子守唄
「裸にされてほうりだされたのよ。お前なんか出て行けってね」
みち子さんが話している。
「裸って、まさか、本当の裸。着の身着のままっていうことじゃなくて」
亀田さんが。ちょっと鼻の下を伸ばした顔で聞く。
「そうよ。恥ずかしくて、入れて入れてって、必死でサッシ叩いたわよ。24のときよ」
「それって変な趣味の人みたい」
みどりさんが言う。
「そうだわ、SM趣味の人たちは楽しみでやってるんだろうからいいけど。喧嘩でやるってのはちょっとなあ」
亀田さんも言う。
「家に入って、しっかり、服を着てから、お前なんか殺してやるって包丁突きつけたのよ」
「わあ」
みどりさんが言う。
「息子がね、お母さんやめて、やめてってすがったの。息子が止めなかったら本当に刺してたかもしれない」
みどりさんも亀田さんも返す言葉が出ない。
「息子がいまだに言うのよ。僕はあのとき、とにかく止めなきゃって必死だったって。どうしようどうしようってすごく怖かったのを今でも覚えてるって。あの子が4歳のときよ」
「だからね、わたしには息子しかなかったの」
「毎日殴るけるの喧嘩でしょ。それで、いつも息子を抱きしめてたの」
「そうだよな。そうでなきゃ、生きていけないもんな」
亀田さんが言う。
「私がそんな風に溺愛したから、あの子だめになったの」
みちこさんは、息子のことを、優しいけれど、気が弱くて、人付き合いが苦手で、仕事で苦労していると、いつも心配している。
「そうかなあ」
亀田さんが、考え考え言う。そして、
「母の愛が、子どもをだめにするなんてよく言われるけど、そんなの嘘だよ」
と続ける。
「ほら、よく、甘やかしたら子どもがだめになるなんて言ってる、どこかの児童相談所の所長なんて人いるだろ。あの人たちは、子育てしたことないよ。自分の子にミルクやったこともないし、いっしょに遊んだこともないし、オムツなんか絶対換えたことない人だよ。オムツ換えたことある父ちゃんは絶対そんなこと言わないから。子どもを愛したことがないからそういうんだよ」
「そう」
みちこさんの顔は、あまり信じていない顔だ。
「愛情で育てられた子は、やさしくて、明るくて、何事にも前向きな子に育つの。厳しくしつけられた子は、人を信じなくって、人の腹探って生きていく子になるの」
亀田さんは、一生懸命説得する。
「そう」
みちこさんは少し信じた顔になる。
「そうだよ。俺は、みちこさんがしっかり抱きしめたから、息子さんがぐれなかったんだと思う。だから、優しくて、まじめなんだよきっと。気が弱くて、人付き合いが下手なのは、父親の優しさが足りなかったせいだよ」
「子どもが生まれてきて、最初に会うのが母親だろ。子どもにとっての社会の第一歩なんだ。母親が愛情深く育てると、赤ん坊も、人間ていいもんなんだと思うんだ。すると人間を愛する心や、信頼する心が育っていくわけ。その次が父親。社会の第2歩め。ここも同じ。愛情深く育てると、やっぱり、人間に対する愛情が育つわけ。すると、人っていいもんだと思っているし、人を愛する心が育っているから、しり込みしないで、堂々と人と付き合うことができる人間になっていけるの。ところが父親が厳しいと、人を怖がるようになってしまうんだ。特に父親は、子どもが、一般社会へ出て行くときの扉だから、社会の人とどう向き合うかという姿勢がここで決まってしまうの。子ともは小さくて父親は大きいだろ。父親が厳しいと、社会もそんなふうに、でかくて、厳しくて、愛せないものだと思うわけ。だから、しり込みしたり、拒否したりしてしまうわけ」
「なんだか難しいみたい」
みち子さんが言う。
「難しくてもそうなの」
亀田さんは、やっぱり断定的に言う。なんとしても慰めてやるという顔だ。
「特に、親の喧嘩や暴力は、子どもを暗くて、不安で、惨めで、とことん落とし込んじゃうの。一番愛と信頼と安心が必要なところがそれじゃ、子どもの心がねじ曲がっちゃうの。おれは、みちこさんが抱きしめて育てたことが、息子さんを救ったんだと思う、ぜったい。救われたのは、みちこさんだけじゃないと思う」
みちこさんは黙っている。みどりさんも黙っている。亀田さんも、なんだか、意気込みすぎて、まずいこと言ったかなという顔をしている。
少しして、みどりさんが、ちいさく「私もそう思う」と言った。少しして、もっと小さく、「そうだったの」と亀田さんに聞いた。