住み家
日曜市で柿の苗木を買った。とても小さくて、幹はひょろひょろで、焼き鳥の竹串くらいしかない。それが、小さな鉢に5本植わっている。冬枯れで葉がないので、よけい頼りない。
姫柿という観賞用の柿の木だそうだ。大きくなると指先ほどの小さな実が鈴なりになるという。
「桃栗3年だね」と、私が言うと、店のおじいさんが、「お兄さんはまだ若いから、十分間に合うよ。私なんかもうだめだけどね」と言う。でも、顔には、まだまだ、と書いてある。
「うまくいってもあと7年?」ときくと。
「肥料をどんどんやって、大きくしちゃうんだよ」と笑う。
私も、いつの間にか、実が見られるかどうかが話題にできる歳になっている。私の顔にも、同じように、まだまだ、と書いてあるのだろうけど。
家を建てて、庭に木を植えてから、もう30年に近くなる。一年じゅう花が咲くようにと、花の咲く木をいっぱい植えた。そのころもお金がなかったから、みんな割りばしのような細い苗木ばかりだった。
それでも、そのとき20センチほどだった椿も、いまはしっかり生垣になっている。太いのは太ももほどになっている。梅も、石楠花も毎年きれいに咲く。
どれもほとんど手を入れないから、庭じゅうがさ薮みたいになってしまっている。なかでも、木瓜は、とげが痛いので一度も切ったことがないから、数十本の細い茎が群がって軒を越えるほどの高さにまでなっている。
「少し切らなくちゃ」と、妻が時々言うけれど、とげを思うと、もぐりこむ気がしない。
その木瓜には、葉が落ちる秋の終わりころから、春の半ばまで、夕方になると、たくさんのすずめがやってくる。とげだらけの細い枝の間は、猫やほかの天敵から身を守るのには最適なのだろう。冷たい風の中で、いくつもの丸い影法師になってゆれている。
そのためか、花は下の方にしか咲かない。この枝に一面花が咲けばきれいだろうと思うのだが、まだそうなったためしはない。すずめを追えばいいのだろうけど、かえって、飼っているインコの餌をおすそ分けしてやったりしている。
いちばん大きくなったのは桜の木だ。平安糸枝垂れという名前に惹かれて植えた。
この桜も、菜ばし程度だったのが、今でははるかに見あげる大きさになった。染井吉野より濃い、八重の花が咲く。八重といっても、盛り上がって咲くぼたん桜のような、これでもかという艶やかさではない。小ぶりで、静かな花だ。細く長く枝垂れる枝に花を一面につけ、風にやわらかく揺れているのを見ると、なるほど名前どおりだなあと思う。
葉桜の頃もまたいい。庭に大きな傘をかぶせたようになり、風が緑に染まる。
ところが、これが困りものになっている。大きくなりすぎた。屋根にかかって、落ち葉が雨どいに詰まって、雨水が流れなくなっている。
以前、この木を売ってほしい、といってきた植木屋が、「これじゃ、そのうち家が腐ってしまうよ」と言った、と妻が言っていたことがある。そのときより一段と大きくなっている。
これ以上大きくなられると困るのだが、剪定するにも大きくなりすぎていて、私の力で何とかなるようには思えない。
この木を植えたときは、子供らがまだ生まれていなかった。それが、いまは、二人とも、東京へ出て働いているのだから、大きくなってあたりまえだ。
私が、遠くから来て、ここにすみ家を構えたように、二人も、遠くで暮らしていくのだろうから、ここは一代限りだ。だから、家も私たちがいる間だけ持てばいいか、と居直ったりする。
「俺たちが死んで、百年たって、家もみんな朽ちたときに、この桜がひょっとして名所になってたりして」
と妻に言う。そのときには、姫柿も、秋空に朱色の実を輝かせているかもしれない。