みちこさんの喫茶店は今日も寂しい。私と、始めてみる50歳ぐらいの男の人と、みちこさんの三人きりだ。
ラジオが、小さな声で、春の甲子園大会を放送している。いつもは音楽番組なのだが、その男の人が頼んだのだ。知ってる学校がやっているんでね、ということだった。ラジオに耳を澄ましても、私の知らない名前の高校だった。
「茨城はどこが出てるの」
みちこさんがどちらにともなく聞いた。みちこさんは黙ってラジオを聴くなんて大の苦手なのだ。
「今年はだめだったんじゃないかな。多分出られなかったと思うよ」
男の人はラジオを聴いているようなので、私が答える。
「どうして」
「春は県1校じゃないんだ」
「あら、そうなの」
「そう、関東で2校代表とか、そんな決め方するみたい」
「私も昔出たことがあるんですよ」
突然、男が言った。
「すごいわねえ」
みちこさんがちょっと憧れの声を出す。
「そんなにすごくはないですよ」
男は笑いをにじませて答える。
「いや、すごいよ。どこ守ってたの」
甲子園に出た人を直接見るのは二人目だったから、私も興味を持って訊いた。
「ショート」
「難しいとこだ」
「そうね。アウトにできてあたりまえのところだから」
男は半分ラジオに耳を傾けながら言う。
「そうだよな。なにやってんだダブルプレーだろ、ってつい思っちゃうもんな」
少し大げさに言う。
「そうですよ。みんなそう見てるから、失敗できないプレッシャーはいつもありましたね。でも、見せ場はあるし、やりがいはあったね」
「守りの要だもんね。強かったの」
あんまり野球に詳しくない私は、違うことを尋ねる。
「だめだったね」
「そうなんだ」
「弱小県だから」
「ここじゃないんだ」
「鳥取」
「遠いんだ」
「遠いですね」
男は懐かしそうに言った。
「生まれは東京なんだけどね。今でいう、野球留学」
「それにしても遠いところを選んだね」
「本当は東京がよかったんだけどね。どこからも声がかからなかったから。それに、入れたとしても、レギュラーにはなれそうになかったし」
「そうか。そういうこともあるんだ」
「鳥取だとね、何とかなりそうだったから。おかげでレギュラーにもなれたし、甲子園にも出られた」
「よかったじゃない」
「まあね、そこまでは。本当は、プロを目指してたから、その次が肝心だったのに、どこからも声がかからなかった。まあ、甲子園に出ても1回戦敗退じゃ、そんなものだから」
「そうなんだ」
「プロ目指してる人間は五万といるから。それでもあきらめなかったのは、若かったのかな。野球以外考えても見なかったなあ」
男はやはり懐かしそうに言う。
「テスト受けて、二軍に入ったんだけど、けっきょく鳴かず飛ばずでね。それでも、一度一軍のベンチに入ったんですよ。怪我人が続出してね。そうでもなきゃ、ずっと二軍のままだったでしょうね。代打で出るでしょ。すると、金がもらえるんですよ。ヒットを打つと、またもらえる。二軍じゃ食ってけなかったから、それもありがたかったなあ」
「そうなんだ」
「でも、休んでいた選手の怪我が治ったらおしまい」
「そうなんだ」
私は、そうなんだくらいしかいえない。
「厳しいもんですよ。ボールも、1軍のお下がりでぼろぼろでね。破れたら自分らで縫うんですよ。グランドも自分たちで整備するし。草とりなんかうまいものだよ。そのうえ、バイトもしなけりゃならないし。結構忙しいんですよ」
「へえ、大変なんだなあ」
「それでも今に比べたら、天国だね。厳しいのも夢のうちだったから」
「そうですね」
私はとんちんかんな相槌を打つ。夢らしい夢など一度も本気で追いかけたことがない私には、そのことは中途半端にしか分からない。わたしはポットから、残りの紅茶を注ぐ。もう湯気も立たない。
「2軍もお払い箱になって、さて、と考えたら、ほかになんにもできることがないんですよね。子どものときから野球しかやってこなかったから」
そしてちょっと考える。
「がんばれば、夢は必ず実現し、金は後からついてくるなんて。呑気なものです」
わたしはなんと答えていいいかわからない。
「それでも食ってくっきゃないからね。さて、おあいそ」
その、おあいそということばが、すごく板についていた。仕事の後、ちょっと寄る屋台でいつも言っているのだろうか。
男の開けたドアから、冷たい風が入ってくる。桜の便りが聞こえるのに、このところ冬に戻ったような日が続いている。
「厳しいね」
男が出て行った後、みちこさんに言う。
「おれなんか夢もなんにもなくて、公務員やってたもんね」
「それでいいのよ」
「何してる人だろうね」
「何かの営業よ」
「良くわかるね」
「このあたりの人じゃないのに歩きで来たから。ああいう人って、何人か車で乗り合わせてきて、降ろされて、後は歩きで営業して回るのよ。売ってるのは詐欺まがいのが多いのよ」
話しながら、みちこさんはラジオを変える。
「今日は曇ってるし、寒いし、サボってたのよ。あら、尾崎豊。昔好きだったの」
ラジオのボリュームを少し上げる。
「ふうん」
私はみちこさんの観察力に感心する。尾崎豊は名前しか知らない。
「夢の果てだね」
「私も、ここが夢の果て」
「そうか」
私は今日は何でも納得する。
「でもいいんじゃない、店持ってるんだから」
「食べていけないもの」
「そうだよな。客来ないものな。おれなんか紅茶だけで2時間も粘ってるのに、そのあいだにあの人一人だもんな」
「大きな夢じゃないのよ、ただ、普通に幸せな家庭を持ちたかっただけなのよ」
「だれもそうなんだよな。だけどそれが難しい。当たったやつは幸運だね。やり方わからないし、誰も教えてくれないから自分で考えるしかないし、みんな心持ってるからすぐごちゃごちゃになるし、まあ、うまくいかないのが普通と思ってればあきらめもつくかも」
「あきらめてる?」
みちこさんが訊く。
「セラビっていうんだって」
私は逃げを打つ。
「それって何」
「フランス語で、こんなもんさ人生って、って意味。学生のころはやってた」
「ふうん」
みちこさんの耳は半分音楽の中。
「アイラブユー」
甘い声が哀しみを歌っている。