W 光とともに歩め    

 (ファイマンの光時計の矛盾について)
昔は、夜道を歩くと、月が一緒について来たものです。もう、夜道をとことこ歩くということもなくなってしまったので、一緒についてくる月を見上げることもなくなりました。

 ファイマンという人は、光速度普遍の原理から考えると、光も、ちゃんと人についてきてくれるというのです。 

 

1 問題  光時計

 アメリカの物理学者ファイマンという人が、光時計というのを考え付きました。

 どんな時計かというと、まず上下に長い部屋です。どれだけ長いかというと、床から天井まで15万キロです。そうです、光が往復すると1秒かかります。
 床に鏡があります。天井に光源があります。この部屋が、観察者を乗せて横に動いています。
 この部屋の光が往復する様子を、部屋の中の人と外の人が観察します。
 何のための実験かというと、相対性理論でいわれている、動いているものは時間が遅れるということをわかりやすく確かめるためです。
 そこで実験です。もちろん思考実験です。したがって、今までも述べたように、実験者の主観どおりにことは起こります。現実にそのとおり起こるかどうかは実験できないのでわかりません。しかし、当然、実験者は本当にこのとおりの装置ができたら、このとおりに起こると思っています。思考実験には客観性がないので、ここのところが難しいところです。

 

 まず、この実験の紹介を本より引用します。
 最初に、天井の光源から光を真下に発射します。「部屋の中にいる人から見ると、光はまっすぐ下に降り、床の鏡で反射してまっすぐ真上に上る。同じことを部屋の外から見ると、光が天井から出て床に届くまでに部屋が運動しているので光は斜め下に運動して床に届き、そこで斜め上に反射されて天井に届くように見える。」
 したがって、「部屋の外にいる人にとって光が天井と床の間を往復する時間は、部屋の中の人が測る時間よりも長くなる。」「走っている人は時間が遅れる。」となるそうです。理由は、中の人には光はまっすぐ上下だから、30万キロの間を上下しているので1秒間で1往復になります。しかし箱の外の人には、光は斜めに動くので、往復すると、30万キロよりも長い距離になります。したがってかかる時間も1秒より長くなるということだそうです。
 なるほどなるほど、と言いたいのですが、どうも信じがたいので本当かどうか考えて見ます。なんせ、思考実験ですからね。誰がやったってただですから。

 

2 考察 

 (1) 疑問1

 光は、中の人といっしょに横に移動できるのでしょうか。もちろん、光速度普遍だからそうなる、といってしまえばそれっきりですがそこをあえて考えてみます。

ア 考察1 「部屋の中の人から見ると、光はまっすぐ下がり、まっすぐ上がる」のでしょうか。

 これは、走る列車の中でまっすぐ投げ上げたボールは、まっすぐ落ちて元の手に戻るというのとそっくりに見える現象です。

 外の人が見ると「光は斜め下に運動して床に届き、そこで斜め上に反射されて天井に届くように見える。」のでしょうか。

 やはり、このボールを列車の外から見ると、放物線を描いて飛んでいるのが見えるはずです。ボールは、実際に中の人とともに空中を横に移動しているのでそう見えます。いわゆるニュートンの慣性の法則を説明するときによく使われる例です。

 なぜか上の光の実験はこのボールと同じ現象です。違いは、外から見ると光はV時形の光跡を描くけれど、ボールは放物線を描くことぐらいです。光は等速運動だけど、ボールは引力によって加速運動をするから当然のことです。中の人の速度と同じ速度で横に動くという基本的な現象はまったく同じです。(詳しくは2章T)

イ 考察2 よくわかるように、一度だけではなく、何度も光を往復させてみます。

 これも、思考実験だから簡単に思ったとおりにゆきます。
 光時計の天井と、床に、百パーセント光を反射する鏡を置きます。光はいつまでもその鏡の間を往復しています。すると、こんな現象が起こります。
 光時計が、秒速百キロで東に進んでいると、光は、中の観測者にまっすぐ上下するのだから、光もやはり、上下しながら秒速百キロで東に進みます。秒速253キロで西北西に光時計が進むと、光も上下しながら、やはり秒速253キロで西北西に進んでいきます。ここまではまるっきりボールと同じ現象です。列車の中でまりつきをすると、新幹線でも、ローカル線でも同じようにまりつきができます。もちろん、上りの電車でも、下りの電車でも同じです。
 しかしここからは違います。光時計が、速度を変えたらどうなるのでしょうか。光時計が、カーブしたらどうなるのでしょうか。もちろん、光はそのまま上下しながらついて行きます。「何に対しても常に同じ速度を持つ」のですから。まるで、列車に乗ったお客さんのようです。いや、もっとおりこうさんです。列車が速度を変えたり、曲がったりすると、お客さんはよろめきます。ボールは、どこかへ飛んでいって元の手には落ちてきません。でも光は平気で列車についていきます。アインシュタインの光速度は普遍なのですからそうなるはずです。

