シュレディンガーの猫について2

(「シュレディンガーの猫(下)」ジョン・グリビン,坂本憲一・山崎和夫 訳,地人選書)

(以下{ }内は上記本よりの引用)

著者 高田敞

     



問題1 {アインシュタインの時間}

{移動している時計はゆっくりと時を刻み、光速に近づくほど、針の刻みは遅くなることを、われわれは相対性理論から学んだ。事実、光速度では時間が停止し、時計の針は止まる。本来、光子は光速で動くのだから、光子にとっては時間は意味を持たないのだ。}

考察

(1){事実、光速度では時間が停止し、時計の針は止まる。}

 このことは実証されていない。したがって仮説の域を出ていない。{事実}という言葉は間違いである。多くの科学者が信じていても実証されていないものに、{事実}ということは科学ではない。昔、多くの科学者が、天動説を信じていた。地動説のガリれをを否定したのは宗教者ばかりではない、往時の科学の常識から否定されたのだ。時代が違う。今は、しっかり考えられているというのは権威主義にしか過ぎない。事実でないものを事実ということが科学の方法論として間違いである、ということが大切である。説と、事実をはっきり示さなくてはならない。この本は、事実と、推測と、説とがあいまいになっているところが見受けられる。核心の部分が特にそうだ。

(2){光速度では時間が停止する}か?

 光速ロケットを考える。光速ロケットの中の時計は{時間が停止し、時計の針は止まる}ことになる。すると、時計の針と同じようにロケットの中のすべての機器の動きは止まることになる。なぜなら、秒速1mで動く物体は、0秒では0mしか動けないからだ。秒速30万kmのものでも0秒では0mしか動けない。ロケットの中の時計は、ロケットとともに秒速30万kmで動いている。しかし、この時計本体も0秒で0kmしか動けなくなる。時計を取りつけてある、ロケットの壁も、やはり、0kmしか動けなくなる。そうしないと、時計はロケットに1秒間に30万km置いてけぼりになってしまうからだ。

 搭乗人物を考えてみよう。時間が止まっているのだから、中の人間も時間が止まっていることになる。すると、やはり動くことができなくなる。すると、ロケットが30万kmで飛んでいると、一瞬で後ろの壁が搭乗者にぶつかってしまう。秒速30万kmでぶつかられたら、ただでは済まないだろう。

 このことから、ロケットは停止しなくてはならなくなる。もちろん、秒速30万kmのロケット本体も0秒間では0kmしか飛べない。停止すると、速度0kmになるから動いていないロケットの時間は元に戻る(元に戻った時間の速度はどれくらいかわからないが、少なくとも地上の1秒とは違う速度のはずだ)。元に戻ると、ロケットは秒速30万kmで飛び出す。飛び出したとたんに時間が止まる。するとロケットが止まる、すると、時間が動きロケットが飛び出す。この繰り返しだ。秒速30万kmと0kmが瞬時に入れ替わる。人間はとても乗っていられないだろうと思う。

 光子も、光速で飛ぶときロケットと同じことになるはずだ。止まったり動いたりめまぐるしく速度を変えなくてはならない。

 時計の針は、人間の作った、等速度で動く金属のとがった棒にしか過ぎない。時間とはなんの関係もない。アインシュタインは本質的なところで間違っている。彼は時間とは時計の針であると言っている。時間そのものは時計の針ではないことに思い至っていない。彼が小学生並みの思考力しかなかったか、他の科学者をそれで騙せると踏んでいたかである。時間とは何かということに答えられる科学者はいないから、時計の針だといってしまえば、時間とは何かということが一つも解っていないのだから科学者は反論できないはずだ。反論できないということは、自分の無知をさらけ出すだけだから、賛成するしかないだろう。煙に巻いてやろう。科学者とはせいぜいそれくらいの代物だ、とほくそ笑んだのであろうか。

 うちの時計は古くなって年間5分ほど遅れる。すなわち時計の針の進み方が遅くなっている。だからといって、うちが、ほかの人んちより、5分過去にいるわけではない。

 

問題2

{時間方向に進む光子は時間に逆行する反光子と同じである。ところで、反光子は光子なのだから、}

(考察)

