祭りの一番遠い記憶は、母に抱かれていた。実際は記憶があるのだから、もう歩けるくらいにはなっていたとは思うのだが抱かれていた。ほの暗いやぐらの周りに、暗い家並みから、一群れの人たちが踊りながら出てきて、やぐらの周りを回っては、また、路地に消えていった。ただ暗かったという印象が残っている。考えると、それから、もう、五十五、六年は過ぎている。
その踊りは阿波踊りだ。あの、両手を挙げてゆらゆら踊る様は、今、テレビなどで見ると、明るく、陽気で、にぎやかな踊りだが、記憶のなかではまるで反対で、寂しげにたゆたっている。冥府からよみがえってきた人々がさまよっているようなのだ。私が歳をとってしまったからなのか、あまりにも小さかったから記憶の間違いなのか、それともあの時代が、まだまだ戦争を引きずっていたからなのか、今は聞く人もないので確かめようもない。
八月の第一金曜日から、日曜日にかけて、毎年、水戸市で行われる、水戸黄門祭りの二日めで踊った。
黄門祭りも、四十年位前に見たのと、すっかり様変わりしている。昔は、山車の上で、女の人たちが並んで太鼓をたたいているのがほとんどだったが、今は、いろんなところからやってきた人たちがてんでに好きな踊りを踊っている。ホークダンスもあれば、ハワイアン、カーニバル、ヨサコイもある。ヨサコイははやりで、いくつもの団体が出ていた。優勝したチームもヨサコイだった。
去年の秋から、私たちのグループは、月二回集まっては練習している。最初は五十人ほどもいたのだが、あっという間に十人ぐらいになった。今は少し増えて、十四、五人だ。私たちだけでは人数が少ないので、隣の市(去年までは、お互い町だったんだけど)のグループに入れてもらった。総勢八十名を超えた。
祭りの踊りは、「ご機嫌水戸さん」と「黄門ばやし」いう曲だから、普段練習しているのとは違う踊りを即席で覚えた。二回の合同練習の後、即本番だ。いくら簡単だといっても、たった二回でみんなの前で踊るのはちょとだけど勇気がいる。しかし、八十人の中の一人だし、踊りは、全部で四千人を超えるというから、その他大勢になるので、まあ、誰も見てやしないだろうと少しは気楽に出かけた。考えれば、入試ではないので、間違ったところでどうってことないのだから、どきどきしなくてもいいのだが、やはり初めてとなると、そうもいかないみたいだ。だけど、この年になってどきどきするのもいいものだ。どきどきすることなんてなくなったから。
踊り初めは、次はどうやるんだったっけ、と考え考えぎこちなく踊っていたのだが、すぐそんなことも忘れて、まちがおうが平気になって、ワッサ、ワッサ踊った。でも、鳴子の音も掛け声も、室内では響き渡っていたのに、空に吸い込まれてしょぼしょぼだ。
途中で、ちょいと、露天の生ビールなど飲んで、踊った。延々4時間。よく踊ったものだ。最後のほうは、もうはねられなくて、足は、ほとんど歩きになってはいたけど。
いざ踊りだすと、祭りは楽しいものなのだ。特に、ヨサコイは新しい踊りだから、激しく、楽しく、かっこよく、である。日本中ヨサコイソウランになっては、伝統も個性も消えてつまらなくなるだろうと思っていたのだが、いざやってみるとそんなことはない。それが誰にも止めようのない時の流れというものなのだろう。
帰りの電車で、「祭りはやっぱり、踊らないとね」といっしょに踊ったおばさんが言っていた。阿波踊りでいえば「踊る阿呆に観る阿呆、同じあほなら踊らにゃそんそん」である。
あの、記憶の中の阿波踊りの人たちも、きっとそうだったのだろう。戦争で亡くなったたくさんの身近な人たちを迎える盆踊りでも、男たちにとっては、もう今日も明日も殺しあわなくてすむということは、女や子どもたちにとってももう頭の上に爆弾が落ちてこないということは、何はなくても大きな幸福であっただろうから。そう、きっと、冥府からやってきた人たちといっしょになって、夢中で楽しんでいたのだろう。