時の立つのは

  著者  高田敞
 




退職した人が、三十五年か長かった、と感慨にふけっている。

 夕食後、テレビも面白くないし、やることもないので、久美子に借りてきた本を読んでいた中にそんなことが書いてあった。

「ここにきて三十五年かな」

そういえば、と隣で、寝そべって本を読んでいる久美子に声をかける。

「そうなるかしら」と半分上の空だ。

「あっ君三十五だっけ」と聞く。先日久美子がそう言っていたような気がしたので聞いてみる。

「あっ君は1978年生まれだから三十四よ」

息子の歳も分からないの、あきれたという雰囲気がこもっている。私は子供の誕生日や親の命日や、挙句の果てに、結婚記念日まで忘れてしまうから、いつも怒られる。人の名前も一生懸命覚えてもすぐに思い出せなくなる。頭の中に記憶のスペースがほんの少ししか無いようだ。久美子もこのごろはさすがに慣れたのだろうけど、以前は、私はなんでこんなパースケと結婚したのだろうと、さげすみと悲嘆に暮れていたものだ。そのたびに私は、しゃあないだろ、そうなんだから、おまえは頭良く生まれたからいいけどよ、と、いじけて、いたものだ。

「俺二十九で結婚したんだよな」

「うん」

久美子は本から目を離さずに、めんどくさそうに返事する。

「そしたら、三十でここにきて、あっ君がその翌年生まれたから、三十五年で計算が合う」

「そうね」と言いながらほんとかしらと考えている。私だって少しは覚えているのだからと思ったが言わなかった。私が頭悪いの思い出させて改めて久美子をがっかりさせることもない。

「敞さんが三十四のときには、あっ君は五歳で、美咲は三歳だったのよ」

「そうか」

なんとなく計算が合わない気がするが、そうかそうかと思う。

その暁洋に、先日子供が生まれた。

三十五年ってあっという間に過ぎてしまったが、まだ生まれてもいなかった息子に子供ができ、私がおじいさんになってしまうほど長い年月なのだ。

最初割り箸ほどだったしだれ桜も、今は二階の屋根をはるかに超えているし、風よけにと植えた、やはり、十センチそこそこだった生垣の椿も、幹は太いので、私の太ももくらいにもなり、切っても切っても伸びあがっている。

「後三十五年は無理だね」

「そうかしら」

「だって百だよ」

「無理ね」

「いいとこ二十年だね。男は早いから、まあ、十五年か」

「そうう」と考えて、「いやあね」という。

「十年なんてあっという間だからな」

「もうやることもないし。相対論がひっくり返るところを見てみたいけどな。学者たち大騒ぎだろうな」

 久美子は本に戻っている。先のことなど分からない。あれがしたいこれがしたいということもなくなった。子供らは独り立ちしたし、ローンもない。毎日が同じ繰り返しだけど、それで何の心配もなく生きていけるのはありがたい。私が死んだあと、久美子の年金が少ないので心配だが、まあ、なんとかはなるようにしておけるだろう。