百家争鳴


 秋も深まったというのに、紅葉狩りにも行けない人たちが、みちこさんの喫茶店に集まっている。忙しい人もいるにはいるが、大概は、もう遠くへ出かけるよりは近くでごろごろしているほうがいい、という人たちだ。だから口ばっかり達者になる。

 

「先生のせいにしているけど、いじめた子が悪いのよ」

と、みちこさんが憤慨している。

「そうですよ。親がちゃんと教えないから、子どもがおかしくなるんですよ」

 明さんが言う。

「家の孫も箸の持ち方ができないんですよ。嫁が教えてない。下の子は私が教えたらすぐできるようになりましたよ。教えてやればできるんだから、教えればいいと思ますね。今の親は、人を思いやることの大切さを教えなくなったから、こどもがいじめをするようになったんですよ」

 明さんは、息子の奥さんのやり方に時折不満を漏らす。

「そうですよね。昔の人は、そういうことはちゃんと教えていたものですけれどね。今は教える母親が知らないから教えられないんですよね」

 桂子さんが言う。桂子さんは遠くから車で来るので、時折しか顔を出さない。車で飛び歩くのがすきなのは、中年女性のパワーがまだ持続しているのかもしれない。

「親がしっかりしつけてないからいじめが起こるのに、それを先生のせいにして、先生がかわいそうよ」

 みちこさんがもういちど先生の弁護をする。みちこさんの子どもは中学校の先生をしている。

「息子が両手に荷物を持って廊下を歩いていたら、生徒が胸をこうやって掴んだんだって」

と、胸倉を掴むしぐさをする。みちこさんは身振り手振りで話すので舞台に立っているようだ。

「だから、足で防いだら、殴りかかろうとしたので、荷物を置いて身構えたんだって。ほかの先生が止めに入ったのでそれ以上にはならなかったらしいけど。その子が教室に入ったら、ほかの子たちが、殴られたか、殴られたら、やり用があるからな、って笑いながら話してるんだって。そんな子どもを教えてるのよ。先生がかわいそうよ」

「大変だなあ。おれが中学生のときもいたな。何人かでグループ作って。一度、金貸してくれって脅されたことあった。先生もてこずってたんじゃないかな。ところが、その子が、卒業式の日にワンワン泣いてた。すごく変な気がしたな」

と私。

「そういうのって、ほんの一握り、ちょこっとしかいないんだよ。ほとんどの子は普通でまっとうだよ」

 朝吉さんが言う。

「やるほうも悪いけど、それくらいで自殺するのも弱すぎると思う。いじめにあっても自殺しない子もたくさんいるんだから」

 平沢義男さんが言う。

「今の子は甘やかされて育てられているから、耐えるということができなくなっていますからね。いじめも、自殺もその両輪じゃないですかね。甘やかされているから、わがままで、人を思いやる心が育っていない。方や耐える心が育っていない」

と明さんが応じる。

「いじめられる側にもそれなりの原因があると思いますね」

義男さんが言う。

「いや、それは酷だと思う。被害者は悪くない。泥棒に入られたのは、鍵をかけなかった人が悪いという論だ。気が弱いからとか、何かが人と違っているからとかいうことで、いじめられて当然ということにはならない」

 朝吉さんがちょっと強い口調で言う。

「そのとおりです」

義男さんがあっさり引く。彼はあまりここにはなじみでないので、遠慮しているのだろう。

「問題は、学力学力と騒いでる間に、人間教育を忘れてしまったことじゃないのかな。教育の目的は人格の形成ということが、教育基本法にも書いてあるといいますよ」朝吉さん得意の薀蓄が出た。

