「重力とはなにか」(大栗博司著)への手紙7

(以下{ }内は上記本よりの引用)

著者 高田敞

 


問題

{無重力状態でお相撲さんとノミが押し合ったら、弾き飛ばされるのはどちらでしょうか。}

 

考察

これはたいしたことではないのですが、相対論の根幹と係わっているような気がします。

それは、アインシュタインの相対性原理です。

アインシュタインの相対性原理では、どちらが動いているか決められない、ということになっています。

 だから、お相撲さんから見ればお相撲さんは静止していて、ノミが動いて来て、弾き飛んでいるように見えますが、ノミから見れば、ノミがじっとしていて、お相撲さんがやってきて、後ろに弾き飛んでいるように見えます。そしてどちらも真であるというのがアインシュタインの相対性原理です。

だから、弾き飛ばされるのはどちらとは決められない、というのが相対性理論の正しい答えのはずですから、{弾き飛ばされるのはどちらでしょうか。}という設問自体が相対論では無意味になるはずです。そのあたりはどうなっているのでしょう。

私は、どちらが動いているか決められない、という考え方が間違っていると思っています。理由は、運動エネルギーは、質量×速度の2乗の半分ということですから。お相撲さんとノミが押し合ったという同じ現象の総運動エネルギーが、お相撲さんが動いているとして計算した時と、ノミが動いているとして計算した時では大きく違ってきます。同じ現象なのに見方(基準)によってエネルギーが違うのは、エネルギー保存則に反します。

結論

この本でも、答えは、ノミが弾き飛ばされる方に軍配を上げています。それが常識というものです。常識を覆したところが相対性理論の素晴らしいところだという人もいますが、事実は常識どおりなのです。この本でも、アインシュタインの相対性原理ではなく、常識の方で判断していますものね。

このことは、身の回りの現象を見ればわかりそうなものです。地球の周りをまわっているのは月だけです。星も、太陽も、地球の周りをまわっていません。どれがどのように動いているかは決まっているのです。

 アインシュタインは、絶対静止点が宇宙には見つからないから基準が無い、だから、どちらが動いているかは決められないと言っていますが。静止点に旗が立っていないから動きが決められないというのは、彼のかってな解釈です。彼は、棒きれで物を測るしか能のない人ですから、そんな結論になったのでしょう。あるいは、理屈を正当化するためにこじつけただけなのでしょう。多分後の方でしょう。

今、地球の速度は、宇宙背景放射の赤方偏移で測られています。宇宙に対する絶対速度です。相対性理論では、地球から見れば地球は止まっていて、宇宙が動いて来ているということになるのでしょうが、地球に対して、全宇宙の、まだハッブル望遠鏡でも見えないほど遠いところの銀河まで全宇宙の銀河と一緒に足並みをぴったりそろえて、地球に対して動いているなどということがあるわけがありません。地球が止まっていて、星が地球を回っているなどというのは中世以前の考え方です。まあ、ニュートンが重いから落ちる、から、物質は引き合うということに変えたのに、彼はまた、中世以前の、重いから物は落ちる、という、重力に戻したのですから、これも当然ですね。そうなんですよ、等価原理は重力(一方的に落ちる)だから成立するのであって、万有引力(引き合うという相互作用)では成立しない考え方なのですから。

 

 まあ、観測事実より、天才の経典の方が真であるというのが相対性理論家なのでしょうけど。まあ、何を信じるかは、信仰の自由というものですから、私のとやかく言うことではないのかもしれませんけど。でも科学なんですからねえ。