ゆ う べ

 ひろ君は窓から外を確かめた。日はすっかり傾いて、西の空からずうっとこちらの空の半ばまで夕焼けが広がっていた。
「埋め立て、行っていい」

 ひろ君はお母さんにきいた。

「もうすぐご飯だから、少しだよ」

「うん」と言うと、「行こ」とあきちゃんに声をかけながら、靴を引っ掛けて外へ飛び出した。
「うん」
あきちゃんも大急ぎで靴を履くとひろ君の後を追って飛び出した。

 二人は、この何日か、そうやって夕方になると飛び出していた。
 
 場所には場所なりの価値があるものだ。
 家の前の用水路は、船に見立てた木やかんを流すにはもってこいだし、夏にはとんぼや、蛍だって飛ぶ。裏の小さな原っぱだって、何の役にもたたないようだけど、鬼ごっこをしたり、かくれんぼをするのにはもってこいだ。まだ、春もそんなに過ぎていないときには、草も短くて、べたっと腹ばいになって隠れてみても、丸見えですぐに見つかってしまうのに、みんなその草の中に隠れたものだ。

 そう、どんなとこだって役立つものなんだ。
 ところが、埋め立てだけはまるでなんの役にもたたない場所だった。
 そこがそうなる前は、雑木林がずっと広がっていて、ひろ君にとっては夢の場所だった。夏には蝉がうるさく鳴き、真っ黒い蝶が飛び交った。

「おおむらさきを見たぞ」

けん君が得意げに言ってたのもその場所だった。
 しかし、その林の価値は、なんといっても、くわがたやかぶと虫がいるということだった。といっても、ひろ君は自分ではまだ捕ったことはなかった。けん君は、捕るのがいやになるくらいうじゃうじゃいるという。夜か、朝早く行かないと捕れないという。夜そんな林の中に入っていくなんて、考えただけでも恐ろしかった。朝ならと思っても、とてもそんな早起きはできそうになかった。もし起きられたとしても、お母さんが許してくれるとは思えなかった。いつか大きくなったら。そう、中学生になったらきっと捕りに行こう、とけん君の話を聞くたびに思ったものだ。 

 その林が今はもうすっかりない。ある日、その林に、人や、トラックや、いろんな機械が入ってきて、木をどんどん伐り倒していった。木がすっかりなくなると、トラックが次々と土を運んできた。そしてブルトーザーがその上を走り回って平らにならしていった。ひろ君は遠くからそれを眺めていた。ブルトーザーを見るのは初めてだった。
 「あれキャタビラってんだぞ」
けん君が得意げに言った。
 ひろ君は(あれはブルトーザーていうんだ)と思いながら、土の山の中を、轟音を立てて自由自在に土砂を押していくブルトーザーを飽かず眺めていた。
 しばらくすると、トラックもブルトーザーも姿を消した。後には、だだっ広い、がさがさの広場ができた。
「工業団地ができんだぞ」
 どこから聞いてきたのか、けん君が言った。しかし、いつまでたっても工場は建たなかった。工場どころか、倉庫も、家も、物置さえ建たなかった。
 そのことを言うと、けん君は「ふきょうだからな」と、大人のようなことを言った。

 もと、夢の林だった埋め立て地は、そのまま、いつまでもかさかさの荒地のままだった。次の年の春に、申し訳のようにまばらに草が生えた。ただそれだけだった。何の役にも立たなかった。だから、ひろ君はそこへ行かなかった。ひろ君だけではなく、ほかの子も寄り付かなかった。もちろん大人たちだって、犬のトイレに、ちょこっと端っこで立ち止まるのがせいぜいだった。犬のけ上げた土ぼこりがうっすらと舞った。

 ところが、夏のある日、不思議なことが起こった。夕方になると、三々五々人が集まった。日が沈んで、空にまだ明かりが残っているころになると、埋め立て地のあちこちで、ゆっくりと散歩する人たちが、残りの夕焼けにほんのり染まったり、夕闇ににじんだりした。

