見えない「臓器売買」
読売新聞の記事より。
【愛媛県宇和島市の「宇和島徳洲会病院」(貞島博通院長)で昨年9月に行われた生体腎移植手術をめぐり、患者らが臓器提供の見返りに現金30万円と乗用車(150万円相当)を女性ドナー(臓器提供者)に渡したとして、県警は1日、患者で水産会社役員山下鈴夫(59)(同市中沢町)と、内縁の妻の同社社長松下知子(59)(同)の両容疑者を臓器移植法違反(売買の禁止)の疑いで逮捕した。
また、同病院など計3か所を捜索、カルテなどを押収した。1997年の同法施行以来、臓器売買での摘発は初めて。
県警は同日、特別捜査本部を宇和島署に設置し、ドナーの女性からも立件を視野に同法違反容疑で事情を聞くとともに、病院側が臓器売買を認識していたかなどを調べる。
調べに対し、山下容疑者は金品の提供を認めているが、臓器提供の経緯についてはあいまいな供述を繰り返している。松下容疑者は容疑をほぼ認めているという。
調べでは、重い糖尿病だった山下容疑者は松下容疑者の仲介で、松山市の貸しビル業の女性(59)から提供された左側腎臓の移植手術を昨年9月28日、同病院で受けた。両容疑者は同11月、女性の口座に30万円を振り込み、今年4月に新車の乗用車を渡した疑い。手術は成功し、山下容疑者は約1か月後に退院した。
松下容疑者はこの女性と知り合いで、女性から200万円を借りていたが、昨年8月ごろから「ドナーになってくれたら、借りた金に300万円を上乗せして返す。うちの人を助けたい」と再三、頼み込んでいたという。
県警は、今年2月に女性から、「頼まれて手術を受けたが、貸していたお金や約束のお金も渡してくれない」との相談を受け、内偵していた。
山下容疑者は松下容疑者を妻、ドナーの女性を義妹と、病院に説明していた。執刀した泌尿器科部長(65)は、読売新聞の取材に「きちんと提供者本人の確認はしていない」と話した。
日本移植学会の倫理指針では、生体移植で親族以外が臓器を提供する場合は、手術を行う医療機関の倫理委員会で承認を受けることと定めている。しかし、ドナーの本人確認については、現行法に規制がなく、同指針も具体的な確認方法までは定めていない。同学会は調査委員会を設け、調査に乗り出す。】
こんな記事もありました(読売新聞)。
【愛媛県宇和島市の総合病院を舞台にした患者側と臓器提供者(ドナー)による臓器売買事件で、国内の生体腎移植をめぐり、ドナーを「親族」に限定した日本移植学会倫理指針の“網”を逃れるため、両者の関係を偽装したりする実態が、患者らのカウンセリングにあたってきた医師の証言でわかった。
手術前に患者がドナーと偽装結婚する例もあり、病院側は学会指針より厳しい独自規定を設け、自衛を図っている。
証言したのは、東京女子医大腎臓病総合医療センターで35年間にわたり腎移植患者らのカウンセリングを担当してきた精神科医、春木繁一さん(65)(松江市)。
偽装結婚があったのは約10年前で、夫婦は腎臓移植を控えた中年女性と、ドナーになる予定だった「夫」。手術前のカウンセリングの際、夫婦の態度に疑問を抱いた春木医師が、夫婦と繰り返し面談を重ねていたところ、女性の前夫から「2人は偽装夫婦」と“告発”する手紙が届いた。
手紙によると、当初は前夫がドナーになる予定だったが、身体的な理由で断念。女性が同窓会で知人男性に相談したところ、気の毒に思った男性が腎臓提供を申し出た。女性は夫といったん離婚し、手術に備えて男性と“結婚”したという。結局、手術は見送られたが、春木医師は「当初は3人で共謀したものの、金のやりとりでもめたようだ」と話す。
暴力団組員が「養子」と称する若者を連れて来たケースもあった。「義父に恩義を感じているので、腎臓を提供したい」と、若者が緊張した表情で説明したが、養子縁組の日付を若者に問うと、戸籍の記載と違う答えが返った。半年後、「父子」は「移植をやめる」と言い残し、姿を消した。】
参考リンク:臓器移植を受けてでも、生きたいですか?
