蝉しぐれ
「夕方蝉が鳴いていたから、そろそろニイニイゼミが出てきたのかなと思った」
夕飯を食べながら久美子に言った。
「カナカナじゃないの」と久美子が言う。
「いつもカナカナが最初に鳴きだすから」と。
「どっちかというとニイニイゼミが早いかな」と私。
その日の夕方、一人ぼんやり外を見ていた。久美子は仕事で、まだ帰ってこない。もうすぐ夏至なのに、曇っているので外は薄暗い。サッシの前の庭の梅ノ木がうっそうと茂って空をさえぎっているのでよけいに暗い。
蝉の声に気がついたのはそんなときだ(おや、蝉だ)と耳を澄ました。蝉の声は開けてある左側の窓から、小さく波を打って聞こえてくる。
ふと、こんなに暗くなったのに鳴いてるなんて変だな、と思った。そして、一月ほど前にも同じようにジーっと蝉が鳴いていたのを思い出した。
そのときも、「今日春ゼミが鳴いていたよ」、と夕方仕事から帰ってきた久美子に話した。「ここらにも春蝉がいるみたいだよ。去年も倉田さんの向こうの杉山で、チャスタの散歩してたら鳴いてた。歩道に蝉が落ちてたから」
そのときの、透明な羽をした緑色の蝉を思い出しながら言った。拾っておけば図鑑で確かめられたのにな、とその後拾ってこなかったことを残念に思ったのも思い出した。
その春蝉と同じ鳴き声なのだ。
「雨降りそうで、暗いのに鳴いてるのは変だなって思ったから、耳ふさいだら、それでも鳴いてるもんね」
久美子は意味がわからない顔をしている。
「蝉じゃなくて耳鳴り。あんなに大きく耳鳴りがするようになってたとはなあ」
「気になるとすごく気になるのよ」
この前から、耳鳴りが気になって困っているという久美子が言う。耳鳴りは、私のほうがはるかに先輩だけど、それで困ったことはない。
「大丈夫だよ、慣れれば気にならなくなるから」と適当に慰めていた。私は、夜でもその気にならなければ聞こえない程度の耳鳴りだったから、昼間から耳鳴りを気にしている久美子にはあまり同情的ではなかった。考えてみると、この蝉時雨は、ここのところ合間あいまにいつも聞こえていたような気がする。
「まあ、いつも蝉時雨に囲まれてると思えばなんちゃない。気にしないのが一番だ」
二人して耳鳴りの話をしている。もうずいぶんと長く結婚しているのだ。良くも悪しくも蝉時雨ってところか。それとも、良くもなく悪しくもなくて蝉時雨、かな。