ひろ君は、高いところがとても苦手です。
「おまえんち、女ばっかりだからな」
と、けん君は言うのです。
そう、ひろ君は、3年生にもなって、自分の背よりも高いところへ登るともうだめで、おなかがジンとなって、立っていられなくなるのです。
それが恥ずかしくて、ひとりでこっそり石の上に登ったりして練習するのだけど、そのたびに足がすくんで、どうもうまくいかないのです。自分の背丈もない石なのにと、悲しくなるのです。
けん君の言う事は本当かな、とひろ君は思うのです。時々、お母さんが、疲れたように座り込んでいたり、暗い蛍光灯の光のなかで、独り言を言いながら片づけものをしているのを見たりするとき、なんだか自分もすっかりくたびれてしまい、やっぱりお父さんがいないからなのかな、と思ったりするのです。
何かが足りないのです。いえ、何もかもが足りないような気がするのです。それをどうすることも出来なくて、おなかがジンとなってしまうのです。
去年のことです。ひろ君の学校に、新しい男の先生が来ました。ひろ君のクラスとはあまり関係のない先生だけど、けん君がすごくいい先生だと言っているのをよく聞かされたものだから、どんな先生かなとちょっと興味を持ったことがありました。
ひろ君は、気が小さいから、本当ならそれはそれでおしまいになってしまうのだけれど、ある時、けん君が、ひろ君のことを引っ張っていったのです。ひろ君は、行きたいような、行きたくないような気分で引っ張られていきました。
その先生は、朝礼台に腰掛けて四、五人の子らと話していました。そんな風に朝礼台に腰掛けて話す先生には今まであったことがありません。
釣りの話を得意そうに話している、けん君達のそばで、ひろ君は、その先生をちらちら見ていました。もし話しかけられたらどうしようと思うと、もう、逃げ出したくなってくるのです。けん君が、「お父さんと話したことがないからこいつ話さないんだよ」とでも言いそうです。
「君はなんていうの」
突然、先生が声をかけてきました。ひろ君は、びっくりして、思わず後ずさりしそうになりました。それでも、
「小林」
って、ちっちゃなちっちゃな声で答えました。言ってしまってから、しまったと思いました。「です」をつけなかったのです。いつもそんなとき、「です。でしょ」って、言い直させられるのです。でも、その先生は、そんなこと気もつかないみたいなんです。
「何年生なの」
「2年生」
だから、今度は、さっきよりは大きな声で答えました。でも、その後なんです、困ってしまったのは。先生は、
「お父さん、何してるの」
って聞いたんです。
そんな風に、大人の人は聞きたがるものなんです。ひろ君もそれは知っていたんです。いつもそうだから。でも、いい先生までそんな風に聞くとは思ってもいませんでした。だから、ひろ君は黙っていました。でも、黙っているのも悪い気がして、考えるような顔をしてから、
「わからない」
って、小さな声で答えました。お父さんのことを聞かれたときは、いつもそう言うのです。
「あれ、ひろんち父ちゃんいないくせに」
けん君がすかさず言いました。ひろ君は、下を向いていました。
「けん君、そんな風に言うもんじゃないんだよ」
「悪いことを聞いちゃったね。ごめんね」
覚えているのはそれだけです。その後どうしたのか忘れてしまいました。
秋になって、空が高くすんだ日が続くようになりました。木の葉が落ちだして、時々、冷たい風が吹きました。
ひろ君の、学校への行き帰りの道の途中に、大きな柿の木がありました。畑の端に、一本だけ、ぽつんと立って、道の上にまで、大きく枝を張りだしていました。
柿の実はだんだん大きくなり、黄色くなり、そのうち、葉がすっかり落ちて、赤い実ばかりが青い空のなかに無数にぶらさがりました。
その下を通るたびにあきちゃんは、
