ふ な

 

 外はとってもいい天気でした。家の前の道の向こうに広がる田んぼでは、あっちでもこっちでもカチャカチャ音を立てて田植え機が走っていました。田んぼと道の間の細い用水路は、日の光をきらめかせながら、今にもあふれそうに流れています。

 あきちゃんが用水路にポンと小枝を投げました。小枝は波に乗っておどりながら流れていきます。ひろ君はそれに向かって「えい」と小さな石を投げました。しぶきが上がって光りました。水のわも光りながら流れて行きます。

 本当は、あぶないから用水路で遊んではいけない、とお母さんに言われているのだけれど、二人は次々に草の葉や小枝を投げては、水にくるくるまきこまれてはすばやく流れていくのを追いかけて行きました。

 そのときです。「おい」と、とつぜん声がしました。ひろ君は飛び上がりました。いつのまにか同じクラスのけん君が後ろに立っていました。ひろ君はほっと息をつきました。それから、こまった顔でけん君を見ました。

 けん君は、スポーツがとくいで、力が強く、そのうえちょっとおっかないのです。だからいつもちょっとけむったいんです。

「何してるんだ」

 けん君が言いました。

「ううん」

 ひろ君は、小さく答えました。

「おい、ふなとり行かないか」

 ひろ君はびっくりしました。今まで一度だってけん君にさそわれたことなどなかったからです。

 このまえ、けん君が学校でふなとりのじまん話をしていたのだけれど、それと自分とは関係のない話だと思っていたのです。

 ひろ君の頭はぐるぐるしました。お母さんに「あぶないからだめ」と言われそうだし。あきちゃんのめんどうも見なくてはならないし。でも行きたいのです。

「あきちゃんも連れていっていい」

 ひろ君はおずおず聞きました。

「だめだ、だめだ」

 けん君はあきれたというように言います。

「ちびはだめだ。足手まといだ」

 そして、「おい、行くぞ」と言ってさっさと歩き出だしたのです。
 ひろ君はこまってしまいました。行きたいけど行けないし、行けないけど、行きたいのです。
「早くしろよ」
 けん君が少し怒ったような声で言います。
 ひろ君は、少しおっかなくなりました。
「兄ちゃん、ちょっと行って来るからな。ここで待ってろな。いいか、 もう川で遊んじゃだめだぞ」
 あきちゃんの顔をのぞき込みながら、お兄さんぶって言いました。
「母ちゃんに言っちゃだめだぞ」
「うん」
 あきちゃんはうなずきました。
 ひろ君はけん君の後を追って駆け出しました。けん君は、もうずっと先を歩いています。

 

 しばらくしてふり返ると、あきちゃんが、かげろうの向こうでぼんやりゆれながら、用水路のそばにしゃがんで、やっぱりなにかを投げているのが遠くに見えました。
 ひろ君は、急に、もうふなとりなんか行きたくなくなりました。でも、ことわる勇気はありません。ふり返り、ふり返りけん君の後をついて行きました。

 

「おい、そのビニール袋ひろっとけよ」

 けん君が指さしながら言いました。

(ああそうか)と、ひろ君は思いました。さっきから、ひろ君は、けん君がふなを捕るあみも入れ物も持ってないのを変だと思っていたのです。そのビニール袋をひろいながら、これにふなを入れてくるんだなとなっとくがいったのです。
 それで、今度は自分のビニール袋がないものかと、きょろきょろしながら、ついて行きました。それで、あきちゃんのことはもうすっかりわすれてしまいました。

 

