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 才能

                         

 才能はあるのだろうか。思いたくはないのだが、という手紙が来た。

 共に退職してから月に2、3回手紙のやり取りをしているMからである。

 彼は退職後、小説を書いている。何冊か自費出版をしている。次の題材が見つからないから、ちょっと弱音を吐いたのだろう。

 才能の有るなしはあると思っている。努力すれば、誰もが野球選手のイチローになれるわけではない。努力の量と、成し遂げた量は一致しないと思う。

 そこで、このことを少し考えてみる。

 まず、分かりやすい野球を考えてみる。野球といえば、そのひとつに甲子園がある。毎年、何万人もの高校生たちが、甲子園を目指して戦い、甲子園の優勝を目指して戦う。勝って泣き、負けて泣く子供たちのひたむきな姿は感動を与える。

 しかし、甲子園という晴れ舞台に立てない子供たちのほうがはるかに多い。彼らは練習をサボったのだろうか。

 それはまだ良いほうだ。地区予選にも出られない子もたくさんいる。補欠はいいほうで、二軍とか、三軍である。甲子園に出た子らが努力した子らで、地区予選の観覧席で応援に回るしかなかった子らが努力していない子だとはいえない気がする。やはりそこに素質という才能も働いていると思う。

 彼らの練習は無駄だったのだろうか。

 甲子園に出る、あるいは優勝、個人的にはそこからプロ野球の世界へという夢から考えると、水泡に帰したのであるから無駄だったのかもしれない。厳しい世界なのだ。

 それと違う野球がある。おじさんたちの野球である。私の住む地区にも、日曜日に集まって野球をやっているおじさんたちがいる。勝ってもニコニコ、負けてもニコニコの野球である。終わったら、みんなでお茶飲んでまた来週、と言ってニコニコ別れる。

 彼らは野球で何かを手に入れようというわけではない。中には、メタボ予防という人もいるが、それが主目的ではない。これは、こどものころのかくれんぼと同じものだ。かくれんぼも、夕焼け小焼けでまた明日、とニコニコ帰っていく。

 たいして才能の要らない草野球や、かくれんぼは、何かを成し遂げるためにやるわけではない。ただ楽しいからやっている。

 甲子園ばかりが野球ではない。そこらのちょっとした広場でやるおじさんやこどもの野球もいいものだ。まあ、それを見て感動する人はあまりいないが、当人たちにはいいものだ。

 人生は考え方次第である。だけど、多くの人は目的を持つ。目的を持つとM氏のように何か成し遂げて見たいと思うのが普通である。すると、限界のようなものを感じて、才能かな、と考える。才能については考えても仕方がないことである。定めなのだから。才能の有無にかかわらずやるしかないのではないだろうかと思う。やって、うまくいけば才能があったと思えばいいし、だめなら、才能がなかったと考えればいい。

 私の随筆もおじさん野球だ。たいして才能がないから、のんびり書けることを書いて、クラブで読み合わせて、ニコニコ満足している。身近な人たちと楽しく語り合えたらそれでいい。生活がかかっているわけではないからそれでも大丈夫である。

 今、成果主義とか、競争社会とかいう社会になって、毎日100人ほどの人が自殺しているという。そのほかに、ホームレスという人たちが、栄養失調と病気で毎日死んでいっているという。その数も、毎日100人という人もいる。すべて自己責任という名の下に、根本的な対策は講じられていない。働く人たちは、経費の項目にしか出てこない。人間が生産コストにしか過ぎなくなっている。強い人が生き残り、弱い人が捨てられていく。

 強い人もいれば、弱い人もいる。才能に恵まれた人もいれば、そうでない人もいる。でも、誰も人間なのだから、誰もが、ニコニコ人生を送れるようにするのが国というものではないのだろうか。才能のある人はその才能で社会に大きく貢献し、そうでない人はできることで貢献する。そして、貢献しようが貢献できなかろうがみんな楽しく暮らす世の中になれば良いのにと思う。できないわけではない。日本は世界三番目の経済大国だから、金がないわけはない。もっとはるかに経済ランクの下の国でも、週35時間働けば、教育費も医療費も無料で、毎年、1ヶ月の家族旅行ができる国がいっぱいあるのだから。