「ひろ君、あれ甘い」
と、聞くのです。
「ううん、渋いよ」
ひろ君は、いつもそう答えていました。でも、本当は、その柿が甘いのを知っていました。
「あの柿はな、葉があるときはだめだ。渋くて食えやしねえ。葉がなくなってからだぞ。うめえから。あんな甘え柿はちょっとないぞ」
けん君が、おまえにだけ秘密を教えてやるぞ、というように、こっそり教えてくれたのです。
秋も深くなって、柿の木の下には、いくつか、実が落ちました。でも、ひろ君は決してあきちゃんにそれを拾わせませんでした。日毎にその数は増えていきます。あきちゃんはいつもそれを振り返るのです。ひろ君もそれを拾いたいのです。でも拾いませんでした。
買ってもらえないから、拾うというのが嫌だったんです。それに、見つかることを考えたら、とても怖くて手が出ませんでした。みんなに知られて、「びんぼう」とか「どろぼう」とか言われるのも嫌だったんだけど、お母さんに知られるのがとても嫌だったんです。お母さんは、きっと泣いてしかるだろうなと、ひろ君は思うのです。
ある日、あきちゃんが熱を出しました。ひろ君も、あきちゃんも体は丈夫じゃなくて、病気には慣れっこになっていたので、最初はそんなに心配しませんでした。でも、三日たっても、四日たってもあきちゃんの熱は下がらないのです。そればかりか、だんだん弱っていくようにも見えるのです。今までもやせていたんだけれど、見ると、腕なんか糸みたいに細くなってしまったんです。
お母さんは、一週間ほど、仕事を休んで、あきちゃんのことを看ていたんだけれど、その次の週からは、また、働きに出ていきました。
ひろ君は学校で、勉強するどころではなくなりました。あきちゃんが、独りでいるのが怖くて、呼んでいるような気がして仕方なかったんです。呼んでも誰もいなくて、出ない声で、お母さんや、自分を呼びながら、寂しがりながら、死んでいくような気がして、気が気ではなかったんです。
それで、先生に、わけを話して、帰ろうと考えたのです。でもどうしても話せませんでした。
それでも二回も先生のそばまで行ったんです。一回目は他の人と話していたのでとうとう話せなくて、二回目は、なんだか忙しそうにどこかへ行ってしまって話せなかったんです。でも、そうでなくても話せなかったような気もします。
ひろ君は、諦めて帰りを待ちました。長い一日でした。
ひろ君は、走りました。息が切れて、もう走れなくなって歩き出すと、あきちゃんが死にそうになって自分を呼んでいるような気がして、また走り出さずにはいられなくなるのです。ランドセルがとても重いのです。身体も小さく、人一倍走るのが遅いのだけれど、それでも、走り続けました。
ハーハー息をしながら、玄関の前に立って、中の様子をうかがいました。家の中はしんとして、なんの物音もしません。
「もう待ちくたびれて、死んでしまったんだ」
そう思うと、急に怖くなりました。頭を、そっと玄関の中に入れて、あきちゃんの寝ている方をうかがいました。小さな家だから、玄関からでも、すぐ寝ているところが見えます。上を向いて、目はつぶっています。青白い顔はじっと動きません。
「だめだ」
身体から、汗がすっと引きました。ちょっとの間とまどって、それからそっと靴を脱ぐと、四つん這いになって這っていきました。こわごわ顔をのぞき込みました。小さな寝息が聞こえます。詰めていた息が、ふうっと出ました。ランドセルを背負ったまま、そこに座り込みました。汗がまたどっと出てきました。
