<第6回雑文祭参加作品>
三年目の転身〜砂の女王の軌跡
「ベガはベガでもホクトベガだっ!」というアナウンサーの声、
思わず「何だそれ?」という言葉が口から飛び出す。
ホクトベガは、「もう終わった馬」ではなかったのか?
平成5年の【エリザベス女王杯】は、三冠達成を目指す名牝ベガが主役だった。
しかし、このレースを制したのは「ベガはベガでも」ホクトベガ。
言っちゃ悪いが、誰もがあまり期待していなかったはずの9番人気の穴馬だ。
京都競馬場の最期の直線の内側を縫うように抜け出してきたホクトベガの姿は、彼女の馬券など一枚も持っていない僕にとっては、まさに疫病神が馬の姿をして疾走しているようにしか見えなかった。
レースの後、「なんでホクトベガなんだ?」と何度自問自答したことか。
案の定、その「一世一代の勝利」のあと、ホクトベガは長い長い低迷期に陥った。
あのG1勝利はフロックだったんだ、そうみんな信じるようになった。
4歳の夏に北海道で連勝した以外は、「そこそこ人気になり、掲示板に載ることもある」という程度の成績が続き、僕たちは、この馬の未来に限界を感じていた。まあ、男馬なら卓抜した成績を残さなければ種馬にはなれないが、牝馬であるホクトベガには、期待される繁殖牝馬としての第2の馬生があるはずだ。
しかし、なかなかホクトベガは引退しなかった。口の悪い関係者は、「ホクトベガは繁殖牝馬としては血統があまり良くないから、なるべく現役を続けて稼げるだけ稼がせておくんだ」なんて言っていたっけ。
彼女が丈夫な馬で、引退の契機となるような大きな怪我をすることがなかったのも、その引退できなかった一因だったかもしれない。
平地では頭打ちとみて、G1馬とは極めて異例の障害転向も検討されていたという話もある。
さすがにこれは、周囲の評判が悪かったのか、実際に障害競走に彼女が出ることはなかったのだが。
平成6年8月から、平成7年12月までの約1年半に、走りも走ったり15回のレース出走。しかし、この15回のうち、勝ったのはわずか一度で、2着が三度。
G1ホース、しかも牝馬としては、異例の酷使だった。
平成8年1月24日、ホクトベガは、横山典弘騎手を鞍上に、川崎競馬場にやってきた。
ここにホクトベガが出走してきたのには、ひとつの伏線があった。
それは、前年6月に、この川崎競馬場で行われた、【エンプレス杯】というレースだった。
一年半の低迷期に、ホクトベガが唯一勝利していたのがこのレースであり、ホクトベガは、好スタートから2着の馬には影も踏ませぬ快走で、2着馬を18馬身も後方に置き去りにする凄いレースをやってみせたのだ。
ホクトベガの父であるナグルスキーは、ダートが得意な血統でもあり、この勝利は彼女の新しい可能性を示したものであった。
しかし、この勝利は、「中央のG1馬が、レベルの低い地方のダートのレースに出てくるなんてえげつない」などと揶揄されもした。いわゆる「空き巣狙い」のようなものだと。そして、当時は中央の馬が出走できる地方のレースは、ごく限られたものだった。
もともと日本の競馬界では芝コースでのレースが偏重されており、ダート(砂)のレースは、軽視されがちでもあったことだし。
ただ、ホクトベガの登場を待っていたかのように、少しずつ風向きは変わっていた。
世界的にはダートの競馬が盛んな地域も多く、また、バブル期以後は地盤沈下を起こしつつあった地方競馬への援助のため、JRA(日本中央競馬会)は、各地方競馬との「交流競争」というのをすすめることとなったのだ。
地方競馬のコースは、その大部分はダートであった。
それまで中央競馬で活躍すればするほど重い斤量を背負わされ、大レースも存在せず、ただ賞金を稼ぐしかなかったダートを得意とする馬たちに、新しい活躍の場が生まれた。
