雲をつかむ話

 

 著者 高田敞



 夜半から降り続いていた雨が午後になって上がった。上がったとたん太陽が顔を出した。寒く、暗い空に光があふれた。一日コタツにくすぶっているしかないかとあきらめていたのに、この光である。ニコニコ外に出ると玄関の正面の山が光の中だ。山すそや、中ほどに、立ち上る湯気のように白い雲が光っている。

 昔母が話していた。私が小さいころ、眉山に登ったとき、小さな綿飴のような雲がフアフア飛んでいたのを追いかけて、ポンと両手を合わせて「雲を捕まえた」と持ってきて見せたそうだ。手のひらを開けると、何もなくて、不思議がっていたという。山道だろうか、石ころだらけの広い道を思い出す。大豆色の道を雲を追いかけていたように思う。パンくらいの小さな雲がいくつもふわっと流れていたのを覚えているような気もするが、それが母の話で思い込んだのかどうだか定かでない。

 徳島に住んでいたのは、小学校に入る前だから、大きくても五歳になったかならないかのことだろうから、記憶もそんなものなのだろう。眉山もこの町の山と同じで小さな裏山だけど、どうやって登ったのだろう。そのあたりの話は聞かされなかったからか、何もわからない。雲を捕まえた話だけは母が面白がって何度もしていたから。

 

 地震で壊れたままの大谷石の塀を廻って花を見に行く。今は、パンジーを育てている。今年は、芽がいっぱい出たのだが、放射能のこともあって、その後の手入れがなかなかできなかったので、ほとんど枯れてしまって、50本ほどしか残っていない。そのうえ成長不足だ。それでも、少しだけど花を咲かせはじめている。その花が光のほうを向いている。

 

 私はいつも雲をつかむような話をしていたようだ。あまり話さない父が、「蟹は甲羅に似せて穴を掘るんやぞ」と言ったのを思い出す。「大きな穴掘ったって、住めへんぞ」と言う。今でも覚えているのは、その話を何度も聞かされたからなのだろう。それくらいいつも、雲をつかむ話をしていたのだろう。

 いつのころだったろうか、帰省したとき、「たかし、この枝切ってくれへんか」と言って、小さな梅の鉢植えの枝を指した。ほとんど力をいれずに切れた。もう母がなくなったあとだったのだろう。母がいたら母が切ってやっていただろうから。

 「わしは何もいらん。肴ちょっとと、酒がちょっとあればいい」とニコニコ言った。酒だけは大きな穴だったのに。少ししか飲まなくなっていた。

 父はちっちゃな穴を掘ってずっと暮らしていた。そんなものしかできなかったのだと思う。病院で寝て暮らすようになったとき、「わしは、十分満足や。いい人生やった」と言った。

 私はそのとき、家族の暮らしの糧を稼ぐために苦労し、のんべで、ただそれだけだったのに、と思ったものだ。本当に身の程もぎゅうぎゅうの小さな穴で暮らしていた。

 

 雨のあとだから、パンジーに水をやる必要はないので、盆栽の手入れを始めた。葉の落ちた梅の枝を切っていく。ところが、細い枝でも、思い切り力を入れなくてはならなくなっている。おや、おやと思う。そして、大きなはさみを取り出して、切っていく。てこの原理で、重いけど力は少なくていい。 晩酌も缶ビール1本になったてるもんなと思う。

 まあ、私も、身の程ぎゅうぎゅうの穴しか掘れなかったから、父の心配は杞憂であったということになるのだろうな、と少し太い枝に苦労しながら考える。

 「肴と缶ビール1本あればいい」と半分なりかかっている。でも、今でも、時どき、雲をつかむ話を久美子にしたりしている。

 H23,12,4  敞

 

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