(1){光子にとっては時間は意味を持たないのだ。}

これからすると、光子が、時間に逆行しようと巡航しようと、{意味を持たないのだ。}となるはずだ。時間に逆行するのだ、と気炎をあげているが、ジョン・グリビンの信じるこの説からは無意味なのである。この矛盾はどこから来ているかというと、時間とは何かが何一つ分かっていないことからきている。時間という言葉をもてあそんでいるにすぎない。

(2){時間方向に進む光子は時間に逆行する光子と同じである。}

まあ、これも、言葉遊びだね。太陽から出た光子は、約8分後に地球に到達するといわれている。すると、この光子は{時間に逆行する光子と同じである}ということであるから、8分間時間に逆行して地球に到達するということにもなる。得意のゴーストに分離、かな?それはさておいて、その光子は8分間逆行するのだから8分過去に戻るということになる。太陽の光子は太陽を出て8分後(未来)の地球と8分以前(過去)の地球に到達していることになる。このことから、今地球に到達している太陽の光子は8分過去の太陽から出た光子と、8分未来の太陽から出た光子が、2重に降り注いでいることになる。摩訶不思議な現象である。すると私たちは8分過去の太陽と、8分未来の太陽を見ていることになる。16分の違いだから、太陽はおよそ直径の3個分ほど離れて2個見えることになるはずだ。ところがそのような現象はない。太陽は一つしか見えない。すなわち、机上の空論と違って実際の現象は一方の光子しか届いていないということである。ということは、太陽の出す光子は、巡行はあっても、逆行は存在しないということである。

 この仮説{時間に逆行する光子}は、実際に観測してから定説にするしかないであろう。しかし、未来から来る光子は今まで同様観測されないだろう。われわれ人間は、おそらく量子学者も含めて、未来の物質を見る目を持っていないのだから。8分未来の太陽を見ることができるのは、タイムマシーンのあるSF漫画の中くらいだ。すなわち{時間に逆行する光子}はSF漫画の中だけのお話だということだ。まあ、今現在、未来の太陽が宇宙空間のどこかに実際に存在するということがあるのだろうか。あるとすると未来永劫の時間の中で、いく百、いく億、いく兆、いや無限個の太陽が今現在存在しなくてはならない。宇宙は大混雑だ。

光子が時間を逆行するとしたら、現在のこの瞬間に、8分未来の太陽がしっかり空に存在していなければならなくなる。巡航するにしても、今現在過去の太陽があることではない。あるのは今この瞬間の太陽だけである。ではなぜ、8分過去の太陽が見えるのかという問題が出てきそうだ。簡単である、私たちが見ているのは、8分前に太陽を出て、8分後の今この瞬間に地球に到達した光子を見ているのである。光子は今現在の光子である。それは、午前8時に京都を出た新幹線光号が、10時に東京駅に滑り込んだのと同じである。8時に京都を出ても、東京駅で見ているのは10時の光号である。8分前に太陽を出て、8分経過して今地球に到達した光を見ているということだ。光の時刻と地球の時刻は同時である(太陽光の{光子にとっては時間は意味を持たないのだ。}ということはない。しっかり意味がある)。

もちろん今あるのは8分前の太陽ではなく、今現在の太陽である。地球にその光子は届いていないからその太陽を見ることはできないが。10時に東京駅に着いたひかり号は京都駅にはないが、光6号が、10時ちょうどに京都駅を出発しているのと同じだ。

これは星の光を見るとよく分かる。星の光をスペクトルで見ると暗線がある。これは地球まで飛んでくる間に宇宙空間の物質に衝突した痕跡だ。光は飛んで来る間に時間とともに古びているのである。

 どこが間違ったのか。

ファインマンダイアグラムが素晴らしい天才の見つけ出した時空グラフであったとしても、それは紙とインクの線にしか過ぎないというところだ。書いたのも人間である。光子が飛んだのでも、電子が衝突したのでもない。時間方向といっても紙の上の矢印にしか過ぎない。空間といっても、紙の左右方向にしか過ぎない。時間と言ってるが、紙の上下方向の線にすぎない。それを、本当の空間とか、時間だとかしたところが間違いの原因である。事実と、机上の空論とを同一視したことが間違いのもとである。