ウ 考察3 理由を考えます

 慣性の法則を説明するまでもないのですが、ボールは、投げ上げられた瞬間の運動の方向と、エネルギーを保存します。しかし、そのあと、もう一度手に落ちてくるまでは列車や人はボールに触らないのでボールにひとつも影響することがありません。影響するのは重力だけです。したがって、列車が同じ速度で、同じ方向に進んでいる限り、乗っている人にとってはまっすぐ上がりまっすぐ落ちてきます。

 しかし、ボールを投げ上げたあと、列車が速度を変えたり、曲がったりすると、ボールがとんでもないほうに飛んでいくのは、列車にそれまでと違うエネルギーが加わったのに、ボールには重力以外何一つ新しいエネルギーが加わらなかったからです。そのため、ボールの動く向きや速さは変わらないのに、列車の動く向きや速さが変わってしまうので、元の手には落ちてこなくなるのです。それは、ボールがほかの方向に飛んでいったのではなく、列車がほかの方向に走っていったからです。中の人は自己チュウだから、ボールが勝手にあっちへ飛んで行ったと見えるだけです。

 実際の列車が等速直線運動をしているときも、列車はエネルギーを供給されていますが、それは、さまざまな抵抗によって失われるエネルギーの供給です。投げ上げられたボールの抵抗は空気がほとんどですが、空気も列車といっしょの速度で動いているので、ボールへの抵抗はほとんどありません。ボールを外へ投げると、一気に後ろに飛んでいくように見えるのは、外の空気は止まっているので、空気抵抗が一気に増えるからです。

 では、光の場合はどうでしょう。アインシュタインの、光は光源の速度に影響されないという光速度普遍の原理から、何一つ横方向のエネルギーをもらわないはずです。それなのに横に動きます。不思議に、光時計がどちらにどれだけの速度で動いても関係なく光時計と一緒に横に動きます。速度や方向には関係ないみたいだから、速度が変わっても多分平気でついていくのでしょう。どうしてそうなるのかは、おそらく、「理由はない、事実だから」そうなのだというのでしょう。

 しかし本当にそうでしょうか。私には、とても信じられません。光源は部屋の進行方向に部屋と同じ速度で運動しています。しかし、光は、光源の運動速度によってその方向や速さが影響されることはないから(光速普遍の原理・ボールとはここが完全に違います。)、光は横方向の運動はしないで真下に落ちるはずです。そして、鏡の動きもまた光の速度には影響しないから、光は真上に上がります。問題は、このときの真上、真下の解釈です。光速普遍と、光速度普遍では大きく違います。光速普遍では、光源から光が出た瞬間の光源の真下になり、光が反射した瞬間の鏡の真上になります。そのあと光源や鏡がどこへ動こうと、最初の真上真下の位置は動きません。一方、相対性理論の光速度普遍では観測者に対しての真上、真下になります。観測者が動くと、観測者の真上、真下も動くので、真上、真下の位置が移動します。光速普遍では、光は同じところで上下しますが、光速度普遍では、観察者に対して同じところを上下するので観測者についていくことになるのです。

  では、どちらが正しいかをもう少し考えてみます。

 地上に対して、ボールは横方向の運動エネルギーを投げる人の手を通してもらうから、地上に対して実際に放物線を描いて飛びます。でも、光の場合は横方向の運動エネルギーは光源からもらえないから横方向には動けません。したがって、ボールは列車とともに走り去っていきますが、光は、同じところを上下運動していて、箱だけが光をおいて先へ進んでいくことになるはずです。
 なぜそうなるかというのは、ニュートンの考えだと簡単です。ボールは慣性質量があり、光は慣性質量がないからです。
 時速200キロメートルで走っている新幹線内のボールは、やはり時速200キロメートルで走っています。ボールは慣性質量があるので、この運動エネルギーがボールに加算されます。
 では、光ではどうでしょう。光を出す装置が時速200キロメートルで横に走っているとします。しかし、そこから発射された光は慣性質量がないから、その200キロの運動エネルギーを保存しておくものを持っていません。したがって、光のスピードには光源の速度は加算されません。光は横方向には1センチも動きません。ニュートンから考えるとこのように解釈されます。

