「娘が帰ってくるの」と、カラオケで慣らした細い声で、歌うように京子さんがニコニコ言う。京子さんはめがねの奥の細い目がいつも笑っている。「そうなの」と、光江さんが、くぐもった声で、小さく答えている。光江さんはいつもそんな声だ。
「彼と喧嘩して、しばらくうちから仕事に通うことにしたんだって」
私は、一生懸命状況を考えている。(帰ってくるからには、一緒に住んでいた人がいる。けれど、夫婦なら彼とは言わない。すると、同棲ということか)というわけだ。でも、聞くのは悪いかなと思って続きを待っている。光江さんも返事の仕様がないのか黙って続きを待っている。
「忘年会が続いて、飲んで帰ってきて、はいたりするんだって。自分も仕事が忙しいのにそれを始末したりして、喧嘩になったんだって」
「それは嫌になるわ」と、私は自分のことは棚に上げて言う。
「飲めない体質なのに、上司の酒を断ることができないから飲んでくるらしいの。そういう職場なんだって」
「ひどいわね」京子さんがぼそっと言う。
「今時珍しいな。昔はいたんだよな。飲めないのに飲むってのは大変だよ」と私も相槌を打つ。
「そうなのよね。かわいそうなのよ」
「少し冷却期間を置けば、元に戻るわよ」と、光江さんが言う。
「そう思うの。結婚してないから、帰るの嫌ならそれもいいし」
やっぱり同棲なんだ、と思ったけれどやはり何にも言わなかった。
「長い春っていうじゃない。相手の嫌なところが見えたら結婚しないかもしれないわね」
厨房からみちこさんが言う。
「それはそれでいいのよ」
京子さんは、やはり歌うように言う。
「結婚していなければ、戸籍に傷はつかないからね」
と私は言ってみる。
「そうね」
そのことは考えていなかったんだ、と思う。
「まあ、今時離婚だって普通だから」
「そうでもないわよ。結婚するとなかなか別れられないのよ」
話に入りたくて洗物どころじゃなくなったのか、みちこさんが出てきて話に割り込んでくる。
「そりゃ、俺たちゃ、古時で今時じゃないもの」と言う。
「あら、私は今時だと思ってた」とみちこさん。
「みんな一年くらいいっしょに生活して、相手をよく知ってから結婚を決めたら、失敗しないのにね」みちこさんは続ける。
光江さんが
「そんなことしたら、だれも結婚しなくなるわよ」と言う。
「あとで後悔するよりいいわよ」
みちこさんは主張する。
「この前テレビ見てたら、ロシアは、結婚前に必ず同棲して、うまくいくかどうか確かめるってやってた。それでも結婚しているみたいだから、あんがい良いかもしれないよ」とわたし。
「今の人はこだわらないから、結婚しても嫌なときは別れるでしょう」と光江さん。
「そうよ、あっさりしてるのよ。先は長いんだし、少し距離を置いてよく考えるのにいい機会じゃないって娘には言ってるの」と京子さんが言う。
「そうだよな。それに、今は、それ以前の問題もあるから。今の若者は、半分近くが、パートとか、派遣とかで、収入が少ないし、将来もないから、女の人としては結婚に踏み切れないんじゃないかな。けっこうそんなことで別れることもあるんじゃないのかな」
すぐ社会に結び付けるのは、私の悪い癖だ。
「娘の彼氏は公務員だから、その心配はないのよ」
「そうなんだ。今どき公務員なら堅くていいのに」
「そう思うのよ。でも、嫌なものは仕方ないもの」と京子さんが言う。
「そうだよな。最後は人だよな」
「そうよ、酔っ払いはだめ」
酔っ払いの公務員と結婚してたみちこさんがきっぱり言う。
「家庭内暴力はだめだけど、酔っ払いはたまにはいいんじゃない」と時々酔っ払いだった私は言う。
「男の人は酔っ払うと人が変わるから」とみちこさんは言う。
去年25万組の人たちが離婚したとテレビでやっていた。昔はどれくらいだったのか知らないけれど、きっと増えているのだろう。
ここによく来る女の人も、男の人も、みんなちょこっと家族の愚痴を言ってみたりする。でもほんとにちょこっとだけだ。特に妻や夫の悪口を言う人はあんまりいない。よく言うのはみちこさんくらいだ。
みんなそれぞれに少しは事情を抱えているのかもしれないが、良いところもあるのだろうから、それなりに楽しく暮らしているのだろう。