まあ、紙もインクも、素粒子の塊であるということは言える。しかし、時間の塊でも、空間の塊でもない。

 時間を縦軸にとろうが、横軸にとろうが、それは、時間ではない。矢印の向きを変えようが、矢を取って単に線分にしようが、それはインクから一歩も出ない。私なら、ぐるぐる巻きの線分とか、波条の線分とか、幅広い線分とか、立体の矢印を置くとか、いろいろ工夫するけどね。そして時間をさかのぼったとか、時間をグルグル回ったとか、時間を多元的に移動したとか、時間を、好き放題の速度で移動したとか、言うけどね。

 言うのは勝手である、なんとでもいえるSF漫画と同じである。

仮説だというなら実証しなくてはならない。時間をさかのぼる光子を観測して見せてほしいものだ。光子=反光子なら、すべての光子は反光子であるのだから、今地球に満ちている光と同じ量の反光子があるはずである。すると、いつでも、どこでも簡単に時間に逆行する光子が観測されるはずである。それが観測されていないというのは、反光子が存在しないか、あっても、ごくまれ、それも、ないに等しいくらいしかないということである。光子=反光子に反する。

電子をぶつけて、光子が過去に飛んだなら、その瞬間に光子は見えなくなるだろう。人に見えるのは現在の瞬間しかないからだ。過去を見ることのできる人はいまのところいない。未来に飛んだとしても見えない。未来を見ることのできる人もいないしその機械も存在しない。(われわれは観測した、と天才量子学者は言うかもしれない。量子学者は天才だから、過去や未来を見ることができるのかもしれない)人間にあるのは「今」それだけである。今見える光しか見えないのだ。今見える光子、すなわち、現在時間の光子なのだ。

問題3

光速の光子が光速だからと言って時間が止まるならどうなるか。

考察

光子の時間が止まったら、光子はその時刻にとどまって、1秒も時間は進まない。われわれの時間の進みについてこれなくなる。するとすべての光はわれわれから取り残される。たとえば西暦120年の光が我々の周りからなくなっているように、過去を見ることができないわれわれには、時間が止まって過去の時刻になってしまった光を見ることはできない。われわれの周りは真っ暗闇になるはずだ。もし見られたとしても、西暦120年の太陽の光は西暦120年の太陽から出ているのだから、われわれは西暦120年の太陽の位置にある太陽を見ることになるはずだ。そんな太陽はどこにもない。今見える太陽は現在の太陽1個だけである。現実にはそんなことは起こっていない。

 もちろん光子の時間が止まったなら、太陽の光は動けなくなって、地球には届かない。太陽の光は8分という時間が経つから地球に届くのだから。

止まっているのは太陽光の時計だけで地球の時計は動いているから、地球から見ると太陽光は動いている、とでもいうのだろうか。針は止まっても時計そのものは普通に動くということなのだろうか。見た人によって、すべての物理現象がリアルになるという量子論にはもってこいだ。

 

結論

 ま、お話としては時間をさかのぼったり下ったりするのは楽しいけれど、実際にそんなことが起こっていないのだからおとぎ話にすぎないということだ。おとぎ話なら、魔法だってなんなく使えるものね。地球を0,00000000001秒で、無からひょいと出したりもできるんだから。「ひょいと」、だって0.01秒で言えないのに、それよりはるかに短い時間で地球が出てくるというのがビッグバン宇宙論だ。机上の空論はなんだってありだ。

幼稚園生だって鉛筆で矢印は引けるけど。時間をさかのぼるなんて、実際には非常に難しいことだよ。できるなら実際にやってみな。

 

問題4

{アインシュタインの時間}

{遠い星を出発した光子が地球に到達するには、地球上の時計で測れば何千年かを費やすかもしれない。しかし、光子にとっては何ら時間がかからない。}

 (考察)

 これは、光速になると、時間が止まるという、アインシュタインの理論からきている。光子は、光速だから時間が止まっているということなのだろう。

そこで考えてみる。

 光子は1秒間に30万km移動する。2秒間に60万km移動する。では、0秒間に光子が移動する距離は何kmでしょうか。答え。0kmです。算数なら簡単です。

 したがって、時間が止まった{遠い星を出発した光子が地球に到達する}ことはあり得ないということになる。遠い星の光子が、地球上の時計の針を見て飛んでいるとは思えない。

 ところが相対論ではそうではない。地球時間が宇宙の絶対時間である。たとえば、太陽は、重力と、速度で、1年に1分遅れると相対論者は言っている。すると太陽系ができてから、太陽は地球より、46億分遅れていることになる。これは約8751年遅れていることだ。太陽時刻は、今、石器時代を指している。すなわち太陽は石器時代になければならない。ところが、太陽は、ちゃんと西暦2014年の地球とともにある。

