と孫の晃も一緒だ。
「よく来たねえ」
せん婆さんの顔に笑みが広がる。
「熱射病になるわよ」
「大丈夫だよ。暑くないよ」
「クーラーかけて涼しくしたらいいのに」
「クーラーは嫌いなんだよ。外の方がよっぽど気持ちがいい。ほら、汗もかいてないだろ」
「ちゃんと水飲んでる」
「飲まないよ。ばあちゃんは、トイレで粗相するから怒られるんだよ」
「なに言ってるの。水飲まなきゃ熱中症になるわよ」
「大丈夫だよ。あきちゃんは元気かい」せん婆さんは孫を見る。
「うん元気だよ」
「そうかいそうかい、元気が何よりだ」
「ばあちゃんも元気」
「元気だよ。足もちゃんとしてるよ」
「子供出来たら抱っこしてもらうんだから」
「ホッホッホ。それじゃばあちゃん百まで生きなきゃ」
「あのね、晃の結婚が決まったの。それを言いに来たの」
「おやまあそりゃ良かった、よかった。じゃあ、ばあちゃん百まで生きなくても大丈夫だ」
「まあ、お上がり」
せん婆さんは、ゆっくりと立ち上がる。ひろ子さんは急いで上がると、その腕を支える。
「相手はね、東京の人で、高校の先生をしてるの。お父さんは文部科学省に勤めてる人なの」
「それはそれは。いい人が見つかってよかったね」
「そうなの、相手の人も、共働きがいいっていうからいいのよ。今までの人はみんな家に入ってのんびりしたいっていう人ばっかりだったから」
ひろ子さんは、大声で言う。
その声を聞きつけたのだろう「や、来てたの」とひろ子さんの兄が奥から出てきた。
「お兄さんこんにちは」
「お邪魔してます」と、晃も言う。
「暑いわね」とひろ子さんが言う。その声にちょっととげが混じっている。
「今日はそうでもないよ」兄が言う。
「いらっしゃい」
兄嫁も出てきた。
「ね、クーラーつけてあげたら」
ひろこさんが言う。
「だいじょうぶだよ。うちは風が通るから涼しいんだよ」と兄が言う。
「だいじょうぶだよ」ゆっくりとせん婆さんが言う。
「閉めると、チョコが鳴くのよ。がりがり窓をひっかくから、窓が壊れるのよ」と兄嫁は飼い犬の話だ。
「私は暑くないよ。博司、あきちゃんが結婚するんだって」せん婆さんが言う。
「それはおめでとう」
「ありがとうございます」
「まだ本決まりじゃないんだよ。あいさつに行って、結婚を前提につきあいを始めるということなの」
ほっとしたように、その話になる。
その話が一段落すると、せん婆さんが
「健ちゃんはどうしてるね。会いたいねえ」とひろ子さんの長男のことを言う。
「今度電話してあげて、喜んで飛んでくるから」
「電話番号あげておくから」
ひろ子さんは、近くに置いてある箱の中に切り揃えて入れてある広告を取り出すと番号を書く。
「私は電話かけられないから。電話の声はよく聞けないんだよ」
「お姉さんにかけてもらったらいいでしょ。お願いします」と義姉にさしだす。
「いいんですよ」と義姉は受け取らない。
「あの子は今へそ曲げてて、私が電話すると取らないのよ。今の電話は、かけた人の名前が出るでしょ。私だと出ないのよ。だから、姉さんかけてやってください」
「いいですよ」義姉は手を出さない。
「いいよ気が向いたら来てくれるだろう」せん婆さんが言う。
「だって。近いんだから、電話すればすぐよ」
ひろ子さんはなかなか折れない。
「いいですよ」義姉も折れない。
「あきちゃんちょっとちょっと」せん婆さんは、ゆっくりと立ち上がる。
「おこづかい上げるから」
「僕働いてるから、いいですよ」
「おいで、おいで」せん婆さんは聞こえなかったようにニコニコ奥に歩いていく。晃も、仕方なく後についていく。
せん婆さんは財布を取り出して中をのぞいた。ちょっと顔が曇る。でもすぐ笑顔になって
「このごろはお金も自分で下ろせないから、少しで悪いね」
とお札を取り出す。
帰りの車で、ひろ子さんがしきりに怒っている。
「婆ちゃんより犬のほうがだいじなんだわ」とか、「電話位なんでもないでしょ。なにあの態度」とか。まあ、怒り心頭である。
「婆ちゃん、僕のこと子供と思っているのかなあ」
晃が言う。
「ほら、千円だよ」と差し出す。そして「これ上げる」とひろこさんの膝に乗せる。
娘たちがかえると、息子夫婦はまた自分たちの部屋に行ってしまった。せん婆さんはまた縁側に座る。暑い風が、汗もかかない体を過ぎていく。もうずうっととずうっと昔に逝ってしまった夫のことをちらっと思う。
日は中天で燃え盛る。