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僕がこの宇和島の事件の話を聞いて思ったのは、「借金のカタに臓器を取られるなんて、酷い話だなあ」ということでした。その後、臓器を「提供」したのは、お金を貸していた側だと聞いて、唖然としてしまったのですけど。借金は踏み倒され、臓器は取られなんて、本当に酷い。やっぱり、他人とお金の貸し借りなんてするもんじゃないよなあ、とあらためて決心しました。
ところで、この事件に関しては、病院側の「対応」についてもかなりテレビのニュースなどで取り上げられていました。僕はあれを観て、病院側はちょっとかわいそうだな、と同情してしまったんですよね。いや、例えばコンビニで買い物をするお客さんに「それ、どこからか盗んできたお金じゃないですよね」といちいち確認する店員がいないように、世の中というのはある程度善意で成り立っていると考えなくてはどうしようもないところがあるわけです。まあ、こういうのは病院側も「脇が甘い」と非難されてしまうことなのかもしれませんが、臓器移植というのは、基本的に「善意の提供」だというのが大前提ではあるのですよね。そりゃあ、目の前の人が、明らかに提供を嫌がっていたりすれば手術しないに決まっていますが、本人が提供を承諾している状況であれば、どこまで「本人確認」を行うべきかというのは、かなり判断が難しいことですし、それは本来、病院の仕事というよりは警察の領分のはずなんですよね。
まあ、この事件はあまりに異常かつ極端な例ではありますが、上に挙げた記事にもあるように、こういう「臓器移植をめぐるトラブル」というのは、けっこうみられるようです。表に出ないところでも、家族内で「誰が臓器を提供するのか」で仲が悪くなってしまったり、「お礼」のやりとりがあったりもするみたいですし。「親から子ども」というような、一般的にみて「そりゃあ、自分の命を危険にさらしても助けてあげたいだろうな」というような移植ばかりなら良いのかもしれませんが、現実的には、親に移植が必要なときには子どもがまだ小さかったり、子どもに移植が必要なときには、もう親は年老いていたりして、なかなかそうもいかないのです。「脳死移植」「亡くなられた方からの移植」という手段ももちろんあるのですが、みんなできればそちらのほうが望ましいと考えていますから、すごい倍率になってしまって、よっぽど運がよくなければ、その恩恵にあずかることはできません。
しかし、このような「臓器売買」というのは、まだあくまでも氷山の一角なのではないか、という報道もしきりになされているのです。日本国内でそれを行うのは至難のようなのですが、東南アジアや中国の一部などでは、「お金さえ払えば(しかも、アメリカなどで受けるよりもはるかに安く)、手早く移植が受けられる」というところもかなり存在しているそうです。そして、そこで利用されている臓器の多くは「お金に困った人たちが売ったもの」あるいは、「闇の組織に臓器を盗まれた人のもの」だったりするわけです。それでも、多くの日本人が、「海外移植」の道を選んでいます。命の危機に瀕してしまうと、「この臓器は合法的なルートのものかどうか?」なんて、気にしてはいられないでしょうし、それこそ「どこから来た臓器なのかには知らんぷりをして」移植を受けた人もたくさんいたはずです。高いお金を出して買う人が増えれば「供給」も増えたかもしれないし、少なくとも、お金持ちの日本人が、ある国の臓器を移植してもらうことによって、その国の「臓器をもらえるかもしれなかった人」の順番は、どんどん後回しにされていきます。それは、間接的に「誰かを犠牲にしている」ということでもあるのですよね。
ただ、参考リンクの文章でも書いたように、「積極的に臓器移植を望む」人なんてほとんどおらず、みんな「死ぬわけにはいかないから、仕方がなく臓器移植を受ける」のです。そりゃあ、「移植なんて受けなくても助かるのなら、そのほうがよっぽどいい」に決まっています。
他人に対しては、あるいは、自分の死を意識しなくて良い状況であれば、「臓器移植を受けてまで生きるなんて往生際が悪い」と感じるのは、けっして不自然ではありません。でも、自分や自分の愛する人が死に瀕していて、「臓器移植」という手段が残されていたとするならば、そう簡単に「あきらめる」ことができるかどうか。移植で使われるのは、もしかしたら「臓器売買」による臓器かもしれないけれど、生き延びるためにはその手段しかなくて、それが実際に可能なくらいの「お金」と「情報」があるとすれば……
むしろ、「できることを諦める」ことのほうが、勇気がいることなのかもしれないな、と僕は考え込んでしまうのです。もちろん、臓器売買は許されない暴挙なのですけど、違法な臓器であっても、移植は成功するときは成功しますし、一度移植してしまった臓器は、それが「不法な臓器売買によるもの」だったとしても、「犯罪だから、移植した臓器は元の持ち主に返す」というわけにもいかないでしょう。逆に、善意に満ち溢れた臓器でも、生着してくれないことだってあるのです。人の「生命」って、本当に皮肉で残酷だな、と感じることも、けっして少なくはないのです。
世界中に、「臓器移植のおかげで命を貰った人々」というのはたくさんいますし、この宇和島の事件のような例だけをクローズアップして「臓器移植は悪だ」と言うのはナンセンスだと僕は思います。でも、その一方で、「臓器移植」という「手段」が残されているかぎり、この手の「暗部」というのは、けっして無くなることはないのかな、という気がしてなりません。
太平洋戦争後まもなく、食糧難で国民のほとんどがヤミ買いをして生き延びていたとき、ヤミ買いを拒否し、頑なに配給だけで生活をしていた一人の判事が亡くなられました。この山口良忠さんという判事の名前と精神は今も語り継がれているのですが、そのことは、「本当に生命の危機が迫っているときに、高潔に振舞える人間というのは、ものすごく希少な存在なのだ」ということの裏返しでもあるのです。