「自分らしい出産」を求めて


参考リンク:お産をできる場が減っているのは確かだが(by 北沢かえるの働けば自由になる日記)


 僕にとって、「産婦人科」というのは、正直なところ「いちばんよくわからない科」のひとつで、当直のときに若い女性が受診されたりすると、内心ヒヤヒヤしているくらいなのです。だから、あまり専門的なことは書けませんが、参考リンクの文章を読んで思ったことなど。

 現代の日本でも、多くの妊婦さんにとっては、「産む場所を選べない」ような状況なのだということに、僕はちょっと驚きました。僕が働いているような田舎ならさておき、ちょっと都会に住んでいて正常妊娠であれば、「病院食はずっとフランス料理のフルコース」みたいな豪華な産婦人科で出産するのか、出産費用を抑えるために、それなりの産婦人科で出産するのかを「選べる」のではないかと思い込んでいたものですから。
しかし、【毎月検診を受けてはいるが、正直、ほとんどの妊婦は問題なしっぽい。】というのは、ひとつの事実ではありますし、とくに問題のない妊娠であれば、確かに、助産師さんを積極的に活用したりしながら、産科では定期チェックのみで良いのではないかという気もします。「そんなこと言って、万が一、何か起こったらどうするつもりなんだ?」なんて声が聞こえてきそうではあるのですけど。でも、その「万が一」を追求するのって、本当にきりがないことではあるのです。

 先日の外来での話。癌の再発の検査のために、3ヶ月ごとにCTの検査とします、と僕が説明すると、ある患者さんが「先生、3ヶ月で大丈夫なんでしょうか?3ヶ月のあいだに、急速に大きくなってりしてくることが絶対ないとは言い切れないでしょ?」」と仰ったのです。
それは、確かにその通りなんですよね。僕の経験上からも、1ヵ月くらいで急速に大きくなってしまう癌というのは存在しますし、そのために命を落とされる患者さんもいらっしゃいます。
でもそこで、「どのくらいの期間でチェックするのが適正なのか?」と考えてみたとき、さまざまな観点からみて、「この病気・病状からは3ヶ月」という基準が現時点ではできているのです。率直なところ、毎日CTを撮れば、再発をより早い時点で知ることができるのは間違いないんですよね。しかしながら、被爆の問題もありますし、いくらなんでも毎日病院で精密検査を受けるなんていうことは非現実的でなのです。結局は、「リスクと効果と効率のバランスがとれたところ」として「3ヶ月ごと」になっているのす。もちろん、その間隔は、必要に応じてアレンジしてはいくのですが。

 今、日本中で話題になっている、「産める病院の減少」というのは、本当に深刻な問題です。新しく母親になる女性たちが、「100%安全な分娩」を求めて、より設備の整った病院での出産を求める気持ちは、僕にもわかります。その一方で、「そんなの、100%安全なわけない」なんていうことは、それこそ、当事者である女性たちにだって、わかっているのですよね。妊娠するっていうのは、実感できる「身体の変化」をもたらすものだから、不安になるのも当然。「100%安全には、なりようがない」ことを知っていればこそ、「100%の安全性」を追求したくなる気持ちも理解できるのです。もしその確率が同じ100万分の1でも、悲惨な事故が自分やその周囲に起これば人はみんなその理不尽に怒り狂うし、宝くじで3億円が的中すれば、人はみんな、その僥倖に感謝をするのです。同じ確率で偶然に起こることでも、その「内容」によって、人はさまざまな感情に捉われます。でも、宝くじの的中は、みんな純粋に「幸運」だと感じるにもかかわらず、周産期のトラブルに対しては、「これは誰かの責任だ」と考えがち。いや、僕だって、自分が当事者だったら、やっぱり、「運が悪かった」で自分を納得させられる自信はないんですけどね。

 こうして、「100%安全な出産」が追求されていく一方で、出産という行為に「自分らしさ」を求める人たちも増えてきているのです。「より自然に近い」自宅分娩なんんていうけれど、【私らしい出産ってのは、リスクを背負うってことですよ。病院で産むよりは、赤ちゃんを危険にさらすかもしれませんよ。それでもいいんですか?】というリンク先の記事にに書かれている言葉について、母親たちは、どこまで考えているのでしょうか?
昔の女性たちは、「病院で出産するお金がない」から、自宅で出産していたのですから、彼女たちが「自分らしさの表現のために自宅で産む」人たちの話を聞いたら、どう思うのだろう。なんのかんの言っても、日本は豊かになったし、豊かでありつづけているのかもしれません。それこそ、飢餓の時代に「食文化」が成立しえないように、「選択の余地が無い」時代に「自分らしい出産」なんて、誰も考えないでしょうから。そして、極論すれば、正常妊娠であり、「お金と手間」さえ惜しまなければ、今の日本では、かなりの広いニーズに応えた「自分らしい出産」が可能なのです。正直「自分らしい出産ができる環境」が、「少子化対策」につながるかは、はなはだ疑問なんですが。

 でも、僕は最近思うのですよね。たとえば、都会に住んでいる人って、高い物価や住居費や渋滞や人ごみの換わりに、「便利な都会の生活」を手に入れているわけです。それを考えたら、自然が豊かでのどかで住居費も安い田舎暮らし(それはそれで気詰まりなところもたくさんありますが)をしている人が、「自分の生活に不便だから、この人口1000人の島になんでも売ってる巨大ジャスコを作ってくれ」と言ったら、やっぱり、「それはちょっと無理だろ…」とみんな感じると思うんですよね。にもかかわらず「病院は必要。自分たちの生活を守るのが当然」だという自己主張のもとに、かえって「田舎で働く医者」たちを酷使している面もあるのではないでしょうか。
以前、ここでも、『泉崎村立病院の「無責任な院長」と「僻地医療」の未来予想図』という文章を書きましたが、「地域医療」に対する、医療側の「田舎なんだから、できることには限界がある」という認識と、行政・患者側の「田舎なんだから、医者やスタッフが不眠不休で、地元の人たちのために尽くさなくてはならない」という認識のあいだには、もはや、「越えられない壁」の存在すら感じるのです。

 最近僕はこんなことを考えてもみるのです。どうして人は、電器製品の価格やスーパーでのトイレットペーパーの値段にさえこだわるのに、自分の命にかかわるはずの「病院選び」「医者選び」において、こんなに「偶然」に頼ってばかりいるのだろう?と。それこそ、普段から「下調べ」しておくべきことのような気がするにもかかわらず、そうやって準備をして病院に来られる人というのは、本当に少ないので。「医者なんて、みんな同じようなもの」だと思われているのだとしたら、それははたして、「均質化」されているというのを喜ぶべきことなのか、それとも、「どうして違いをわかってくれないんだ!」と悲しむべきことなのか……