かいたひと 妹空並刻
序の一 (嘘の三八)
光来たりて、のち、命世に満つ(シルレア記三章八節)序の二 (時は元禄中の頃 夏とはいえど )
三十世紀末になっても、象はやはり象であり、ケヤキはケヤキであり、人は人であった。日は、春夏秋冬変わりなくそれぞれの光を投げていた。しかし、そのことに興味のある者だけが、この千年の間に、哺乳類だけでも二十数種の種が滅び、十数種の種が新たに発見されたのを知っていた。ただ、そのいく種が、新たに地球上に誕生した種であるかは明らかではないが。どちらにしろそんなことは人には関係のないことだから。まあ、関係あるとするならば虫の方だろうか。何世紀か以前、害虫と言われた虫がすべて地球上から消されてしまった。その数は数百種とも、数千種とも云われている。まあ、幸か不幸か、蝉はそのリストから外れたのか、あいかわらず最後の七日間を鳴きなき暮らしているが。序の三 ( 永遠の命よ)
人たちは皆、その事を話すとき、おこりに罹ったように震えた。その情報が入ってからまだ二三日だというのに、知る人ぞ知るというぐあいに
その日ばかりは、もう滅多に見ることもなくなった官営放送に、誰もがチャンネルを合わせたものだ。だから、どの家の部屋の中にも、ぽっかり宇宙船が浮かぶことになった。
幾十とある放送の中から、誰もがニュースを選ぶということなどここ何十年となかったことだ。ほぼ百年ほど前になるだろうか、歴史上人類最後の危機と云われたあの時代以来のことだ。
いや、テレビを見ること自体不思議なことだ。ここ数年、爆発的人気を博しているのは、サイコビジョンといわれている小さな幻覚機だ。これはすてきにすばらしい機械だった。二十二世紀に世界を危機に陥れた、一種の薬品による幻覚など比べものにならなかった。こいつは脳細胞に直接刺激を送り込む。体はソファーに寝転がっているのに、していることは、未知の星に飛び立っている。すばらしい恋人の抱擁であったり、大観衆の前でムーンサルトを決めていたりする。
もはや、スポーツも、冒険も、恋人も、芸術も何も必要なかった。英雄になりたければ、いつでも好きなだけ英雄になれた。恋だって思うままだ。中途半端な現実より、遥かに刺激的で、劇的だった。
この機器は、ムーンティーチングの応用らしかった。
人類が最後の危機を乗り切った後、世界は人類の手から滑り落ち、コンピューターの手の内へ落ち込んでしまったという人もいる。その人たちは、最後の危機を乗り切るために、コンピューターを頼りすぎたという。全権をコンピューターに委任したようなものだと。いや、コンピューターは心がないから、生産の一手段を担う機械にすぎないと知識人は反論した。それらを動かすのは人間だと。メーンコンピューターの建築に直接携わった人々を除いて。メーンコンピューターは、最後の危機を乗り切るためにスイッチが入れられた瞬間から、いっさいの人間の操作を受け付けなくなるように仕組まれていたのだから。そして、コンピューターが果てしなく計算を続け、世界のあらゆるところに基地を作り続けていることを知って薄気味悪くさえ思っていた。しかし彼らは話せなかった。メーンコンピューターのいっさいは何事があっても漏らしてはならない最高機密だった。世の中にある最後の唯一の機密。
人はとてもコンピューターに追いつけなかった。そこで登場したのがムーンティチングだった。それまでの五感に頼っての教授ではなく、脳に直接知識を打ち込んだ。そのおかげで、人々はもう一度コンピューターを自由に使いこなせるようになった。いや、そう思いこんだ。人々は世の中の仕組みがもう一度自分の手に戻り、世の中が明るくなったのを感じたものだ。ただ、ごく一部の人たちは、うまくはめられただけだと云ってはいたが。いつの世だってそういうへそ曲がりはいるものだから。
「テイオウ(彼らはメーンコンピューターをそう呼んでいた。)は、単に端末機の性能を向上させただけだ。」と。「テイオウは、人を端末機のほかの何者とも考えていない。」と。