ランドセルを部屋の隅に音のしないように置くと、さて、何もすることがなくなってしまいました。心臓麻痺か何かになって、倒れたきり死んでしまうのじゃないかと思ったくらい苦しい思いをして走ってきたのに、帰ってみたら何もすることがないなんて、なんか変な具合でした。それで、夏祭りのときに買ってもらった、もう、表紙のとれかかった漫画の本を持ってきて、あきちゃんを起こさないように、出来るだけ離れて腹這いになって読み始めました。でも、ひとつもおもしろくないんです。もう、何回も、何十回も読んで、すっかり覚えてしまった本だからという事ではないんです。今までは、いつ読んでもおもしろかったんですから。
ひろ君は、本を置くと、壁にもたれて、あきちゃんを見ていました。枕元の御飯は朝見たままです。宿題をやろうかなと思いました。でも、壁にもたれたままでした。
玄関の戸が不意にガラッと開きました。
「かあちゃん」
ほっとして呼びました。
「おや、ひろ君帰ってたの」
隣のおばさんでした。おばさんは、上がり込んでくると、あきちゃんの額に手をおいて、ひとりでうなずいていました。
「お利口だね。よく見ててあげるんだよ。用があるときは呼びなさい」
そういえば、この前お母さんが、あきちゃんのことを頼みに行ったのを聞いたような気がします。
それから、部屋は、また、しんと静かになりました。窓から、秋の日が、明るく入っていました。ひろ君は、漫画の本をまた開きました。
しばらくして、あきちゃんが目を覚ましました。力のない目が少し周りを見回してひろ君の顔を見つけました。あきちゃんの目が笑いました。ひろ君も笑い顔になって、あきちゃんの方へ這っていきました。あきちゃんも、ひろ君の方へ来ようとするように寝返りました。でも、起きあがれませんでした。
「ご飯食べた」
「ううん」
「少し食べなきゃだめだよ」
大人ぶって言いました。そして、お母さんがするように、あきちゃんを助けて座らせてやると、枕元のご飯をスプーンで口に運んでやりました。でも、二口も食べると、
「もういい」
と言って、また寝てしまいました。ひろ君はがっかりしました。あきちゃんは、そんなひろ君の顔を見て、
「お水のみたい」
と言いました。
「よし」
ひろ君は、大急ぎで水をくんできました。
でも、その水もあんまり飲まなかったんです。ひろ君は、なんだかとても寂しくなりました。
ひろ君は、けん君が、学校に持って来たべいごまの事や、迷い込んできた犬のことやなんかを話しました。おままごとまでしようとしたのですが、あきちゃんは疲れた顔で、ときどきちょっと笑うだけなんです。そのうち、ふっとまた眠ってしまいました。
ひろ君は、そのそばに寝ころぶと、かすかな寝息に、いつまでも聞き耳を立てていました。
秋の日も窓から離れ、部屋は、だんだん暗く、冷たくなっていきました。
次の日も、やはりひろ君は落ち着きませんでした。妹が病気だからって、先生は帰してくれっこないし、そんなことを言ったら、みんなはきっとずるだって言うに決まっています。
二時間めのチャイムが鳴ったとき、それでもひろ君は立ち上がりました。ふらふらっと先生のそばまで行ったのだけれど、なんと言っていいのかわかりません。
「どうした」
先生がひろ君の顔を見ながら言いました。ひろ君は、思わず下を向きました。いつもなら、黙ったまま首を振って、それから逃げていくのだけれど、今日は頑張りました。
「頭が痛いんです」
下を向いたまま、小さく言いました。
「頭が痛いのか。どれ」
先生は、ひろ君の額に手を伸ばしてきました。ひろ君は、そんなことは考えてもいませんでした。額に手を伸ばしてくるなんて。ふだん、話しさえそんなにしたことがないのですから。
「熱はないみたいだ」
先生は、そう言うんです。そして、すこし考えて、
「よし、ちょっと松山先生に見てもらおう」
と言って立ち上がりました。
松山先生は、保健の先生です。ひろ君の嘘などすぐ見破ってしまうでしょう。ひろ君の頭はぐるぐると回りました。
ひろ君はひどい病気だと、先生の後をついていくひろ君の顔を見たならだれもが思ったでしょう。