 二人はずんずん歩いていきました。大きな竹やぶをぐるっと回ると、そこはもうひろ君の知らないところでした。
 竹やぶの根っこを洗うように川が滑っていきます。それは、ひろ君の家の前にある小ちゃな用水路とはまるで違って、深くすき通って、音もなく流れていく本当の川でした。川の向こうから、竹やぶが川におおいかぶさって影を落としています。太い竹の子が、何本も顔を出していました。
 のぞくと、木もれ日が川底の石の上で無数におどっています。吹いてくる風もひんやりしています。
 ひろ君は、(そうか、ここか)と思いました。大きな子が釣りに行ったと話しているとき必ず出てくる、(ここがあの大曲の竹藪だ)
 ひろ君はうれしくてぞくぞくしました。みんなの秘密の場所に自分も入れたのだと思いました。でも、けん君は見向きもしないでどんどん歩いて行きます。
 ひろ君は(え)と思いました。よっぽど聞こうかと思ったのですが、 やっぱりだまって後に付いて行きました。
「あそこはな、カッパぶちっていうんだ。あんなとこでふな捕ってたら引っぱり込まれるぞ」
 けん君はひろ君の心を見すかしたように言います。

「こっちだ」 
 言いながら下のあぜ道にかけ下りました。
 ひろ君はどうしようかとまよいました。あぜ道はぐちゃぐちゃにぬかっていて、かけ下りていくとくつがどろだらけになりそうです。ひろ君はくつを一足しか持っていません。今よごしてしまっては、明日学校へはいていくくつがなくなります。
 けん君はもうずっと先に行ってます。ひろ君は後ろ向きに四つんはいになると、土どめの芝につかまりながらゆっくりと降りていきました。
 芝の中には、黄色や白やピンクの花が咲き競っています。でも、今は花どころではありません。

 やっと下に着きました。けん君はずっと遠くに行ってしまっています。
(後で、どろは落とせばいいや)
 それでも、なるべくくつをよごさないように、できるだけかたいところを選んで一生けん命後を追いかけました。
「何してんだ。遅いなあ」
 やっと追いついたとき、けん君が言いました。
 ひろ君は、下を向いてだまっていました。ひろ君はいつもそんなふうに下を向くのです。
「見ろ、もう四匹もとったんだから。袋早くかせよ」
 そこは、この辺りではめずらしくなった、造成されていない小川のままの用水路です。ひろ君のうちの前にある用水路のように、コンクリートではありません。その小さな川は、風に若葉を光らせている、向こうの雑木林から流れ出てきます。
 ひろ君がビニール袋を差し出すと、ひったくるようにけん君はそれを取りました。
 どこにふながいるのかと見ていると、川のわきにどろで作ったかこいがあって、その中を手ですくっています。すくい上げた手の中でなにかがきらっと光りました。らんぼうなけん君ににあわず、そっとそれを袋の中に落としました。ビニール袋の中で、それはビビッとふるえ、銀に光ったかと思うと溶けるように見えなくなりました。
 けん君は何匹かそうやってビニール袋に入れました。入れる度に銀の花火が光ります。そして、ふっと消えてしまいます。
「ほら、これで全部だ。持ってろ」
 けん君は、袋をそっとひろ君に渡しました。おっかなびっくり受け取ったとたん、また、銀の花火がばくはつしました。ビビッとしんどうが伝わり、電気が走ったように手をしびれさせます。ひろ君は思わず落としそうになりました。
 でもそれは始まったときと同じように、ふっと消えてしまいました。
 ひろ君はそうっと袋を顔のそばまで持ち上げました。するとまた電気が走り、銀の花火がまんげきょうのように広がりました。でも、またそれはふっと消えてしまいました。
 そっと顔を近づけると、いました。袋のすみに小さな魚が何匹か、頭を寄せ合ってひれをかすかにふるわせています。その、小指の半分ほどもない魚は、にじんで、まるで水にとけこんでいるようでした。

「ほら、一匹。袋もってこい」
 けん君が向こうからさけんでいます。
 ひろ君ははっとしてそっちを見ました。そのとたんにまた手がビビッとふるえました。
 ひろ君は、ぬかったあぜ道を、くつを汚さないようにおっかなびっくり歩いて行きました。
「早くしろよ」
 けん君は、両手をおわんのようにして、水の中に突っ立っています。怒るばかりで、自分は一歩も動きません。そして、ひろ君のさしだしたビニール袋の中に手の中のものをぽとっと落としました。また、銀の光が飛び散りました。