ほかにも、知識人の一部からも、ムーンティーチングに対する強い危惧の念が表明された。「それは、人間のロボット化であり、人間性の放棄である。」というような趣旨のことが、彼ら特有の持って回った言い方で云われた。しかしそれも、結局自分たちだけが利口ぶりたいだけだとやり込められて、あっさり主張を引っ込めた。というよりも、昨日まで自分が教えていた学生に、今日は教えを乞わなけれなんらないことに耐えられなかったといったところが真相か。
とにかく、ムーンティーチングの力はすさまじかった。腕にはめて眠るだけで、一週間もすると全世界の知識という知識が脳に詰まっていた。
ムーンティチングは野火のように世界に広まった。
「いや、そうではない、これは我々のためではなく、テイオウ自身のために行われているのだ。我々人類、いや、生命自体が宿命ずけられた、進歩への潜熱を逆手にとって、我々を陥れようと謀っているのである。我々はテイオウを破壊し、もう一度、自らの手で自らを支える生活を、すなわち真に命の喜びを取り戻さなければならない。」
誰も相手にしない声明は、それでも細々と続いていった。サイコビジョンは、ムーンティーチングよりはるかに反対が多かった。世の良識ある活動を行っている無数の団体から抗議の狼煙が天を焦がしたものだ。政府の超高速ファクシミリもパンクするかとさえ思われた。臨時議会を招集して(政府は人々の声に非常に敏感なのだ。不思議なことに。)対策を練ったが、名案は浮かばなかった。サイコビジョンを、いつ、どこで、誰が作ってメーンコンピューターに組み込んだのか発見できなかった。そして削除することも。
あの、何でも反対すればいいと思っているテイオウとかいう連中じゃないかと誰かがいった。いや、口ばかりで、ネズミ一匹殺せない奴らが。しかもノンティーチングだぞ。できっこないだろ。
それでけりが付いた。しかし誰もの心に不安がよぎったものだ。メーンコンピューターが意志を持って、と。だがだれも口には出さなかった。しょせん機械なのだ、心を計算することは出来ても、心を持つことは出来ない。コンピューターに命はない。
そこで、政府は、こっそり官営放送で、サイコビジョンの悪口を流したものだ。個人の選択の自由に抵触しないようにはらはらしながら。個人の権利を、公人が侵そうものならその場で即首切りになること請け合いだから。
実益より快楽の方が早く伝播するという社会の法則の通り、サイコビジョンはあっと言う間に広がった。
抗議の声も出そろうと下火になり、消えていった。抗議者自身がその快楽に染まってしまったのだ。
一夜の内に、一国の支配者になり、一夜の内に宇宙を巡りきった。見えない者も物を見、聞こえない者も声を聞いた。どのような暴力も、破壊も思いのままだ。地位も、名誉も、そしてセクスも。快楽という快楽が詰まっていた。百歳を越えたって、十五歳の人生を生きることが出来た。あの夢と、不安と、淡い片思いの世界に。
ただ、サイコビジョンの幻覚は、ムーンティーチングを改良したためか、現実よりはるかに経験として記憶に残った。現実より強く記憶に残る幻覚は、人々を果てしなく混乱の中に落とし込んだ。
それでも人々は、サイコビジョンを捨てなかった。誰も人生を生きたがっていた。平均寿命が百三十歳を越えたといっても、人は老い、人は死に、時はただ一時も止まることなく過ぎていったのだから。
生産に従事する必要のなくなった人々の不幸は、老いや、死を考える時間が増えた事なのかもしれない。人々は死を恐れていた。光の速さで飛べば年をとらない。その一事だけで、誰もが、サイコビジョンをつけずに、官営ニュースのスイッチを入れた。
(序おわり、1章の1に続く)
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