「大丈夫。まだだ」
 ひろ君の背より高く盛り土をしてあるその広場に駆け上がると、後ろからやはり駆け上がってきたあきちゃんに言った。
 広場は、もう、あちこちに人が出ていて、夕やけの中を人のさざめきが流れていた。
「遅っそいなあ」
 けん君が立っていた。
「うん」
 別に待ち合わせていたわけじゃないんだから、と思ったのだけれど黙っていた。
「まあ、まだだからな」
 空の赤みは、東のほうから紺色に変わりだしていた。
「今日こそ見つけるぞ」
 けん君が言った。僕だって、と思ったのだが、ひろ君は黙っていた。
「よし」
掛け声とともにけん君は草原に飛び込んでいった。

「行こう」
 ひろ君も草むらに走りこんだ。あきちゃんもはねるようにその後を追った。
 

 昼間は誰も寄り付かないただの荒地が、今は、無数のろうそくを灯して輝いていた。
 ろうそくの炎は、月見草のつぼみだ。そのつぼみが、幾千、幾万と光っていた。ひろ君の中指ほどもある大きなつぼみは、包んでいた薄い皮を脱いで、きゅっと巻いた黄色の花びらをゆうべの中に突き上げていた。

 けん君が「今日こそ」、と言って、ひろ君が「僕も」と思ったのは、そのつぼみが開くところを見ることだった。三人は、もう何日も挑戦しているのにまだだめだった。
 「開くとき、ポンて音がするんだぞ」
 けん君はそんなことも言っていた。
 ひろ君は、つぼみからつぼみへ走り回った。(これはもう開く)ひろ君はそっとそのそばにしゃがみこんだ。つぼみは端のほうがもうほころびかけていて、ちょっと風が吹けばハラッと一気に開きそうだ。ひろ君はじっと待った。だけど風は吹かない。つぼみはいつまでも動かない。
 ひろ君は待てない。指で花びらをそっと引っ張ってみる。ぐしゃぐしゃのまま広がる。それじゃ意味がない。そんなことをしているうちに、ほかの花がみんな開いてしまいそうに思えてじっとしていられない。
「ひろ君こっち。もう開くよ」
 あきちゃんが呼んでいる。ひろ君はそちらへ慌ててかけていく。
「ほら、これ」
 本当に、もうハラハラと、一気に開いてしまいそうにつぼみが緩んでいる。二人はしゃがみこんでつぼみを見上げる。ちょっと風が吹けばハラッと開く。だけどその風が吹かない。
「ちょっとほか見てくる」
ひろ君はまた走り出す。次々につぼみをのぞいては立ち止まり、また走り出す。つぼみは無数にある。見渡す限りのろうそくの炎、炎。その炎がどれもこれも崩れかけている。あきちゃんも「ひろ君、これ、これ」と走り回る。
 気がつくと、あちこちに、開いてしまった花がある。
「これ、大きい」
あきちゃんが大きな声でひろ君に呼びかける。
「すごい」
ひろ君も立ち止まる。その淡い黄色の花は、あきちゃんの顔の半分もありそうなくらい丸く、大きく開いて、かすかな青い香りをただよわせた。
「早く。みんな開いちゃう」
ひろ君は、ますますじっとしていられない。
「こっち。開きそう」
あきちゃんが呼ぶ。
「こっちも」
ひろ君が答える。あきちゃんがかけて来る。そして二人は走る。もう、野原は一面の満開の月見草。
「わあ」
あきちゃんが立ち止まる。
「わあ」
ひろ君も立ち止まる。
一面の黄色の海の向こうに、大きな月が上がっている。二人は、その中で、影法師。
「おばけだあ」

けん君が花の陰から飛び出した。

 ひろ君は「ぎゃ」といってとびあがった。あきちゃんも「きゃ」と言ってとびあがった。

 三人は夢中で笑いころげる。

 

 月見草はそのとき限りだった。けん君が言ったように、その後そこには大きな工場が建った。そして、ずっと後、大人になったひろ君はそこで働くようになった。そう、どんなところだって役立つ場所になるものなんだ。

 

 夏のゆうべ、仕事帰りに、道端のアスファルトの隙間から、ひょろっと伸びて、小さな干からびた花を咲かせている月見草を見つけた。ひろ君はふっと昔を思い出す。(あの月見草はこんなじゃなかったなあ)と。あんなに大きく、丸く開く月見草にあれ以来であったことがない。(あの月見草の原っぱは、夢だったのかあ)と、ひろ君はそれまでも何度か思ったことを、また思う。あのゆうべにまたであってみたい、と。

 

 

『冒険者たち』目次