シュレディンガーの猫について22

(「シュレディンガーの猫(下)」ジョン・グリビン,坂本憲一・山崎和夫 訳,地人選書)

(以下{ }内は上記本よりの引用)

著者 高田敞

 

     

問題

{量子のハイウェーの合流点ごとに新しいリアリティーがたくさん生まれたかもしれないが、われわれの場所にいたる道ははっきりしていて疑いようもない。未来に向けても多くのルートが通じているが、ある型の「われわれ」がそのうちのひとつをたどっていくだろう。}

考察1

{われわれの場所にいたる道ははっきりしていて疑いようもない。}

 どうしてそういえるのか。電子がA孔を通ったとき、B孔を通ったときで、違う世界ができると言っている。量子学者はたくさんいる。その人たちが、一致して電子の通り道を選ぶわけではない。みんな勝手に選んでいるはずだ。(著者の言うように、選べるとして)

 それによって、必ず二つの宇宙ができる。人の数ほど宇宙ができるということになる。それぞれ違う宇宙の道をたどっているはずだ。

 違う道をたどったわれわれはどうしているのか。その{われわれ}も、やはり{われわれの場所にいたる道ははっきりしていて疑いようもない。}と考えているのだろうか。

 また、考えるのは個人である。感覚も個人である。{われわれ}が共同して、テレパシーを通じ合い、同じ感覚を共有し、考え、感じているのではない。

 今、{{量子のハイウェーの合流点ごとに新しいリアリティーがたくさん生まれた}この世界と異なる無数の(百兆の百兆倍の百兆倍の百超倍でもきかないほどの別の宇宙)リアリティーある世界に住む{われわれ}は何を考えているのだろうか。その{われわれ}の中に私もいるのだろうか。

 そんな世界があるわけがない。{われわれの場所にいたる道ははっきりしていて疑いようもない。}のは、無数のリアリティーある宇宙の中からわれわれが選んだからではない。世界はこの一つしかないからである。{量子のハイウェーの合流点ごとに新しいリアリティーがたくさん生まれ}るというような現象は存在しない。量子が揺れたら、もう1個地球がポンとできるとか、われわれが木を見たら、木を見ないときの場合の地球がポンと生まれるとかいうことはない。私が右手を上げたら、右手を上げない場合の地球がポンとどこか違う宇宙に現れるなどということはない。その都度そのつど、宇宙は宇宙の全物質と全生命を無から一瞬以下の時間で作らなければならないのだから、あり得るわけがない。その都度私がもう一人生まれるなんてあり得るわけがない。そのことをごまかすために、いくら{量子のハイウェーの合流点ごとに新しいリアリティーがたくさん生まれ}ても私はこの私しかいないとするために、私の居場所だけはたった一つであると言いたかったのだろう。

 では他の{われわれの場所にいたる道}以外の{量子のハイウェーの合流点ごとに新しいリアリティーがたくさん生まれ}た世界には人間はいないのだろうか。人間以外のすべてがそろった宇宙がたくさん生まれるのだろうか。

まあ、実証してからの話だ。私が、何億、あるいは何十兆に分化したか知れないが、私はこの私以外にどこにもいない。地球もこの一つである。

{われわれの場所にいたる道ははっきりしていて疑いようもない。}というのは、この世界しかないということを認めている。多重世界だと言っていながら、無数の世界ができても、{われわれ}はどうか知れないが、私は多重に分かれずに、一人しかいないから、ほかの世界の私は何をしているかということが言えなくなる。私は一人しかいないのだから、多重世界ではなくなる。しかし多重世界があるという主張は翻せない。そこで、無数の多重世界があるという主張を変えずに私が一人しかいない理由を考えたのが、{われわれの場所にいたる道ははっきりしていて疑いようもない。}という理屈である。

要するに、多重世界はあるのだが、われわれの住んでいる世界はこれ一つであるということを認めたということである。他の多重世界は、どこかあっちのあの世の向こうにあるといいたいのだろう。多重世界がないということを認めないための、へ理屈である。まあ、言えば、嘘の上塗りというやつだ。

結論

ほかの世界が生まれるわけなどない。量子学者が見たからといって、そのあたりに転がっている石ころがポンと二つになるわけがない。実際になったこともない。量子学者が、眼力で、地球をポンと二つ作ったり、ポンと太陽を作ったりできるわけがない。

そんなの常識ですよ。


つづく 2014,2,19