 月は小さいから、地球より時間の進み方が早い。今、月は未来になければならないはずだ。しかし、ちゃんと今の地球を回っている。決して未来に行っていない。

 このように、相対性理論ではすべての物質は過去になったり未来になったりするが、実際は、地球時刻の今にどれもちゃんとある。相対論でいくら時刻が、未来になっても、過去になっても、すべて、地球時時刻の「今」に、現れる。0.01秒だって外れない。

 アインシュタインは理屈で絶対時間はないと言っているが、現象は、地球の「今」という時刻に全てが集まっている。このことから、理屈ではないといっているが、事実の現象は地球の「今」という絶対時刻が存在するといえる。宇宙の時刻の中心は地球の「今」なのである。

結論

そんなあほな!

問題5

{一つの次元を取り除き、なじみ深い三次元の一つに右の厳密なルールを当てはめるとどうなるか考えてみよう。}

 として、時間軸の{横方向の動きは例えば左に限られる}と述べている。時間は遡れないからということだ。

 そこで{時間と逆方向に動かないで目標にたどり着かなくてはならないと子供に言ったとする。} 

 解答は{単に別の方向、つまり左右逆の方に向いて左に動き、目標につけばいいのだ。}

とある。

(考察)

 ややこしそうに書いてあったが、要するに、反対に向けば、それまでの右手側、グラフ上の過去の方向が、左手側になるということだ。左には動いていいということだったから。左に動いて過去の方向に向かえばいいということになるというのだ。

 ジョン・グリビンは、グラフというもののルールを、小学校に戻って勉強し直す必要がある。

 たとえば、Y=Xのグラフを書いてみよう。原点を通る上に広がった放物線が書ける。これを反対側から見てみよう。下向きに広がった方物線になる。すると、これは、Y=−Xの線になる。見る位置によって変わるのである。しかし、そうではない。グラフは、Y軸にしろ、X軸にしろ、作ったときに軸のプラス方向は決められている。見る方向によってそれは変動しない。反対に見たら、プラスとマイナスが入れ替わったり、横から見たら、Y軸とX軸が入れ替わったりはしない。それがグラフのルールである。そうしないとグラフの意味がなくなる。

 したがって、子供が反対向きになったからといって、正負が入れ替わったりしない。左にしか動けないのだから、といって、反対向きになって左はこっち側になったから動いていいということではない。言葉のまやかしである。{横方向の動きは例えば左に限られる}と言って、グラフから、身体に目を向けさせる。これが詐欺師の手段と同じだ。グラフのルールでは、横方向の動きは左とは言えない。横方向の動きは、+方向に限られる、とグラフ内で処理しなくてはならない。それをプラス方向を左という言葉にすり替えて、次に、知らんふりして、左を身体の左に持っていく。そして身体の向きを変えさせる。うまい手だ。ジョン・グリビン氏はもちろんえらい人だから、それがインチキだと知っているはずだ。知っていて、その手を使っている。かなりなつわものだ。

 この手法をディベートという。言い負かした方が勝ちという議論の方法だ。これは科学ではない商売人のやり方だ。科学は議論するとき、言い負かすことで勝利するのではなく、議論によって真実を見つけ出すことだ。勝ち負けではなく、協力して真実を探り出すのが科学の議論だ。

結論

これを{私はこれを数人の子供と大人にためしてみた。}{子供たちのおよそ半数はトリックを見抜いたが、大人たちのほとんどはだめだった}と述べている。

 せいぜいグラフの意味を知らない子供しか騙せないということのようだ。グラフは、どちら側から見ようが値は変わらない。

 これはグラフの性質を知らないということのほかに、時間が矢印で表せるということからも来ている。矢印を反対にしたら過去に遡れるという、ばかばかしさからきている。

 時間は矢印で表せる。矢印は向きを変えられる。だから時間も向きを変えられるという3段論法なのだろう。間違いは、時間が→で表せられるということだ。

時間は矢印ではない。時計の針でもない。宇宙が膨張している現象でもない。本質的な時間とは何か説明できないでしょう。それなのに、時間が遡れるなどと言っているのだからあきれる。まず時間とは何かを、科学的に説明してからの話だ。

2014,2,13  つづく