 ひろ君もふなをとりたくてしかたがありません。でも、そこはけん君の場所だから、けん君のきょかがなければとることはできません。
「ねえ、ぼくも捕っていい」
ひろ君は、おずおずと聞きました。
「だめだめ、おまえには無理」
 けん君は、あきれたという風に、水の中に入れた手をそっともの下に忍ばせていきながら、こちらを見もしないで言いました。ひろ君はそれでも、
「大丈夫だよ」と、もっと小さい声で言いました。
「じゃ、少しだけだぞ」
「うん」
 ひろ君は、大喜びでくつをぬぎました。そして、そっと、足を水の中に入れました。水は予想以上に冷たくてブルッと、身ぶるいしました。ぬるっとしているかと思った川底はいがいに砂でざらざらしていました。その砂が足をちくちく刺します。でも、痛いなんて気になりません。
 けん君のように、そっと手を水に入れると、もの下をさぐってみました。何もいません。
「おうい。また捕れたぞ」
 けん君がまた呼びます。ひろ君は慌てて小川の中をざぶざぶ渡っていきました。
「おまえには無理だよ」
 けん君がまた言いました。
 でも、ひろ君はそんな言葉は気にしません。生まれて初めてのふなとりなのです。
 そしてまた、水に顔をつけるようにして探しました。見よう見まねで、流れの中のもにそっと手を入れていきます。もが、さらっと手にまとわりつくようになでます。
 とつぜん、ピッと指先で魚がはねました。びくっとして、ざばっとすくいました。でも、そっと開いた手の中は、もだけでした。
 ひろ君は、次の場所へそっと歩いていきます。もは、いくらでもあります。左手でビニール袋をささげ持ちながら、右手でそのもを次々にすくっていきました。その間にも、何度もけん君に呼ばれて、水をざぶざぶ渡っていっては、こぶなを入れました。

 とうとう捕まえました。握ったもの中でピッと動く感触がありました。ひろ君は、そのまま岸に飛び上がりました。そこで開くと、はねたふなが水の中に落ち込んでしまわないともかぎらないからです。そうっと手を開くと、もの間から銀色の光が見えます。ひろ君の手が震えました。

「おおい、けん君捕れたよ」
 ひろ君は思わず大声で叫びました。でも、ケン君は振り向きもしません。
「ほんとだよ。自分で捕ったよ」
 もっと大声で言いました。それでもけん君はこっちを見ません。ひろ君はちょっとがっかりしました。でもそれどころではないのです。入れ物がないのです。早くしないと死んでしまいます。けれど、この袋はけん君のです。入れるわけにはいきません。それに、もし入れたとしても、どれが自分のふなかわからなくなりそうです。そしたら、「じゃ、だめだ」とけん君が持っていってしまいそうな気がするのです。

「けん君ここ一緒に入れていい」
ちょっとおろおろしながら言いました。
「いいから、静かにしろ」
 けん君は水の中を探りながらぶっきらぼうに言いました。
「みろ、逃がしたじゃないか。でっかいのがいたのに」
 ひろ君はいよいよ困ってしまいました。でも、入れなければ死んでしまいます。手の中のもごと岸に置くと、そっとふなをつまみ上げて袋の中に入れました。とたんにビビッと、光のばくはつが起こりました。静かになったときは自分のがどれかわからなくなっていました。
 どうしようと思ってもしかたありません。これが僕のだと、もう言えなくなったのです。
 それで、斜めになった土手に、すべりそうなかっこうで自分のはどれかと夢中で袋をのぞいていました。
 すると、お尻が冷たいのです。今まで気がつかなかったのです。身体をねじってズボンを引っ張ってみると、お尻にいっぱい泥が付いています。もう、ふなどころではありません。ひろ君は、その泥を手でぬぐいました。どろは広がるだけでした。
 思い出して靴の所へ行きました。靴も泥でずいぶんと汚れています。その靴を水の所へ持って下りると、全部が濡れてしまわないように、そっと洗いました。それでも靴は半分ほど濡れてしまいました。
 ひろ君は、その靴とビニール袋を提げて、またけん君のそばへ行きました。帰ろうと言おうとしたのだけど、言えずに、時々ズボンを気にしながら立っていたのです。
 けん君は、そんなことにはおかまいなしに、ふなを捕っていました。ひろ君は言われるたびに袋をさしだして、けん君が帰ろうと言うのを待っていました。
 いつの間にか日が傾いて、風が冷たくなってきました。よく晴れた日だったけれど、四月の夕方の風です。濡れたお尻が痛いくらいです。