「治りました」何度もそう言おうと思ったんです。でも言えませんでした。
「頭が痛いらしいんです」
ひろ君は堅くなって立っていました。
「熱はないと思うんだ」
「そうですか。じゃ、そこに座って」
松山先生は、そう言って、やはりひろ君の額に手をやるのです。学校で初めて、額に手を当てられたのがさっきで、これで、もう二回めです。でも、すぐ嘘が見つかって怒られる、と思うとそれどころではありませんでした。
「熱はないようなので大したことはないでしょう。一応計っておきましょう」
「それじゃあ、お願いします」
担任の藤井先生はそう言って出て行きました。ひろ君は、少しほっとしました。
「時計読める。あの時計で7のところまでよ」
ひろ君は、とても惨めな気持ちで体温計を挟んでいました。秒針が時を刻みながら回っていきます。動かない長針が頼みの綱なのに、それさえも7の数字にどんどん近づいていくのが見えるようです。
(あと少しで熱のないのがわかってしまう)
少しでも熱が上がるように体温計をぎゅっと挟みました。
(本当に熱があるといいのになあ)
ひろ君は思いました。でもそんなことはおこりっこないのはわかっています。
(なんだってうまくいきっこないんだから)
ひろ君はいつものように思いました。
本当のことを言おうかな、と先生を見ました。先生は、何か一生けんめい書き物をしています。ひろ君は言いそびれてしまいました。
「熱はないわね」
体温計を見ながら、先生が言いました。ひろ君は、じっと身をすくめて下を向いていました。
「まだ頭痛い」
先生は、しゃがみ込んで顔をのぞき込みます。ひろ君は目を合わさないようにしてこっくりをしました。
「何かいやなことあったの」
なんだか変なこと聞くなあと思いながら、ひろ君は首を横に振りました。
「友達と喧嘩したの」
今度はひろ君も訳が分かりました。病気じゃないのがばれてしまったのです。ひろ君は慌てて首を振りました。そして、じっと身をすくめました。
「そう、少し休んでいきなさい」
なにもしゃべらないひろ君に話しかけるのをやめて言いました。立っていくと、ベットを整えて、ひろ君を呼びました。ひろ君はのろのろとそちらに歩いていきました。
学校じゅうがしんとしていました。遠くから、歌う声が小さく聞こえてきます。
こんなふうになるなんて思ってもみませんでした。みんなは教室にいて、自分だけこんな所に寝かされているなんて。ひどく惨めでした。治りましたって、言おう言おうと思いました。そう思いながら、言い出せないまま身じろぎもしないで目を閉じていました。なんだか、本当の病人になってしまったようです。
「どうでした」
藤井先生が入ってきて、カーテンの向こうで話しているのが聞こえました。
長い一時間でした。
「たいしたことはないと思うんですけど、よくならないようでしたら帰しますか」
保健の先生が答えています。その言葉を聞いたとたん、今までの暗い気分が吹っ飛んで、跳び上がりそうになりました。
「そうしますか。しかし、家に誰もいないんじゃないかな」
「いないんですか。困りましたね」
帰れるのか帰れないのか、ひろ君はどきどきして聞いていました。
カーテンが開いて先生が顔を出しました。
「どうだ治ったか」
ついさっきまであんなに嫌な気持ちだったのをけろっと忘れて、ひろ君はできるだけ病人らしい顔をして首を横に振りました。
「帰るか」
ひろ君は嬉しさを一生懸命隠して、できるだけ病人らしい顔をして弱々しくうなずきました。
「家に誰かいるか」
「はい」
「迎えに来てもらうか」
「妹が病気で寝てるんです」
「そうか、困ったな」
「一人でも帰れます」
思わず大きな声を出して、ひやっとしました。
「そうするか。そんなに遠くないしな」
「それじゃ、起きられるようになったら教室に来なさい」