「そうです。それはもう20年以上前から、道徳教育の重視ということで先生方もがんばってきていますよ」

 義男さんが言う。

「いや、道徳と、人格形成は違うでしょう」

朝吉さんは薀蓄家だけあって、なかなかほかの人の意見には同意しない。

難しくなって、なんとなく話が二人になってしまう。

「違いますか」

今度は義男さんも下がらない。

「違いますね。人格はオールラウンドなものです。道徳はその一部の今流行の品格の話です。きれい事です」

 朝吉さん。

「そんなことはないですよ。人間の善い心を伸ばすのが道徳教育ですから、大切なことだと思いますが」

義男さんは余裕がある。

「その善い心というのが、人間の善いも悪いもない部分の生活を無視しているから、上滑りになるんじゃないのかな。人は、ふつう善し悪しで生きているんじゃないから」

「そうです。だからこそ、普段考えずに見過ごしている善し悪しの部分に子どもたちの目を向けさせて、伸ばしていくのが道徳教育なのです」

と義男さんは教えるように言う。

 ここではあまり仕事のことを聞かないからわからないが、彼は先生をしていたのかもしれない。 

「そうかな。私は、学力という、人間の生産の部分と、道徳という人間の善の部分という、人間の社会的な価値だけに目を向けて、子どもたちが今幸福に生活しているか、喜びに満ちているかという社会的な価値ではない、個人の部分が無視されているからこそ、こういう問題が起こってきていると思うな」

朝吉さんは本領発揮というところだ。いつも私たちだけでは話すにたらぬという顔をしているので、いい話し相手とばかり、難しいことを言う。

「楽しいからやる、ということが、いじめは楽しいからやるにつながらないですか」と相変わらず丁寧な言葉で義男さんが反論する。

「いや違うと思うね。いじめる子は、いじめる理由をもってる。ふつう、人は、楽しい顔を見ると楽しいし、苦しい顔を見ると嫌なものです。苦しむのを見て楽しいと感じるのは、その子が、大きなストレスの中にいて、楽しい人生を送っていないからです。ドラマでは、甘やかされたりして、わがままになった子がすごいかっこいい説教されたり、バチンと殴られたりして、はあっと目が覚めたりしているけど、あんなのは嘘だよ。現実の荒れてる子は、生まれたときから、ああだこうだ厳しくしつけられたり、親の喧嘩を毎日見させられたり、親の暴力にさらされていたりしていやな目ばっかりあわされてきてるんだよ。優しい言葉の代わりに、注意や、命令や、怒鳴り声だし、抱きしめる代わりに拳骨をもらって暮らしてきた子だよ。そんな子は、多分小学校からずっと先生の説教毎日聞かされてるし、時にははたかれたりしてきてるから、親のと合わせて拳骨なんておそらく千回は超えてるんじゃない。いまさら、誰かに殴られたり説教されたりしたって、はい分かりましたなんてなるわけないよ。はい分かりました、なんて言ってる腹の中は、今はお前が強い。だからいうことを聞く。しかしいつかおれが強くなったら見てろ、って思ってるよ。だから自分より弱い者がいると、その子にうっぷんをはらすんだよ」

 義男さんは少し考えている。そこで私が言う。

「いじめも自殺も、昔からあったよ。2,3日前の新聞にここ数年の高校生以下の自殺件数が載ってたけど、どの年も変わらずいっぱいだよ。3日にひとりは自殺している計算になる。警察はそのうち3割くらいがいじめが原因だといっている。昔はいじめがなかったといっている人もいるけど、知らないだけだよ。現に去年100人以上の子どもが自殺していたなんて、新聞読むまで知らなかったもの」

「確かに昔から、いじめも自殺もいっぱいあったかもしれないよ。だからといって、問題がないことではないんじゃないかな」と、朝吉さん。

「それはそう。でも、新教育基本法が通ったら、この問題はマスコミから消えちゃうよ。代わりに、北朝鮮や、中国のことばっかりになって、危機を盛り上げて、憲法改定だよ」

と私。

「そうかな。もしそうとしてもいじめををどうすればいいかってことは残るんじゃないのかな」

と朝吉さん。

「まあな」とわたしは適当な答えをする。言っても始まらないことだと思う。

「いじめは良くないよとか、命は大切だよと口をすっぱくしていってもだめだと思う」と、朝吉さんは話を元に戻す。

「しかし、教えなければ子どもらは永久に分からないと思いませんか。誰かがちゃんと教えることがまず基本だと思いますよ。親ができなければ、先生がやるしかないんです。もともと、学校は、近代になって、いろんな技術や学問が発達して、親では教えられなくなったから、専門家が教えるというので、学校になったといわれています。どんな子も理解する力がありますから、教えられたら、分かると思いますよ」

