夏 草

 

 ひろ君が虫取り網と虫かごを買ってもらいました。これなら、やんまだって、おはぐろだって、ふなだって捕まえられます。長い夏休みは始まったばかりだし、こんなすばらしいことはありません。
 お母さんが、夕方仕事から帰ってきて、「はいひろちゃん」と渡されたときから、もうひろ君はわくわくしてすぐにでも飛び出したい気持ちでいっぱいでした。でも、もう外は薄暗くて出るわけにはいきません。だから、仕方なく翌日まで待つことにしました。待ちどうしくて、なかなか眠れませんでした、

 

 次の日、目が覚めるとすぐにひろ君は外に飛び出しました。道に出ると、ビュッビュッと網を振ってみました。(いい感じだ。これならいける)ブルッと武者震いが出ました。

 目の前の田圃は青々と茂り、かすかな風が、稲の葉を波のように揺らしながら、ゆっくり渡っていきます。向こうの山は、もう日に輝き、空は所々にちぎれ雲を浮かべ、青く広がっています。蝉が鳴き出しました。暑い日になりそうです。

 朝御飯までに、しおからとんぼを三匹捕まえました。露に濡れた畦の草に隠れて、まだ眠っていたのを捕まえました。こいつは幸先いいぞと、意気揚々と引き上げてきました。
「しおから三匹だぞ」
 あきちゃんに大声で言いました。しおからとんぼなんかいくら捕ってもほかの子には自慢できないのだけれど、あきちゃんにだけはどうどうと言えるのです。
「わあ、すごい。もう捕ったの」
 あきちゃんは、パタパタかけてきました。二人は、頭をつきあわせてかごをのぞき込みました。ビー、ガシャガシャとかごの中でとんぼが暴れるたびに二人で歓声を上げました。
「後でふな捕りに行こ」
 ひろ君がそっと言いました。
「うん」
 あきちゃんもそっと言いました。

 

 おかあさんは、「宿題やってから遊びなさい。」と言って仕事に出かけました。ひろ君はそれどころではありません。あっという間に、網を持って飛び出していました。あきちゃんも、虫かごと、ふなを入れるための缶を持って飛び出していきました。

 途中で、二、三回しおからとんぼを見つけて、シーと言いながら近寄ってビュッと網を振ったのだけれど、パッと飛び立ってしまい、朝のようには捕まりません。でも、がっかりはしません。もうすぐ鈴が淵につくし、そこでは、ふなや、ハヤがいっぱい捕れるのです。
 ひろ君は、鈴が淵にいる大きなふなのことや、ハヤのおなかが、銀緑に光ることや、同じクラスのけん君がそれを見せてくれたことやなんかを夢中で話しながら歩いていきます。
「ハヤは、きれいだからな。捕りたいけど、この網じゃな、すばしっこいから」
 そんな風に大見得を切りながら、どんどん歩きました。あきちゃんも目をきらきらさせて、感心して聞きながら早足でついていきました。

 

 鈴が淵にはなかなか着きません。朝露はもうとっくに乾き、太陽がジリリと熱くなってきました。二人は田の間をずっと続く農道を果てしなく歩いきました。汗が次から次へと出てきます。でも、ひろ君は元気いっぱい歩きます。時々、シオカラや、まだ黄色っぽい赤とんぼをねらって網を振ります。
 でもあきちゃんは、そんなに遠くへ来たことがなかったので少し不安なようすでした。

 