先生はそれだけ言うと、さっさと行ってしまいました。ひろ君はすぐにも飛んで行きたかったんだけれど、すぐ行ったら、「なんだ、元気なんじゃないか」と言われそうな気がして、少しじっとしていました。でも、一分も我慢できなくて、そろそろと、病人らしい歩き方で教室に行きました。
教室には先生はいませんでした。ふだんからあまり友達もいないので、心配してひろ君に声をかける子もいません。
それで、仕方なく、ランドセルに教科書を入れて、ぼんやり机の脇に立っていました。誰か気が付いてくれないかなと回りをちらっと見回したんだけれど、だれも遊びに夢中です。(けん君なら)と思いました。でも、けん君も外へ遊びに行っているのかいません。
勉強の始まりのチャイムが鳴りました。ひろ君は仕方なく席に座りました。先生が来て、勉強が始まりました。先生は、ひろ君のことに気がつきません。ひろ君は泣きたい気持ちでした。
そして、ひろ君は最後まで学校にいたのです。(そうなんだ。いい事なんて絶対おこりっこないんだ)何度も何度もそう思い続けながら。
ひろ君は頑張って走りました。でも、昨日ほど元気よく走れませんでした。息が切れて歩いている方が多かったんです。
いつもの柿の木の下に来たときには、すっかりくたびれて座り込みたくなっていました。柿の実が、青い空の中で無数にぶら下がっていました。「ああ、そうだ」と、ひろ君は思いました。(あきちゃんに持っていってやろう。いつもほしがってて、このまま死んじゃったら、とうとう食べられないままになっちゃうんだから)
ひろ君は、辺りをそっと見回しました。胸がどきどきしています。誰もいません。そっと手を伸ばしました。とどきません。後少しなのにとどかないんです。棒はないかと見回しました。でも、それもないのです。
でも、ひろ君は諦めませんでした。今日こそ早く帰ってやろうと思ったのにとうとう帰ってやれなかったのです。
ひろ君はランドセルを置くと幹にしがみつきました。最初はとても登れそうになかったのだけれど、うんうんやってるうちに、一番下の枝に手がかかりました。
やっと、その枝にはい上がったときには、もう汗だらけになっていました。ところが、下から見るとすぐそこにあるように見えた枝なのに、登ってみるととても高いのです。ひろ君は生まれて初めてそんな高い所へ登ってしまったんです。
ひろ君は夢中で枝にしがみつきました。身体が冷たくなって、汗がにじみ出ました。
でも、ひろ君は頑張りました。すぐそこに柿の実が見えます。少し前に進んで、手を伸ばせば、とどきそうです。下を見ないで、下を見ないでと、念仏のように頭の中で唱えながら、そろそろとにじり寄っていきました。いつも石の上で練習したように。身体がじんとして、おしっこが出そうになりました。それでも、ひろ君は少しずつ登っていきました。どうしてもその柿がいるのです。
後少し。そっと、手を伸ばしてみました。まだとどきません。また少し、登りました。枝が揺れ、身体がぐらっとしました。ひろ君は思わず目をつぶって枝にしがみつきました。枝の揺れがおさまるのが、とても長く感じられました。揺れがおさまると、またそろそろ手を伸ばしていきました。両手でつかまっているのさえやっとなのに、片手を離して伸ばすなんて、怖くて身体が震えてきます。伸ばした指先が、柿の実に触れました。後少し。ひろ君は思いきって手を伸ばしました。
「こらあ」
大声がひびきました。ひろ君はびくっとなって、縮み上がりました。そのとたん体がぐるっと回りました。枝が手から離れ、そのまま、どすんと地面に落ちていました。ウッと、息がつまって声も出ません。母ちゃんに言いつけられるぞ、と思って逃げようと思うのだけれど、身体が動きません。バタバタと、誰かが走ってきます。(ああだめだ)ひろ君の頭の中で火花がぐるぐる回りました。
