阿部首相が美しい国と言い出してから、いろいろなところで、美しいということがいわれだしている。
だから、みちこさんが、「丁寧なことばを使うのが、女性の品格ってラジオで言ってたわよ」と言ったのもうなずける。
「丁寧なことばか」と読んでいた本を置きながら私は隣のテーブルの人にちょっと遠慮して言う。隣のテーブルは、知らないおばさんが二人で先ほどから話している。客はその人たちと、私だけだ。昼間っからのんきにお茶飲みできるのは、年金おじいさんと、おばさんくらいだ。
小さな喫茶店だから、話はみんな聞こえるのだが、いつも聴かないことにしている。これも品格のうちかな。
だから、みちこさんがその人たちのパスタを作っている間、わきにある本棚から本を取って読んでいた。絵本や、料理の本の間に、なぜか「夫とはできないこと」などと、ちょっと意味深なタイトルの小さな本が隠れるように挟まっている。みちこさんの女友達が置いていったのだと言う。今までも、今日みたいなときちょっとの間それを見る。女性の著者が、女性に聞いた不倫の話がいろいろ書いてある本だ。ふんふん、なるほど、そんなものか、と女性に対する考え方が変わったりする。ついでにちょっと鼻の下を伸ばしたりもしている。
「名前は忘れたけど、女の人が言ってたわよ」
「んだ。女の子はやっぱ、上品でなぐっちゃ」
本の中の世界とはまるで正反対の、女性の品格の話に、ついチャカす。
「ここの人はことば悪いから」
みちこさんの実家はせいぜいここから10キロあるかないかなのに、さも自分の生まれたところはきれいなことばのように言う。町村合併前は違う町と市だったけれど、今は同じ市になってさえいるのに。
「そうだよなあ、ほんと、ここ来たころは、あれ、女が喧嘩してる、って、よく振り返ったもんな。見たらにこにこ笑って話してるんだから。それが喧嘩に聞こえるんだからな」
関西からここに来たころは、いつも怒られてる気がしたものだ。
「慣れは怖いね。あっという間に振り返んなくなったものな。ということは実家帰ったとき振り返られたりしてて」
「そんなことないわよ、ことば、丁寧よ」
「そうかなあ。仕事辞めたときに、丁寧なことばも止めることにしたのになあ」
みちこさんは「え」どうして、という顔で、私を見る。
「敬語って、人間の上下関係をはっきりさせるためのものだろ」とそれに答える。
みちこさんは次を待っている。普段おしゃべりなのだが、聞くときはよく聞く人なのだ。
「それはまあ社会ってそんなもんだろうからしかたないけど。丁寧な言葉で話すってことはお互いの関係は仕事の関係ですよ、という宣言の気がするんだ。友達に敬語なんか使ってみな、あっという間にはずされるよ」
「そりゃそうね。上品になんか話されたら気持ち悪くなるわ」
「仲良くなるほど、言葉ひどくなるだろ。丁寧に話すってことは、私たちは友達づきあいじゃありません他人行儀な付き合いだけです、ってことだから。だから、仕事の付き合いはよして、人間の付き合いをしようってことで、丁寧なことばよしたんだ」
「そうよね、丁寧だからいいってことじゃないわね」
みちこさんは、初めての客に説明するときくらいにしか、です、ますで話さない。後はもう、方言丸出しのおばさんことばだ。
「んだ。こんな山ん中で品格やってたら客来なくなっちゃうよ」
「でも、客層が、一段アップしたりしたらいいわね」とニコニコ言う。
「そうなったら、おれたち、年金おじさんは来れないな」
「そうよ、そのときはコーヒー500円にして、ケーキセットも1000円にアップね」
「大変だセレブしかこれなくなっちゃう」
「この前、ひろこさんとドライブして入った喫茶店、コーヒー880円よ。びっくりして、出ようかって思ったけど、入っちゃったからね、って、仕方ないからコーヒー飲んできたけど、銀座だったらわかるけど、ここより山の中よ」
「そいつはすごいな」
「うちだと、コーヒーにケーキプレートがつく値段よ。そりゃ、中はゴージャスで、きれいな若い女の子も何人かいたわよ、でも、後から来た人が頼んだケーキが・・・」
とひとしきりその店の悪口を言う。それから先はみちこさんの独壇場だ。
私は適当に聞き流しながら続きを考える。
(美しい国が、なんだか胡散臭いのは、外面や、体裁ばかり飾って、本音の言えない世の中がまた来るような気がするからなのだろう。品格などといったって、どうせ道徳と地位の上下でがんじがらめにして、したいこともできず、いいたいこともいえない世界にしようとしているような気がするからなのだろう。女にそうなれということは、男もそうされるということなのだ。
私が生まれる少し前まで日本はそういう国だったと父がよくいっていた。またそういう国に戻そうとしている人たちがいるのかもしれない)
みちこさんは、話し続けている。
まあ、みちこさんの喫茶店はしばらくは品格とは無縁のようだ。だから、まだまだお茶飲みに来れそうだ。