病院というところは、私のように怠惰な人間にはもってこいのところかもしれない。とにかく何にもやらなくていい。やることは、運ばれてくる食事を食べることと、歯磨きくらいしかない。動けるあいだは、自分で風呂に入るが、動けなくなると体までふいてくれる。まあ、2時間ぐらいはリハビリということで少し運動をしなければならないが。といっても、リハビリだから、少し手足を動かすくらいで、運動など名ばかりで、犬と散歩に出かけたほうがよほど汗をかく。
「退院が決まった」
朝、医師が回ってきた後、私より1週間早く同じ手術をした同室のおじさんが私のベッドの脇に来て言う。
「良かったなあ」
とベッドに寝たままで私は答える。可動式のベッドを半分ほど上げてあるので、話すには不自由はない。私は、まだ、起きると痛みが増すので、必要なとき以外は大概そうやっている。看護士の人は、優しい声で「動かなきゃだめよ」と言ってくれるのだが、起き上がってもすぐに寝てしまう。とにかく痛くて、疲れる。
「いつ」
「来週の金曜か土曜」
「あと1週間じゃない。いいなあ」
あんまり本気の「いいなあ」ではない。半分義理人情の世界だ。
「でもなあ、退院したら、ひとりでやらなきゃならないからなあ」
かなり心細そうに言う。
「大丈夫だよ。もうしっかり歩けてるから何とかなるよ」
そうは言ったけれど、かれの歩き方はかなりおぼつかないのだ。
彼は50歳くらいだけれど、見舞いに来たのは、友達と、会社の人だけだから奥さんも子どももいないようだ。だから聞くのは悪い気がして家族のことは聞かなかった。そういえば、この病室には、入れ替わった人も含めて、私以外に五人の人が入ったが、奥さんは一人も来なかった。学生さんが一人いたが、そのひとも、母親は一度も来なかった。退院のときも、父親だけが迎えに来ていた。私が入院して二日めに退院した30代くらいの人も、父親らしい人だけが迎えに来ていた。奥さんが来たのは私のところだけだ。私が一番恵まれた生活をしているのかもしれない。
「ここは段差がないから歩けるけど、外だとどうだか。それに手がしびれてるし。これじゃ仕事にならない」
彼が言う。
「そうだよな。すぐ仕事となると大変だものな。しばらく家で療養したら」
「そうしたいけどなあ。会社に聞いてみないとわからないからなあ」
「そうだよなあ。なかなか休めないものな」
と、彼の意見に同調する。
「リハビリだと思ってやればいいんだよ。会社に相談して、少しずつやるようにすればいいんじゃない」
帰っても働く必要のない私は無責任なことを言う。
「銭湯がなあ。滑りそうだし、つかまるところもないし、怖いんだよ」
私は主に手のほうに症状が出ていが、彼の場合は、足もかなり弱っていたらしいので、歩くのが不安なのだろう。
「一人でやるのは大変だよな」
「友達が見に来てくれるとは言うのだけど」
「何とかなるよ」
「ああ」
なんとも頼りない。彼は、のそのそ自分のベッドに戻っていく。すたすたは歩けないみたいだけれど、手術をしたのでそれ以上は悪化しないはずだから何とかはなるだろう。
「いや、そのとき、おれなんか帰ったら二人ぶんだよ、って言いそうになったよ」と私はみちこさんと明さんににニコニコ言った。
「飯作ってくれたの帰った日だけだもんね。次の日はもう俺が作ってたよ」
「私なら上げ膳据え膳で世話してあげるのに」
「だよな。でも、だんなさんの手術のときは子どもに行かせた」
「そうよ。捨てたのよ」
「世話好きな人にはだんながいなくて、世話嫌いな人にはだんながいる。世の中うまくいかないもんだ。ま、一日だけでも、飯作って、背中流してくれたことに感謝すべきかな」
「そうやってあきらめるからだめなのよ。バシッと言わないから、奥さんが増長して何にもしなくなるのよ」
みちこさんが言う。
「そんなことないですよ」
かかあ天下の明さんが言う。
「だよな。バシッとやるだんな持ってた人がいるよ」
と私。
「そうよ。捨てたのよ」
「たぶん、世の中の夫婦は、亭主関白が4分の1、かかあ天下が4分の1、民主主義が4分の1、不可侵条約が4分の1、そんなところじゃないですか。」
明さんが言う。
「なるほど。でも破綻が抜けてない。同室の人に、奥さんとか母親とか一人も見舞いに来なかったよ」
私は病院のことを思う。
「どういうこと」
みちこさんが聞いた。
「いや、みんな奥さんいないのかなって思ったの」
「そんなことないわよ。女の人は忙しくていけないのよ」
「入院してるのに。かなり白状じゃない。うちでさえ何回か来たよ。破綻だよ」
「そうかもね。女も強くなったのよ」
みちこさんが言う。
「遠いのにようすを見には来るし、帰ったら、一日だけど、御飯は作ってくれたし、背中は流してくれたし、うちは恵まれてるほうだね」
と私は言う。
「ああ、そんなだからだめなのよ」
みちこさんはやはりあきれてる。