と義男さんが言う。

「ふつうはそれでいいと思います。でも、それで分かる子は、最初からいじめないんじゃないかな。いじめが悪いとか、命は大切だとか、それくらいのことは小学生になればみんな知ってるよ。いじめは、分かってるからこそやってると思わない」と朝吉さん。

「いや、彼らはいじめだとは思ってないんじゃないかな。たんにふざけてるくらいにしか」

と義男さん。

「いい抜けでしょう。私はいじめてます、なんていったら怒られるの知ってるもの」

あっさりと朝吉さん。

「いや、人はそんなに自分の行動を知ってはいないものですよ」

義男さんはうなずかない。

「彼らは、はたかれたり、説教されたりして、人間らしい愛情の中で育ってきてないから、説教するのじゃなく、いっしょに遊んだり、話を聞いたりするのが一番と思うよ。仲良しになれば、胸倉掴んだりしないし。心も和んでいくと思うよ。彼らは愛情不足だから、愛情を注いでやれば自然と、心も溶けると思うよ」

と朝吉さん得意の愛情論が出た。

「そんなことないわよ」小さな声でみどりさんが言う。二人の勢いにちょっと遠慮しているのかも。

「そんな子ばかりじゃないわよ」

みどりさんは家庭内暴力をする子どもにてこずって、病院で長いあいだカウンセラーを受けていた。子どもを受け入れ、やさしく、愛情深く接するといいと医師に言われたことを実践している話をよくしていた。でもちっとも良くならないと言っていた。かえって暴れるって。

「優しくすると、付け込んでもっとひどいことをする子がいるのよ」

「そうかもしれない」

優しい言葉をかけると、ろくなことが起こらない家族を一人持っている私も言う。

 みどりさんの子どもは、卒業して、独りで東京に出て働き出したら、あっさり普通になったらしい。学校から出たからなのか、家を出たからなのか、それとも仕事をして未来が見えてきたからなのか、東京が楽しいからなのか、それともそれらすべてなのか、もっとほかのことが原因なのか、みどりさんは聞いて見ない。ほじくりかえさずに、そっとしているみたいだ。今みどりさんはとてもニコニコ顔で暮らしている。

「何かいっしょにやるといいわよ」

みどりさんが言う。彼女は実践派だ

「それは効果があります」

義男さんが言う。

「いっしょにやることで、自分が役立つ人間であるということが、必要な子がいます。勉強のできない子は、いつも劣等感の中にいます。子どもだって、出来ないということは、穴があったら入りたいくらい恥ずかしいことですからね。その上、勉強ができないことを罪悪のことのように言う先生もいます。将来まっとうな生活ができないとまでいう先生もいます。もちろん悪い意味はないんです、そうして、発破をかけて、勉強させようと思ってなのですよ。でも、結果として、出来ないという、劣等感の中にいる子に、未来は真っ暗気だぞという絶望を駄目押ししていることになります。そういう子らは荒れるしかないかもしれません。だから、そういう子らに、いっしょに何かやることで、今だけでも、何か役立つ自分というものを感じさせることはとても救いになると思います。未来もひょっとして何かやれるかも、と思わせられるかもしれませんしね」

「それは私も同感です」

と朝吉さんがわが意を得たりという顔で言う。

義男さんは続ける。

「福沢諭吉でしたか、天は人の上に人をつくらず、とか言ったけど、実際は天は人の上に人を作り人の下に人を作っています。人は、生まれながらに能力の違いがあります。先生の話なんか聞き流してて、100点取る子もいれば、一生懸命聞いているのに50点も取れない子もいます。生まれつきの差があります。勉強できなくても、運動できなくても、将来何とか幸福に生きていく道があるということを子どもたちに教えてやれれば救われる子もでてくると思うのですがね」

「学校はそうしないのですか」

と朝吉さん

「いや、現実は、競争こそすばらしい、という社会になってる。昔は必要悪だったんだがね。今は大手を振ってる。人のことなんかかまってられないってわけだ。みんなで仲良く助け合って、なんて完全にマスコミから消されてる」

と私。そして、話し合いは、わいわいがやがや、果てしなく続く。

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