それまで人馬の交流がなかった中央競馬と地方競馬の垣根が、少しずつ取り払われようとされた時期と、ホクトベガの転機はちょうど重なったのだ。
そして、ホクトベガは、このレース【川崎記念】を5馬身差で圧勝し、ここから砂の女王の伝説がはじまった。
それは、彼女がデビューした平成5年1月から、ちょうど3年後のことだった。
それから、ホクトベガの破竹の進撃がはじまった。
【フェブラリーステークス(東京)】、【ダイオライト記念(船橋)】、【群馬記念(高崎)】、【帝王賞(大井)】、【エンプレス杯(川崎)】、【南部杯(盛岡)】、【浦和記念(浦和)】、そして、2度目の【川崎記念(川崎)】。
途中、【エリザベス女王杯】や【有馬記念】といった芝コースのレースでは破れたものの、ダートの交流重賞10連勝という不滅の記録を「砂の女王」は打ち立てたのだ。各地を転戦し、地元の砂の強豪の挑戦を真っ向から受けつつも、女王は勝ち続けた。
そして、6歳になっても走り続ける(普通、G1を獲ったような名馬は、せいぜい5歳くらいで引退するものだ)彼女の周りには、ある現象が起こりはじめた。地方のひなびた競馬場に、ホクトベガを応援するキャリアウーマンと呼ばれる独身女性たちの姿が、しだいに増えていったのだ。牝馬としてお母さんになってしかるべき年齢に達しても、黙々と全国の競馬場を「ドサまわり」しながら走り続ける「砂の女王」に、彼女たちは自分の姿を重ねていたのかもしれない。
ホクトベガは、そんな人々の想いに応え続けたのだ。
少なくとも、僕らは内心そうだと思い込んでいた。
そんな彼女にも、ついに引退レースがやってきた。
最後のレースは、アラビア半島の砂漠の国・ドバイで行われる世界最高賞金の大レース【ドバイワールドカップ】と決められた。
傍目にも、もはや、「砂の女王」ホクトベガにとって「最後に走るに相応しいレース」は、そのレースしかないように思われた。それは、「ダートレースの世界大会」であり、彼女にはもう、日本国内に敵はいなかったのだから。
その年のドバイは、砂漠の国には珍しい豪雨が続き、ワールドカップは延期されることとなった。
調整がやや遅れていたホクトベガ陣営にとっては、これは恵みの雨だといわれていた。
この延期のおかげで遠征の疲れも改善したホクトベガは、勇躍、世界最高のレースのスタートラインに立つこととなったのだ。
しかし、このレースの結果を書くことはできない。
というより、ホクトベガには、このレースの“結果”がないからだ。
「レース中のアクシデントによる転倒、故障により競争中止」
翌日のスポーツ新聞には、こんな記事が出た。
競馬ファンならば、「レース中の競争中止」が何を意味するのか知っているはずだ。
でも、そのレースの日の夜に「ホクトベガ競争中止」という一報が流れてからは、スポーツ新聞の編集部には、問い合わせの電話が鳴り止むことはなかったという。
「ホクトベガは大丈夫なんですか?」と。
それは、本当に性質の悪いドラマみたいな幕切れだった。
亡くなった馬の遺体は検疫を通過できないため、ホクトベガの遺体は故郷に還ることはなく、現地で荼毘に附され、日本に帰ることができたのは、彼女の遺髪のみであった。
「砂の女王」は、今でも異国の地、砂漠の国に眠っている。
ホクトベガの産駒はこの世にいないが、「ホクトベガじゃないベガ」の産駒は、一頭がダービー馬になり、その下の弟は先日、ホクトベガが勝った【南部杯】を圧勝した。
そして、彼女を応援していた「砂の女」たちは、ある者は結婚して子供をもうけ、またあるものは今も仕事に情熱を燃やしている。
今日もまたレースは続き、ホクトベガは、人々の心の中で走り続けている。
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