「お客様は神様です」か?
先日床屋へ行った。隣で髪を切ってもらっていた人が、「ありがとうございました」と言って席を立った。床屋のお姉さんより明るくて、大きな声だ。「へえ」と、顔を見ようとしたのだが、私も散髪中だったので、まっすぐ前を見たままで我慢した。まあ、横を見ても、眼鏡をはずしていたので見えはしなかったろうけれど。座る前に見た髪は、ほとんど白髪だったので、おそらく私より年上なのだろう。
このまえ、「レシートにも気配りが必要」というタイトルで、朝日新聞の投書欄に次のようなことが載っていた。書いたのは七十歳の男の人である。
趣旨は、家計簿にレシートが欠かせないのだが、百貨店や、大手スーパーは別にして、近所の小さな店や、病院のレシートは、紙が小さくて読めないというのであった。そのうえ、レシートの内容が悪いという話の後に、「金を払った側が困惑するようなレシートが意外に多い」「我が家の場合、金銭の出し入れ記録にレシートは欠かせない。とりわけ記憶力や視力の減退著しい今では、こんなレシートは願い下げにしたい。レシート一片からさえ、それを発行するものの思考や態度をうかがい知ることができるといったら、大げさだろうか。」と結んであった。確かにレシート一片からいろいろなことが分かるかもしれない。
この種類の話はよく聞く。始発の電車に乗ろうと朝早く駅に行ったら、改札の窓口が閉まっていた。遅れないように早めに行ったのに、結局長くそこで待たされた。非常に嫌な思いをした、とかいう話も以前載っていた。
別に駅員の肩を持つわけではないが、どうせ乗る電車は同じなのだから、どこで待とうが同じだと、私なんかは思ってしまう。でも、その人は、「お客様」なのだから、しっかりサービスしろというのであろう。
1年ほどまえ、初めて行った四国の山間の小さな駅で、岡山までの行き方を尋ねたことがあった。そこの駅員がとても丁寧な言葉遣いで教えてくれた。その人も、白髪の方が多いくらいに交じっていて、定年間近を思わせた。多分同年輩の人だと思う。だから、なんとなくくすぐったいような変な気がしたものだ。普通に話してくれと言いたかったのだけれど、親切に教えてくれているのに、横槍を入れるのも変なのでありがたく聞いていた。それが、会社の方針なのだろうとそのときは思った。
それから1年経って、ひょっとしたら、それは四国という土地柄だったのかもしれないと思うようになった。その駅は、四国八十八箇所を回り終えた歩き遍路が、家に帰るために乗る駅のひとつである。駅員は、私の持っていた、遍路の支度を見たのだと思う。四国には、歩き遍路を、弘法大師の生まれ変わりのように思っている人が結構いるのである。その人は、お客ではなく、弘法大師に話していたのかもしれない。そんな気が今はしている。
それはさておき、客相手の仕事は、ことば遣いや、態度を大切にしているようである。私も、よくスーパーに行くが、大きなところほどこれが顕著であるように思う。レジの人も、中で働く人も、必ず丁寧に挨拶する。音楽などがかかっていていい雰囲気になっている。でも、客がレジの人に挨拶を返している声はあまり聞かない。
なぜ、客は、ほとんど挨拶しないのだろう。そんなの常識といってしまえばそれまでなのだけれど、少し考えてみようと思う。
ヒントのひとつは、「お客様は神様です」ということばにある。もうずいぶんと前になるけれど、ある歌手が舞台の上で満面笑みをたたえて言っていた。この「神様」を考えてみようと思う。
先ほど書いたように、四国遍路に行ったことがあった。お寺におまいりするたびに、納経といって、納経帳とか、掛け軸にお寺の名前を書いてもらい、印をもらうのだが、そのときは、誰も、丁寧にお坊さんにお礼を言っていた。私ももちろんそうしていた。駅の観光スタンプではないので、お金を払うのだから、遍路の方がいわゆる「お客様」のはずである。スーパーとはまるで逆転している。しかし、これもあたりまえのことである。遍路は、お坊さんに挨拶しながら、その後ろにいる弘法大師や、仏さんにお礼を言っているのである。
お坊さんの後ろに神様がいたように、お客さんの後ろにも神様がいる。お金という名の神様だ。
やはりテレビで、「誠心誠意、『お客様』に満足いただけるラーメンを作っている」と言っていた。ところで、と私はへそ曲がりなことを考える。そのお客さんが、食べた後、お金を持っていないと言ったらどうするだろう。警察に突き出すだろうか。そうまでしなくても怒りだすんじゃないだろうか。
お金を持っていてこそ「お客様」なのである。
小さな店は、誰に命令されるわけでもないので、挨拶もサービスもほどほどになる。来る人が限られているから、金よりも人が前に出る。「お客様」ではなく、だれだれさんと名前が出るのである。したがって、挨拶もサービスもほどほどになる。利益や、便利より、人間が先に来る。
しかし、大きいところはそうではない。客に名前はない。「お客様」である。そのうえ、
いかにお金を儲けるかが経営者の全てだから、そのための方法をしっかり考える。それが、お客様サービスになる。しっかりした挨拶ができるようにしつけるのも、経営者の務めなのである。まあ、その結果、われわれは気持ちよく買い物ができるのだから、お客さんにとってはとてもいいことだ。でも働く人にとってはどうなんだろう。
テレビで凍み豆腐を作りを紹介していた。家族だけでやっている小さな店だ。
「今日はどれくらい冷えるでしょう」と、レポーターに聞かれて、「マイナス7度か8度ぐらいでしょう」と、さも凍み豆腐にはもってこいの夜だといわんばかりの満足そうな顔で答えていた。そして、その夜の中へ、切った豆腐を並べた箱をいくつも、いくつも運び出していた。
金を払っているんだから、私は偉いのだ。金をもらうお前は、一生懸命奉仕しろというのはどんなもんなんだろう。お金を持っている人のご機嫌取りのためにぺこぺこしなければならない社会というのはどんなものなのだろう。それが、昔から社会のやり方かも知れないけれど、本当にそれでいいのだろうか。
本当の神様は、凍てついた夜、冷たい豆腐を並べていく人ではないのだろうか。何時間もレジに立って働いている人ではないのだろうか。本当に人の幸福を支えているのはそういう人たちなのだから。
お金を払うのだからと、のけぞってサービスが悪いと威張っていると、金儲けがうまい人が、威張り散らす世の中になってしまはないだろうか。一生懸命働いているのに、もっとサービスしろと、自分や家族を犠牲にして、朝早くから真夜中まで働かなくてはならない世の中になってしまっているのは、「お客様は神様です」という言葉にも一因があるような気がする。
お礼を言わなければならないのは、「お客様」のほうではないのだろうか。あの、床屋の客のように。
で、私はといえば、「どうも」などと、なんともしまらない挨拶をして店を後にしたものだ。