木枯らし

 

 空っ風が赤茶けた杉林や、裸の栗畑や、寒さで縮こまった集落の間で一日中酒盛りをしている。老人たちは、畑仕事も、犬の散歩もお休みで、みんな家の中でコタツに丸まっている。

 でも、みちこさんの喫茶店は暖かくて、行き場のない年金おじさんたちには格好の避難場所だ。だからその日の客は、初老に片足を突っ込んでいる、私と、亀田さんと、両足をどっぷり浸している川村さんの、三人の男だけだった。そんなふうに平日の午後に喫茶店で暇つぶしをしていられるのは、なんとか無事リタイヤできた者のささやかな特権なのかもしれない。

 

 「もう少しお金があったら、スナックに行ってるでしょ」とみちこさんが言った。

「みちこさんに会いに来るんだよ。金もないけど」

 金もないけどだけ小さな声で言って亀田さんが笑いながらみんなに同意を求める。

「そうだよ。きれいなみちこさんを見に来るんだよ」と私も笑った。

 みちこさんはなんでも平気で言う。そういう男たちが来る、はやらない喫茶店をひとりでやっていて、自分も貧乏だから言えるのだろう。

「子供のころから貧乏だったから平気なの」彼女はいつもめげない。

 

「怖い話があるの」とみちこさんが話し出した。 

「三日前の夜、裏の人が犬の散歩に出たらそこの生垣の影に男の人がいたって言うの。その日は、ただ人が通りかかっただけだと思ったそうよ。次の日もまた犬が吼えるので見たら、やっぱり立ってたんだって。あなたのうちを伺っているようだったわよ、心当たりあるって訊くの。怖くなっちゃった」

「へえ、なんだろ。最近このあたりも物騒になったからね」

と私が言った。

「よく考えたら、たぶんあの人よ」

「ご主人」

 朝吉さんが、ありがちだというように聞く。

「そう。だと思う」

「いまになって」

 朝吉さんが言う

「2月ほど前に来たの」

「なんでまた」

「胃潰瘍で、入院するっていうのよ。もし手術するなら付き添いが要るというので付き添ってほしいって頼むのよ。でも、さんざん飲み歩いて、病気になったからといって付き添えって言うのはあまりに身勝手でしょ。いやだから息子を見に行かせたの」

「それが正解だったかもしれない」

 朝吉さんが言う。

「そしたら、退院した後電話かけて来たのよ」

「どうして。治ったって報告」

 朝吉さんが聞く。

「戻って面倒みて欲しいって言うのよ」

「へえ、心細くなったんだ」

「そうみたい。飲んでないときは気が弱い人なの」

「もどるの」

「いやよ。もうごめんだわ」

「それがいい」

 朝吉さんが言う。

「すぐまた殴るからね。そういう人は自分より弱いと思ったら必ず殴るよ。支配していなければおさまらない人は、自分より弱いものを従わせるために必ず殴るよ。言うことを聞かないときだけじゃなく、力をみせつけるためにも殴るから」

 朝吉さんのいつもの薀蓄がでる。

「酔うと何するか分からない人なの」

 みちこさんは薀蓄どころではないみたいだ。酔ったときのひどさを何度も聞かされている三人は慰めの言葉が出ない。

「いまさらめんどうみろと言ってもなあ」

 わたしも言う。

「だから、立ってたのはあの人よ」

「どうして入ってこないの。やっぱり泥棒が様子を伺ってたりして」

 私はなんとなくチャカしてみる。

「調停で近づいてはだめなことに決まってるのよ。電話してきたとき、今度来たら警察に言うって言ってやったから、しらふじゃ入ってこれないのよ」

「じゃあ、ほっといていいんじゃない。車で来るんだろうから、いつもしらふで来るしかないからね。それに胃潰瘍じゃしばらく飲めないよ」

 と私は慰めにもならないことを言ってみる。

「夫婦だって、いつかどちらかが残って、残ったほうは一人暮らしなんだし、もしみちこさんが先に倒れたっておしめ取り替えてくれるわけないだろ」

 朝吉さんがわかったように言う。

「みてもらうなんて考えたこともないわ。あの人は自分の子どものおしめだって近寄れなかったのよ」

「うちもみてもらえないなあ」

 とつぜん、川村さんがため息のように言う。川村さんは、元気いっぱいな奥さんにいつも邪険にされている、とみんなの噂だ。そして、川村さんは、そのときまでもうそんなに間がないかもしれないのだ。私なんかより十五年は近いのだ。

「大丈夫だよ。いざというときは看てくれるよ」

朝吉さんが慰める。

「さて、買い物だ」

わたしは席を立つ。

「今日は何を作るの」

みちこさんが聞く。

「みてから決める」

「私も帰ろう」

 川村さんも席を立った。

 

 外はもう日が落ちていた。あんなに大騒ぎしていた空っ風どもも酔いつぶれたのか、宵闇が静まり返って凍り付いていた。

 川村さんは、生垣の向こうをすかしてみてから、寒そうに背を丸めてとぼとぼ歩きだす。

「乗ってく」

 私は声をかける。

「いや、そこだから」

 片手をちょっと挙げたけど、振り返らない。わたしはその背から生垣の陰に目を移す。しかし、そこは店の明かりも届かないただの暗闇だけだった。

 凍てつく夜、どんな気持ちで立っていたのだろう、と私はその見知らぬ男のことを思った。

 スーパーマーケットに車を走らせながら、なるようにしかならないのだから、と思う。そう思えるだけまだましか、と。


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