 二人は、ぶらぶら帰って行きました。濡れた靴も冷たく、震えそうでした。それ以上に、気持ちが沈んでいました。子供だけで、こんなに遠くに来たのは初めてだったし、お母さんに話さずに出かけたのも初めてだったのです。
 早く帰らなくっちゃという気持ちと、帰ったらしかられるという気持ちとがごちゃまぜでした。
 

「おい、あそこ秘密の場所だからな、誰にもいうんじゃないぞ」
「うん」
 歩いている間に、冷たさもずいぶんと楽になっていました。
「おまえ、下手くそだからな」
「俺なんか二十匹は捕ったぞ」
「だって」
 片手だから、と言おうとしたのだけれどやめました。
 いつの間にかお尻も乾いてきて、少し元気になりながらひろ君は歩いて行きます。来るとき通った大曲の竹やぶの脇を通り抜けると、あたりが明るくなりました。田がずっと広がり、沈みかけた日に空が染まりかけています。さっき拾った棒で、草をしばきしばき行くけん君まで、なんとなく赤く見えます。
「もっとでっかいのが捕れるとこ知ってるから今度連れてってやるからな」
「うん」
 ひろ君の目が輝きました。
「手じゃ捕れねえからな。網持ってかなくちゃな」
「うん」
「おめえ、網あっか」
「ううん」
「おめえんち貧乏だからな」
 けん君のそんな言い方に、いつもならしゅんとなる所なんだけど、今は、そんな気は全然しないのです。
 夕日がいよいよ赤くなりました。靴もほとんど乾いています。さっきから暴れ回っているこぶなの振動がやけにくすぐったくて、それを、ちらちら見ながら歩いていきました。本当は、じっとのぞきたいんだけど、そんなこぶなくらいで何喜んでるんだと言われそうで、がまんしているのです。
 その中に、たった一匹だけど自分のが混じっているのです。どれだか分からなくなったけど、たしかに自分のがほかのと一緒に、ビビッと暴れているのです。

 

 家に着いたときはまだ空は明るかったけれど、日はもう沈んでいました。
「入れ物あるか」
「うん。待ってて」
 ひろ君は急いで家にはいりました。
「どこ行ってたの」
 とたんに恐ろしい声がとんできました。
「心配で捜し回ったんだから」
 お母さんがそんなに怒ることはめったにありません。だから、けん君にふなをもらいに行くどころではなくなりました。

 

 ご飯を食べた後、自分の捕ったふなのことを考えました。明日、言えば返してくれるかなと。むりかもしれないなと。
 外の田圃では、無数のかえるが鳴き交わしていました。

 

 翌朝、外へ出ると、空はすっかり曇って、今にも雨になりそうでした。ついてないなと思いました。そのうえ、昨日の嫌な気分がまだ残っていました。
(また靴が濡れるぞ。)
 ふと見ると、玄関の脇の壁に、ビニール袋がぶら下がっています。棒を立てかけて、その又のところに縛り付けられて危なっかしくぶら下がっています。
 そうなんです。信じられないことだけど。けん君が置いていってくれたみたいなんです。
 ひろ君は、すばやく袋をつかみました。でも、あのビビッという感じがありません。空に透かしてみると、あの銀色の光はどこにもなくて、ふやけたように白い腹を見せて、ふなはてんでに水に揺られています。
 昨日気が付けば、とひろ君はいつまでもそれを空に透かしていました。

『冒険者たち』目次
  夏 草