霧氷の2

 細い月はいつのまにか山に沈んでいた。無数の星が空に凍りついて瞬いた。地上の闇はいっそう濃くなった。
 きつねはあれから何度か追われるように場所を変えてはじっと様子をうかがっていた。そして今は,茅原の外れの松の下に身を潜めて聞き耳を立てていた。そこは,茅原以上に闇は濃く,いくら目を凝らしても見つかる心配はなさそうに思えた。その耳に、凍った風はまだ何の音も伝えては来ない。しかし,全身の毛が逆立つような恐怖が,間違いなく敵が近づいていることを知らせていた。
 敵はゆっくりと、着実に自分に近づいている。しっかりと,自信に満ちて。敵は自分をはっきりと追い込んでいる。だのに,自分はまだ相手がどこにいるのかさへつかめていない。
 きつねは焦っていた。こんなことは初めてだった。今までは,いつだって自分のほうが先に相手を見つけていたのに。
 彼は動かなかった。いや,動けなかった。どこかから自分を見つめている視線が、びりびりと感じられた。きつねは、闇の中に,いっそう身をすくませて全神経を張り詰めさせていた。いつでも、どの方向にでも跳べるように、跳躍の姿勢で。
 斜め後ろで、かすかに枯葉の音がした。きつねはその瞬間真後ろに高く飛んでいた。黒い影が、腹をかすめて飛び込んできたのが一瞬見えた。だが、それを確かめる余裕はなかった。彼は稲妻型に地を蹴って、走った。以前、犬に追われたときでさえこんなに恐怖は感じなかった。それで勝負は終わりのはずだった。一方が逃げたとき、それ以上闘う必要はなかったから。しかし、彼は止まった。
 一度失ったテリトリーは二度と戻らない。彼のように歳を取った狐にとって、新しいテリトリーを探すのは生易しいことではない。餌が豊富で、人間から離れているところなどそう見つかるものではない。よしんば見つかったとしても、そういう場所には必ず先住者がいる。どうせ闘わなくてはならなかった。
 彼は、もう数えられないくらい長くそこに住んでいた。ここで妻を取り、何十匹も子どもを育ててきた。後数年だけその場所を守りさえすればよかった。
そうすれば、否応なく寿命が来るはずだ。
 いや、ただ、闘うために彼は立ち止まっていた。理由などなかった。闘うように生まれついた本能が彼を立ち止まらせた。

霧氷2おわり
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