 もちろん、相対性理論は、ニュートンの慣性の法則など問題にしていません。「なんに対しても光は常に30万キロの一定速度を持つ」というアインシュタインの理論、光速度普遍の原理から上のことが起こると説明しています。「理由はない」です。

 

 このとき、中の観測者が時計の中を歩いたらどうなるのでしょう。光は、観測者について光時計の中を動くのでしょうか、光時計の鏡と光源に連動して動くのでしょうか。観測者が途中で光時計を降りたらどうなるのでしょうか。光もいっしょに降りるのでしょうか。観測者が二人いたらどうなるのでしょう。一人だけ降りてしまったら、光はどちらについていくのでしょう。

    

 (2) 疑問2 

 「部屋の外の人には光は斜め下に運動して床に届き、そこで斜め上に反射されて天井に届くように見える」

 

 普通に考えると、光は光源の速度に影響されないから、部屋の外の人から見ると、部屋は中の観測者を乗せてどんどん動いていくけれど、光は同じところにとどまって、まっすぐ上下して見えるはずです。しかし、それは、旧態然としたニュートン力学の呪縛から逃れられないせいだというわけです。
 そこで、一歩譲って、アインシュタインの言うように、光はどの慣性系においても同じスピードを持つ(光速度普遍の原理)ということを容認します。
 すると、光は、中の人が見るときには中の人の、外の人が見るときには外の人の慣性系に入るはずだから、外の人の前でもまっすぐ上下するはずです。これは、先にも紹介した、「同時刻の相対性」といわれている現象を説明した、アインシュタインの列車の、中と外の観測者の光の見え方が違う、という現象で説明されています。ファイマンの考えはアインシュタインの考え方とは少し違うことになります。

 この考えからすると、中の人の前で光はまっすぐ上下し、外の人の前でもまっすぐ上下するということです。すると奇妙なことが起こります。中の人は動いているから、光はその人と一緒に上下しながら先へ進んで行きます。その一方、外の人に見られた光は、外の人が動かないものだから、その場で上下していなければなりません。光はひとつしかなかったのに、二つになってしまいます。
同時刻の相対性の現象が起こります。このことも、ローレンツ変換というすばらしい計算をすると、時間が延びていたり、長さが縮んでいたりすることになり、なんら矛盾しないことになっています。

 

 (3) 疑問3

   光の居場所はどうやってきまるのでしょう

  ア 問題

 Aという車とBという車を準備します。車は左右にすれ違っています。光は、二つの車を貫きます。串刺し状態です。さて、光はどうなるでしょう。

イ ファイマンの解答の予測(光速度普遍・どの慣性形でも直進するが、外から見ている人にだけは光は直進しません。)

 ファイマンの考えどおりだと、Aの車に入った光は、Aの中の人の慣性系に入るので、Aに対してまっすぐ進みます。つづいて、Bの車に入った光は、Bの車の人の慣性系に入るのでBに対しても、まっすぐ進みます。
 これを外から見るとどうなるでしょう。ファイマンの場合、外から見る人には光はまっすぐ進みません。
 Aの車に入った光はAの車と一緒に動くので、左斜めに進み、通り抜けてBの車に光が入ると、そのとたんにBの車と一緒に右に動きを変えるので、右斜め方向に進んでいるように見えることになります。外の人から見ると、光は、くの字に曲がって動いて見えます。
 世の中には、たくさんの自動車が走っています。この車の中を通り抜けていく光はどうなるでしょう。歩道に立っている人から見ると、光は自動車に入るたびにくねくね曲がっていきます。
 といっても、実際には、人間の目にはこの曲がりはあまりに小さいし、速すぎて見えないから、もし、この現象があったとしても、現実社会の暮らしでこの現象を見極められる人はいません。よかったですね。見えないことはないことだから。

  ウ ファイマンと少し違う考え方(同時刻の相対性)