 やっと鈴が淵に着きました。鈴が淵は、すっかり緑に包まれていました。澄んだ水が蕩々と音もなく流れ、覆い被さった林の緑を映しています。川とんぼが、黒や緑に羽を光らせ、はらはらと飛びまわっています。大きな水車が、ゆったりと回りながら、田圃に水をくみ出しています。
 ひろ君は、川とんぼにも、水車にも目もくれません。あきちゃんが、水車を眺めている間に、水の中を、腰をかがめてうかがっています。そろそろと歩きながら、パシャッとすくいました。その音で、あきちゃんは、ひろ君を見ました。
「くそ、逃げられた」
 そして、また水の中をのぞき込みながら忍び足で進んで行きます。
「あそこ」
 あきちゃんが指さす向こう岸を、影から影へ、稲妻のように泳ぎすぎる魚が見えました。でも、遠くて、とても網は届きません。やみくもにすくってみるのですが、すくえるのは枯れ葉ばかりです。
「だめだ。いるのは向こう岸ばかりだ」
 あきちゃんは、それでも目をきらきらさせて、ひろ君のまねをしてそっとついて行きます。
 そのとき、人の声が聞こえました。ひろ君もあきちゃんもびくっと立ち止まりました。道端の草やぶのためにまだ人影は見えないけれど、こちらに近づいてくるようです。二、三人で、それも大きな子のようです。あきちゃんはひろ君を見ました。
「大丈夫」
ひろ君は小さな声で言いました。
 やぶの向こうから、三人の男の子がぬっと現れました。中学生です。大きな三角網を持って、川を覗きながらやって来ます。まだ二人には気づいていないようです。ひろ君は突っ立ったまま、その姿をちらちら見やりました。あきちゃんは、いつの間にか、ひろ君にぴったりくっついています。
「いたぞ」
 とつぜん、男の子の一人が叫びました。すかさず大きな三角網が投げ込まれました。すばやく引っ張り上げると網を土手にトントンとぶつけて、中の泥や枯れ葉を落としています。
「ちぇっ」
 舌打ちが聞こえてきました。獲物に逃げられたのでしょう。
 三人はまた川をのぞきこみながらこちらに近づいて来ます。二人はじっと立っていました。

「おい、どこのちびだ」
 一人がききました。ひろ君は下を向いたまま黙っています。
「そんなちっちゃい網で捕れっかよ」
「どれ、見せてみな」
 あきちゃんの持っていた缶を取ってのぞき込みました。
「水捕ってら」
「ほっとけ、行くぞ」
 網を持った男の子が言いました。
「ここは、俺たちの場所なんだからな。分かったか」

缶をのぞいた子が言いました。
 ひろ君はうなずきました。
「ちびが怖がってるだろ。ふざけてないで行くぞ」
 また網を持った子が言いました。そして、
「いいんだぞ、だれの川でもないんだからな」

言い残してまた川をのぞきこみながら歩いて行きました。

 男の子たちの姿が見えなくなると、ひろ君は、黙って先へ歩き出しました。あきちゃんもその後からついて行きました。さっきまでの元気はなくなっています。
 少し行くと、水に濡れた泥と落ち葉の固まりが道の真ん中に落ちていました。先ほどの男の子たちが網の中の泥を捨てたあとです。
 ひろ君は、網の棒の先で、その泥を崩しました。するとピチッと魚がはねました。
「あきちゃん、缶」
 ひろ君は、大きな声で言いました。
 「いた」
 あきちゃんは、急いで缶を差し出しました。
 ポチッと音を立てて魚は水の中に沈みました。
「見せて」
 二人は缶の中をのぞき込みます。薄ネズミ色の小さなふなが、缶の隅でひれをふるわせています。
「あの人ら、ばかだね。いたのに」 
 あきちゃんが慰めるように言いました。
 ひろ君は何も答えません。あの男の子らのバケツに入っていたのは、大きなふなばかりでした。こんなちっちゃなのは相手にしていないのです。
「あ、泳いだ」
 あきちゃんが明るい声で言いました。
「大丈夫だ。元気だ」
 ひろ君も明るく言いました。どうであれ、待望のふなが手に入ったのです。
「行くぞ」
 二人は、また、意気揚々と先へ進んで行きます。

 日が高くなりました。土手の夏草が緑の炎をあげます。その中を、二人の頭と、担いだ小さな網が揺れながら進んで行きます。
 土手は遠くに続き、その向こう、はるかな山なみの上で空が輝いています。

 

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