「おい、だいじょうぶか」
怒られると思っていたひろ君は意外でした。
「どこ打った」
ひろ君は少し安心しました。すると急に身体のことが心配になってきました。胸や、おなかがずうんと重苦しいのです。内蔵がめちゃめちゃになって、このまま死ぬんだと思いました。すると怖くなって涙が出てきました。
「小林さんちのひろ君ていったか。泣くんな。それくらいじゃどこも痛めてねえよ」
おじさんは、ひろ君のことを知っているようです。ひろ君はもう、泣いてもいられない気がしてきました。
ひろ君は、あきちゃんの横で寝転がっていました。
隣のおばさんは、お母ちゃんに言うだろうなと、さっきからそのことばかり考えているんです。
ひろ君は、耕耘機に乗せてもらって、おじさんに送ってもらいました。一生懸命、大丈夫だからと言ったんだけれど、おじさんは送ってきたんです。でも、お母さんはいないから、ばれやしないと、道々ひろ君は思いました。でも、家に着いたとき、耕耘機の音で、隣のおばさんが出てきたんです。
「柿の木から落ちてね。てえしたことあねえんだが」
(ああ、これで終わりだ)ひろ君は目の前が真っ暗になりました。
ひょっとして、隣のおばさんが黙っていたらと、ひろ君は考えるのです。でも、そんなにうまくいきっこないのをひろ君は知っているんです。
「ひろ君」
あきちゃんが呼びました。
「うん」
わざと間をおいて、ひろ君はつっけんどんに答えました。みんなおまえのせいだぞと言いたかったんです。
「痛い」
あきちゃんはすごく心配そうにひろ君を見ていました。
「へっちゃらさ」
そんなあきちゃんの顔を見て、怒ったのが悪くなって、元気そうに飛び起きました。
「よし、柿洗ってやっからな」
さっき、「言えばいくらでもやるのに」といって、おじさんが持たせてくれたんです。
「うまいか」
ひろ君は、腹這いになってあきちゃんを見ていました。
「うん」
あきちゃんの顔の半分もありそうな、大きい柿は、良く熟して、柔らかそうでした。
「皮むいてやっか」
あきちゃんは少しかじっただけなんです。
「ううん。いい」
「ひろ君も食べる」ひろ君はちょっと考えて、「ひとくちだけ」と言って、あきちゃんの差し出した柿を少しかじりました。
「大丈夫。心配するな」
ひろ君は強がって見せました。 あきちゃんは、黙ってまたひとくちかじりました。そしてひろ君に差し出しました。ひろ君は、それをそっとかじりました。あきちゃんの指先が唇にさわりました。熱のためか、暖かい指でした。あきちゃんが小さく泣きました。
「大丈夫だったら。泣くなよ」
ひろ君はがんばりました。
早い夕暮れに、部屋がしんと冷えてきました。
その夜、ひろ君は少しだけ怒られました。ほとんど食べずに残してあった柿を見られて、話したのです。
ひろ君は泣きながら、眠ってしまいました。怒られたから泣いたわけじゃないのです。お母さんが、悔しそうに、悲しそうにしていたのが辛かったのです。
「ひろ君」と呼ぶ声に目を覚ましました。窓から入ってくる白い月の光の中で、あきちゃんがこっちに顔を向けています。ひろ君が起きたのがわかったのか、手を伸ばしました。ひろ君はその手を握ってやりました。
久しぶりに、ひろ君はあきちゃんと学校へ出かけました。柿の木は上の方に、黒ずんでしまった実を少しぶら下げて、木枯らしに揺れていました。霜が田や畑を一面の灰色に覆っていました。
ひろ君は、なんだか嬉しくって、霜柱を握ってきて空にパッと放り投げました。霜柱は、木枯らしの中で無数に砕け、朝日に光りました。
「駆け足すっか」
手に残った霜柱を振り飛ばしながら、あきちゃんを振り返りました。あきちゃんは笑いました。
ひろ君は、あきちゃんの回りをはねながら、いろんな話をしました。もう一度高いところへ登る練習を始めることなんかも。