 光の進路は、見る人のいる慣性系によって決まるというならどうなるでしょう。
 Aの車に入った光は、Aの慣性系に入るので、Aの人に対して、まっすぐ進みます。Bの車に入った光は、これまたBの人に対してまっすぐ進みます。ここまではファイマンと同じです。でもここからが違います。外の人がこの光を見ると、光は外の人の慣性系に入るので、外の人に対してもまっすぐ進みます。
 車に乗っている人にとっては、その人に対して光はそれぞれまっすぐに進みます。しかし、外から見ている人にとっても、光は、どの車もまっすぐ貫いて進みます。光は3本の光に分かれます。同時刻の相対性です。

    これらが現実に起こるとどうなるでしょう。

 こんなことが起こります。
 北に進む車に入った光は、その車の人と一緒に北へ動きます。東に動く車に入った光はそのとたん東に動きます。交差点で右折している車に入った光は、その人とともに右折していきます。がたぼこ道でバウンドしている車に入った光は、その運転手と一緒にバウンドします。どのような観測者に対しても直進するのですからそうなります。

 外の人には同じ光がやはり直進して見えます。バウンドしている光とこの光は同じなのに、見る人によって動きが違います。車に乗っていく光とも違います。みんな同じ一本の光とはとても思えません。でも、計算すると、時間や空間が伸び縮みし、ぴったり重なるそうです。

エ 光速普遍で考える(慣性形には影響されず、絶対的に直進する。)

 では、アインシュタインの相対性理論とは関係なく、「光はただまっすぐ進む」ではどうなるでしょう。
 Aの車の人には、光は車の動きと関係なくまっすぐ進むので光と人の動きに相対的な動きが出るので、車の人には、光はどちらかに斜めに進むように見えます。Aの車が加速されていると曲がって見えます。Bの車でも同じです。Bの動きによって、光は斜めに動いたように見えます。がたぼこ道ではバウンドして見えます。なぜそう見えるのかというと、まっすぐな光に対して、人が動いているからです。外の人もまた、地球といっしょに動いているので、その動きに影響され光が斜めに進んだように見えます。これも光はまっすぐでも、人が動いているからです。

 ウの現象と似たところがありますが、「ウ」は運転手と共に光も実際にバウンドします。どの運転手にも光はまっすぐ見えます。「エ」の場合は、バウンドするのは運転手だけで、光は絶対静止に対して直進しています。運転手が光に対してバウンドしているのです。運転手には光が曲がったり、バウンドしたりして見えます。

 このとき、観測者と光の相対的な速度が変わっています。
 これは、雨の日に列車の中から、外の雨を見るのと同じ現象です。雨は、前方から後方へ斜めに降っているように見えます。列車が駅に入っていくと、雨はだんだん垂直に近くなり、列車が止まると、雨は本来の角度で落ちてきます。風向きでは後ろから斜めだったりします。これは、雨がさまざまな角度で降ったのではなく、列車の速度が変わったから、雨と列車の相対的な速度が変わったからです。

 
 (4) 違いのまとめ

 上記二つ、アインシュタインの光速度普遍では、どのように動いている観測者にも光はまっすぐ進んでいるように見え、またまっすぐ進むために、光はほんとうに曲がって動くというのに対して、旧態然とした、光速度が変化し、光は絶対静止に対して普遍であるという光速普遍の場合は、光は見かけ上は曲がって動くように見えるけれど、ほんとうは光はただまっすぐで、人と車のほうが動きます。常識では後のほうです。でも、その常識を破ったところがすばらしいのがアインシュタインの相対性理論だから、光は人の動きに連れ添っていくらしいです。どう思いますか。

 

3 結論(光速度は変化する)


 光時計の箱に乗ってる人には、ファイマンの想定したのとは反対に光が後ろ斜めにV字の光跡を描いて遠ざかっていくのが見えるはずです。列車から見える景色が遠ざかっていくのと同じ見え方です。

 外の人にも、地球が動いているので、やはり違った角度でV字の光跡が見えるはずです。したがって、「部屋の外にいる人にとって光が床と天井の間を往復する時間は、部屋の中の人が測る時間よりも短くなる。」「走っている人は時間が早くなる。」のを見ることになるかもしれません。
 しかし、そうではありません。観測者に光がV字形に見えるのは、観測者と光との相対的な速度が変わっているからです。光はただまっすぐなのに、観察者がうろうろしているだけです。うろうろしている観測者に、義理堅く光がついていっているわけではありません。時間や、空間など伸び縮みさせなくても大丈夫なんです。
 とんてんぱらりん、ポッポー。

         

   
 
トムキンスの不思議の町は太陽がいっぱい
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