じゃがいもの皮

 著者 高田敞





私はジャガイモの皮をむくのがどうも苦手である。理由は簡単なことだ。薄くむこうとするからでこぼこに四苦八苦するのだ。

 

 東京で働いている子どもは、盆と正月の二回一泊二日で帰ってきていた。ここぞとばかり、腕によりを振るって、おいしいものを食べさせようとする。でも、御飯を食べるのは多くても四回だ。だから一回も無駄にできない。子どもの好きなものをどうその四回に振り分けるかを考える。でも、私は料理の達人ではない。その正反対だ。料理らしいものは何一つ出来ない。だから、結局手巻き寿司とか、鍋とか、すき焼きとか、簡単にできるものしか食べさせてやれない。残念なことだ。

 妻が夕方からの仕事だったので、晩御飯はずっと私が作ってきたが、ただ長くやってきただけだ。少しは料理本でも読めばよかったのだろうが、仕事の帰り道にスーパーによって、帰って食事を作る。それの繰り返しだったから料理らしいものは何一つ出来ないままだ。

 だから、一回はカレーを作る。息子が、カレーなら毎日でもいいと言っていたからだ。そして少し自信がある。で、ジャガイモをむくときに苦労する。

 

 考えると、もう五十年以上も昔になる。母が裸電球の下でジャガイモをむいていた。カレーを作るのだ。

 母はカレーが自慢だった。「向こうの橋のところから匂ってましたよ」と、尋ねてきた人に言われて、うれしがっていたりした。

 戦争が終わってまだ十年そこそこのあのころは誰もが貧乏していた。「なべ底景気だからあとは上がるしかないから」と大人たちは言い言いしていた。でも、ほかと違ってうちがなべ底の縁を這い上がるのはずっと先のことになった。

 母は私たちが学校へ行く前に働きに出かけていた。そして遅く帰ってきて、晩御飯を作った。少しでも私たちにたくさん食べさせようとしてなのだろう、ジャガイモの皮を薄く薄くむいていた。父が、「じゃがいものむき方も知らへん」と言った。たしかに皮がごわごわ口に残ったりした。でも母はやっぱり薄く薄くむいていた。

「いつか、時間ができたら、おいしいものいっぱい食べさせてあげるからね」というのが母の口癖だった。その時はとうとう来なかった。

 母が死んだとき、遠くからおじさんが来て、「貞ちゃんはこれから、やっと楽できたのに」と言って泣いた。

 

 あのころは、食材に徹底的にこだわり、たっぷり時間をかけておいしいものを作るなどということは、多くの母親は考えもできなかっただろう。仕事に疲れ、懐と相談しいしいそろえた食材で、腹をすかせた子どもに早くできるだけいっぱい食べさせてやろうと、あわただしく作っていたのだろう。いつかおいしいものをたっぷり食べさせてあげよう、というのが母たちの夢であった時代だ。それは父親の夢でもあったのだ。

 

 私も子どもたちにカレーを作る。どうしても、皮を薄くむいてしまう。そんな必要はもうないのに。

 息子が東京に出て最初に帰ってきたとき、「パパ、世の中にはおいしいものがあるんだよ」と言った。「そうだろう。東京はいいだろ」と答えた。

 その息子が帰ってきてカレーをお代わりする。

 その息子も結婚し、もうすぐ子どもも生まれる。私が子どもたちにカレーを作ることももうないだろう。でも、息子が今度はおいしいカレーを食べさせる番になるのだ。ジャガイモの皮を厚くむいて。