草取り 

 著者 高田敞





 桜が終り、マグノリアの花が終わると、草の伸びが一気に速くなる。ほおっておくと、アッという間に、「高田さん引っ越したのかね」なんて、いわれかねないほどすごいことになる。それで、久美子とチョコチョコ草取りをする。ちょっとの間だから、草の伸びになかなか追いつかない。

 よくまあと言うくらい庭にいろんな植物が生える。この時期一番多いのが、大アラセイトウ、別名紫花菜だ。以前何かの講演会で平和の花だとかいうので種をもらい、蒔いたのが運のつきだった。それ以来毎年取ってもとっても庭中に出てくる。よほど我が家が気に入ったみたいだ。私が自称平和主義者なのを見透かされたのかも知れない。けっこうきれいな花が咲くのだが、どことなく荒地みたいな感じで、次の年からは見つけしだいとっていたのだが、去年、放射能が怖くてあまり草取りをしなかったので、今年は庭中はびこってしまった。で、ほかに花がないのでまあ何にもないよりはいいかと咲かせている。

そのほかにも棕櫚の木がはびこっている。いたるところに、去年出た芽が、指ほどの長さのへら状の葉を2枚伸ばしている。どれもこれも律儀に2枚だ。これは、ヒヨドリが種を運んできたものだ。義父が植えた棕櫚が隣の庭にあるので、それを食べて運んできたのだろう。

 万年青もいたるところに生えている。これもヒヨドリが種を運んできたものだ。この冬、梅の木の枝から、ひょいと下に飛び降りたと思ったら、すばやく赤い実をくわえて枝にもどった。飛び降りたところには万年青があった。何度か飛び降りては、実をくわえて枝にもどった。

 美男かずらのつるもいたるところに生えているのは、やはりヒヨドリの仕業だろう。これも、赤い半透明な粒々の集まった、和菓子のようなきれいな実がなる。椿の葉に似ているので、つい見逃してしまう。秋に赤い実がなって初めて気がついたりする。久美子は好きでないのか目ざとくそれを見つけて抜き取る。

 去年の春まで犬がいた。そのドッグフードを狙っていつもやってきていたヒヨドリが、お礼にと庭に撒いていったのだろう。見ていると、ヒヨドリは体の割にかなり大きなものも丸呑みする。棕櫚の実や、万年青の実を平気で丸呑みする。それを、糞といっしょに庭に撒き散らしていったのだ。

 

 椿と山茶花もいっぱい出ている。生垣に椿と、山茶花を植えているので、そのこぼれ種から、毎年たくさん生えてくる。猫がいたころは特にたくさん出ていた。猫を飼う前はそんなに出なかった。いっぱい種ができるのに芽が出ないのを不思議に思っていた。猫を飼った年の春、庭のいたるところで、椿や、山茶花の芽が、まるくぎっしり固まって出た。誰が集めて蒔いたんだろうと不思議だった。考えたのは、ねずみの食糧貯蔵庫だったんだろうということだ。秋に蓄えたのはいいが、そのあと、猫に殺されたか逃げ出したかして、そのままになったねずみの貯蔵庫から芽が出たのだろうということだ。たしかにそのあと猫がいた間は固まって芽が出ることはなくなった。代わりに垣根の周り一面に、芽が出ることになった。その猫もいなくなって久しい。新しい椿の芽はあまりでなくなった。ネズミたちが復活して、食べているのかもしれない。ねずみの姿は見かけないのだが、おそらく野ねずみだろうから、家の中には入ってこないので分からないだけなのだろう。

 このまえ草取りをしていたら、珍しく丸く固まって十本ほどの小さな椿が生えているのを見つけた。蓄えたのはいいが、その後、いたちか、時々回ってくる猫にでもやっつけられたのだろう。

 何とか生き残る種もあるのだ。ちっちゃな庭にも自然のせめぎあいがあるのだろう。けっきょく私か久美子に切られるのだが。

 「アッ君も、美咲ちゃんも帰ってこれないし、俺たちがいなくなったら、ここは、椿林になるかな」と、久美子に言う。ちょっと考えてから「いいのよ、そんなこと」と久美子が答える。それはそうだ。あとのことなど考えても仕方ないが、百年後に大きくなって咲き誇っている枝垂桜の周りを、様々に咲き乱れる椿林を想像するのもいいものだ。

 そのほかにも、マグノリアや、コブシや、藤がいたるところに出ている。取る人がいなくなったら、あっという間に庭中に繁茂するだろう。何が勝つのか、それとも共存するのかは分からないけど、花盛りの春はいいものだろうと思いながら、去年放射能が怖くてほったらかしだった分をやっこら刈り取っている。